てんしのはしご
初夏の爽やかな空気のにおい。夕日の柔らかい橙色。夕立が地面にはじく音。雨上がりの道路のきらきら。そういった日常のふとした瞬間に、僕は彼の面影を見いだす。もうずいぶんと昔のことで、僕の記憶の中からも消えてしまいそうだから、ここに、書き残しておこうと思う。小学五年生の五月に出会った、あの不思議な少年のことを。
***
「なぁなぁ、お前さ、『天使のはしご』って知ってるか?」
五月の初め、ゴールデンウィークを明日に控えた帰り道。偶然帰り道が一緒になったぼくに、うきうきとランドセルを揺らしながらクラスメイトのヤマトくんはそう尋ねた。
「『天使のはしご』……って、空の? 雲の隙間から光が漏れるヤツのこと?」
「ちがうちがう、あってるけどそれじゃなくてさ、都市伝説! 聞いたことある?」
「いや……聞いたことないけど」
きらきらと目を輝かせながら話すヤマトくんとは裏腹に、ぼくは下を向き、道端の石ころを蹴ったりなんかして話半分に聞いていたのだった。しかしそんなことも気にせずに、ヤマトくんは話し続ける。ただ誰かに話せればそれでよかったみたいだ。
「よっしゃ! 知らないんだな! これ、すごい話なんだよ! あのな、六組の岡本から聞いたんだけど、死んだ人が天国からさ、その光のはしごから降りてきて俺たちの前に現れるんだって!」
「ふうん」
「岡本の知り合いは去年死んだじいちゃんに会ったって。幽霊なのに触れるしご飯も食べたんだけど気づいたら消えてたらしい。すごくね?」
「うん」
「だよな! すごいよな! あっ、じゃあ俺、向こうの道だから。ふれあいまつり来いよ! じゃあな!」
話したかった『すごい話』を話して満足したらしい。ヤマトくんは、一度もこちらを振り返らず、これからの連休が楽しみであるというのが伝わってくるほど、ぴょんぴょん跳ねるように走り去ってしまった。そんな彼を、ぼくはため息をつきながら見送ったことを覚えている。連休が楽しみなヤマトくんがうらやましかったのだ。
ぼくの家は、お父さんがいない。リコンとかボシカテイじゃなくて、単身赴任。仕事の内容はよくしらないけど、佐賀県の田舎でひとり、がんばっているらしい。そしてたまに、お母さんも家にいない。バリバリのキャリアウーマンだから、お父さんみたいに出張があるのだ。いつもそんなときは群馬のおばあちゃんが来てくれるのだけど、先週腰を痛めてしまったから。ひとりっこのぼくは、このゴールデンウィークにひとりぼっちになってしまった。でも冷蔵庫にお母さんが作ってくれたおかずがあるし、冷凍食品もある。ぼくはご飯だって炊けるし洗濯もできる。テレビだって見放題だしゲームも夜遅くまでできる。だから一人でもぜんぜん平気なのだけど、やっぱり少し、さみしいんだ。
そんなガッカリした気持ちでいつもの帰り道をとぼとぼ歩く。おとなしい犬がいる家を右に曲がって四軒目。玄関ドアに近づいて家のカギをポケットから取り出した。イルカのキーホルダーがついたカギ。それで玄関を開けて中に入る。厚くて重たいこの扉のおかげで防犯対策はバッチリだ。チェーンもかければ、カンペキ。これでもう一人でも安心だ。さみしいけどね。
靴をテキトーに脱いでランドセルを放る。いつもは二階にある自分の部屋に置くんだけど、面倒だから放置。そしてぼくはそのままリビングのドアを開けたのだった。
「あ、おかえりー」
まるで昔からこの家に住んでいたかのように、ゆったりとソファーに座ってぼくに手をふるこの人はぼくの知り合いであっただろうか。
リビングのドアを閉めて玄関を確認する。さっき脱いだスニーカー。ぼくのサンダル。お母さんのかかとの高いツルツルの靴。ドアストッパー。欠けた靴べら。たしかにここはぼくの家だ。じゃあさっきの人はきっとつけっぱなしのテレビとか見間違いとかにちがいない。そんなことを自分に言い聞かせながらもう一度ドアを開けた。
「どうしたんだよ、開けたり閉めたりしてさぁ」
やっぱり、いる。
ぼくよりちょっと年上くらいのこの男の子はどう見ても知らない人だった。それに今朝はしっかりとカギをかけて学校へ行ったはずなのに。でもたとえこの人がドロボウだったとしても、こんなに堂々と、まるで自分の家のようにゆったりとするだろうか。それにぼくくらいの子どもだし。
ぼくは意を決して、この見知らぬ男の子に話しかけてみることにした。
「あの、あなただれですか? ぼく、会ったことありましたか?」
「え? ああ、おれか。うーん、なんと説明するべきか……」
男の子は、あごに手を当てて考え込んでしまった。
本当に、ドロボウです、なんて言われてしまったらどうしよう。とも思ったけど、そんなにマヌケなドロボウはいないだろうし、そんなドロボウならぼくでも勝てそうだ。でもこの妙な落ち着き……もしかしたら、ものすごくアブナイ人なのかも……!?
