煙の恋
狭いワンルームの部屋に、キャラメルみたいな匂いの煙が漂う。
細く開けた窓から入った雨の混じった風が煙を奪っていく。
小さなソファにくっつくように座っているのに、温かな温度なんて感じない。
その代わりに感じるのは、重くて苦い感情だけ。
触れる肩から想いが爆発してしまうんじゃないかと言う不安に、そっとソファから立ち窓に身を寄せる。
慣れ親しんだ煙の匂いを忘れないように、肺に覚えさせるみたいに呼吸しながら、泣けない私の代わりに泣いてる空を見上げた。
狭いワンルームの部屋で、ソファと窓は歩けば2歩も離れていない。
こんなに近くにいるのに、あなたと私の手が触れ合う事は二度とない。
いつだって触れている筈なのに、抱き締めてる筈なのに、私の手はあなたには届いて無くて。
いつだって笑っている筈なのに、私を見ている筈なのに、あなたは寂しい目をしていた。
「好きだよ」
「愛してる」
抱きあっても、キスをしても、お互いの匂いが移るくらいに一緒にいても、愛を囁いても、あなたの心は見えないままで。
一言、言ってくれれば良いのに。そうしたら、私はあなたを離してあげられる。
優しいなら、愛してると言ってくれるなら、言って欲しい。
あなたがたった一言「サヨナラ」と言ってくれるなら、私は自分の気持ちに蓋をして、笑顔であなたを見送る事が出来るんだから。
狭いワンルームは、醜い感情で一杯の私にはお似合いだったけど、優しく綺麗なあなたには窮屈だったのかな。
本当は知っていたんだ。
あなたに私の他に好きな人がいるって。
私はその人の代わりだったって。
傷付いていた時に、告白したのが私だったって。
それでも、一生懸命に私を好きになろうとしてくれた事。
そして、それでもその人を愛したままで、私を愛せないままだった事。
身代りでも良いと思った。
卑怯だと思った。
けど、それであなたが私の傍にいてくれて、手を繋いでくれて、笑顔を向けてくれて、好きだと嘘をついてくれるなら、どんなに卑怯でも良いと思った。
思った。
思ったのに。
なんでかな?
寂しそうな目を見るたびに、心が痛いのは。
我侭で卑怯でこんなにも醜い私にも優しいあなたは、一言が言えない。
だったら―――……。
「あのさ、別れよっか」
「え……?」
小さなソファの上でくっつきながら座って、小さなテレビで古い映画を流しながら、海外のマイナーな煙草を吸うあなたの横顔を見て、何でも無い事のように言う。
目を大きくして呆然とするあなたを愛おしく思いながらも、もう一度、今度は目をしっかり見て言う。
「サヨナラ、しようよ」
喉を通るまではあんなに言いたくなくて辛い言葉だったのに、喉を通り過ぎたら、するすると出てしまう。
ローテーブルに置いたガラスの灰皿の上で、キャラメルの匂いの煙を漂わせて煙草が燃える。
揺れる瞳で私を見て、唇を震わせるあなたを抱き締めたくなったけど、それはもう私の役目じゃない。
伸ばしたくなった手をぎゅっと握りしめて、笑みを浮かべる。
「サヨナラ」
膝に肘をついて手を組み顔を伏せるあなたは、きっと自分を責めているんだと思う。
でも大丈夫。
あのね、あなたの好きなあの人ね、今、一人なんだって。
傷付いて寂しく過ごしてるんだって。
だからさ、チャンスだよ。
私の事なんか忘れて、本当に好きな人と一緒に過ごして。
「……理由、は……僕……?」
「…違うよ。私が、わがままなだけ」
そう。結局は私自身のせい。
あなたのせいでも、彼女のせいでもない。
窓から流れてくる雨の匂いで、煙草の匂いは消えて無くなり。
私のこの痛い気持ちも一緒に消えないかな、なんて甘い考えなんだろうな。
「ごめんね。ずっとわがままを言ってしまって」
告白した時に、あなたが一瞬悩んだのが分かった。
本当は断るつもりだったのだと思う。
それを遮るようして、私はあなたの手を握ったのよね。驚いて目を瞬かせるあなたに、私はわざと弱々しく笑って言った。
『今、好きじゃなくても良いから。嫌いじゃないなら、隣に居る権利をください』
あなたはそれに困ったように、でも、どこか縋るような表情で頷いてくれた。
ごめんね、ごめん。あの日、あなたを縛りつける言葉を言ってしまって、ごめんなさい。
私のことを愛そうとしてくれるあなたをを手放せなくてごめんなさい。
こんなに卑怯で醜い私が、あなたのことを好きになって、ごめんなさい。
「私ね、ずっと幸せだったよ。あなたが隣に居ることを許してくれて。私の隣で笑ってくれて。だから、あなたが謝る事なんて、ひとつも無いんだ。だから、ね。これが最後のわがままだから。笑顔でサヨナラしよう?」
額に押し付けられている手は力が込められすぎて真っ白で、微かに震えている。
それが可哀想で、それと同時に、少しでもあなたの心の柔らかい部分に私が居れたことに安堵も覚えて、そんな自分に嫌悪感が沸き上がる。
ああ、ほんと。なんて醜いだろう。あの人とは大違いね。
「……僕も、君が居てくれて、幸せだったよ」
泣きそうに歪んだ、今まで一番綺麗な笑顔であなたが言ってくれたから。
私はそっと詰めていた息を吐き出しながら笑った。どうか、どうか。この愛おしい人が幸せになりますように。
玄関の扉が閉められ、外から鍵のかかる音がした。そして何拍か空いて、新聞受けにぶつかった金属音。確かめなくても分かる。私が渡した合鍵だ。
「っ……ぁ……ぁあああああああ!!」
醜い慟哭が部屋に木霊する。全身を鋭いナイフで切りつけられたみたいな痛みが襲う。
これは報いなのだ。
私があの人の優しさを利用した、罰なのだ。
どんなに辛くても、朝は来る。鏡に映った自分の顔は、間違いなく人生で一番酷い顔をしていた。肌はガサガサで浮腫んで、瞼は腫れぼったい。眼球も赤くなっているし、鼻なんてかみ過ぎて皮が剥けている。
声だってまるでどこぞのおっさんみたいなガラガラ声。
ここまでくると、なんだか笑えてきた。
いい年した女が、こんなになるまで泣くだなんて、なんて滑稽だろうか。
ぬるま湯で優しく顔を洗って、スキンケアジェルを塗りたくる。電子レンジで作ったホットタオルでパックして、丁寧に美容液を浸透させて。
そうやって私を作っていく。いつもよりも時間をかけて作った私は、自分で言うのもなんだけど綺麗な顔をしていた。なんて皮肉だ。
この恋はまるで煙の恋。
そこにあるのが見えるのに、触れることができなくて。
次は、煙なんかじゃなくて、ちゃんと触れることのできる、私に触れてくれる恋をしよう。
だから、さよなら、愛おしい煙の恋。
あなたも今度は、触れられる恋をしてください。