「……あのさ、実はおれ、昔この辺りで死んだ幽霊なんだよね」
男の子は困ったように笑いながら、ぼくにそう告げた。
***
「……え? ゆうれい?」
「いえーす! ざっつらいと!」
男の子はにこやかに笑って、親指をグッと立てた。ほんとに幽霊なの? と言いたくなるくらいに幽霊らしさはみじんも感じられない……。
「まあまあ、聞いてくれ。おれが死んだのは今からだいたい十年前くらいなんだ。ぼんやりとしか覚えてないんだけどさ……まあたぶんそのくらいだ。お前のこの家が建つ前にここにあった家で暮らしてたんだ」
「なんで死んじゃったの?」
「そのへんもうろ覚えなんだが……たしか台所のガスかなんかが爆発してまき込まれた、と思う」
ガス爆発。その言葉に背筋がゾワっとした。今回の留守番のごはんは電子レンジでチンだけにしよう。
「でもそれだけじゃ幽霊だなんて信じられないよ」
「ふっふーん。そう言うと思ったぜ。ほら、これを見ろ!」
そういうと幽霊さんはズボンのすそをめくってみせてくれた。くつ下の上の足首の辺りを指さしている。
「な? 透けてるだろ?」
顔を近づけてじっくり見てみると、触れるけど、たしかに少し透けている。本当に、この人は幽霊なのだ。
「信じたか?」
「うん。でもなんでここにいるの? 悪い幽霊じゃなさそうなのに」
「そこなんだよ! 天国での記憶がほとんど無いんだけど、おれさ、何かしらの未練があって『はしご』から降りてきてるっぽいんだよなあ」
「現世でやり残したことがあるから帰れないの?」
「うん、そうだったと思う。でも、それがまったく思い出せないんだ」
せっかく十年も天国にいたのに、ひとりぼっちでまたこっちにきてしまうなんて。ぼくは放課後に学校でひとり居残り勉強をさせられたときの気持ちを思い出した。この幽霊さんもきっとそんな気持ちなのかもしれない、と考えたらだんだん幽霊さんが可哀想に思えてきたのだ。不思議と幽霊が怖いという感情は湧いてこなかった。
「じゃあ、ぼく、その『やり残したこと』をいっしょに探してあげるよ!」
こうしてぼくと幽霊の奇妙な共同生活が始まったのだ。とりあえずぼくは彼のことを、幽霊さん略してユウさんと呼ぶことにした。
***
こうして五日間あるゴールデンウィークの三日間、ユウさんのやり残したことを見つけるためにありとあらゆることを試した。一日目はいっしょにごはんを食べて (ユウさんは幽霊なのにごはんを食べる。ヤマトくんの言ったとおりだ)、テレビゲームして、そのあと百キンで買ったゴムボールでキャッチボールをした。二日目は学校の横の林を探検して駄菓子屋に行った。コンビニでケーキを買って二人で食べたりもした。三日目はひたすら鬼ごっこだ。全部楽しかったし、ユウさんも楽しそうだったけれど、まったく成仏しそうな気配がない。むしろピンピンしている。ためしたこれらはぜんぶ『やり残したこと』ではなかったようだ。
「ねぇ、まだ思い出せないの?」
正直言うと、もうネタ切れだ。というか、おこづかいも限界に近い。
「ショウタには悪いけど、まだハッキリとは思い出せないなあ」
生前や死んだ直後の記憶はなかなか戻らないものらしい。わざわざ天国から戻ってくるくらいなんだからそろそろ思い出してもいいと思うんだけど。
「なんかさー、行きたいところとか、ないの?」
「行きたいところ、ね……」
そういってユウさんは考え込む。たっぷり六十秒悩んだあと、覚悟を決めたように顔をあげた。
「なになに?」
「……おれ、ショウタの通う、学校に行ってみたいなあ」
学校。まったくの盲点だった。ゴールデンウィーク中に学校へ行こうなんて思いもしなかったのだ。でも、その口ぶりからすると、ただ学校に行けばいいというものでもなさそうだ。きっと、ぼく以外の大勢と接してみたいのだろう。でも今学校休みだし……。
「そうだ!」
「え、なに?」
ふれあいまつりがあるんだ。
***
ふれあいまつりとは、ゴールデンウィークの最終日に毎年やる小っちゃい文化祭みたいな学校行事だ。お父さんお母さんや高学年のみんなが準備をして低学年の子たちを楽しませるのが目的だけど、準備をしたぼくたち高学年も交代で遊ぶことができる。もちろん休みの日だから当日は来てもいいし来なくてもいい。
「でも、おれ、部外者だけど、入れるのかなあ」
「お母さんの分のチケットが余ってるから大丈夫だよ。親戚とかテキトーに言っておけば」
「大丈夫ならいいんだけどよ……こんなの生まれて初めてだからなんかキンチョーするな!」
「えー、ユウさんもう死んでるじゃん」
ぼくたちはくもり空のなか、通学路をてくてく歩いていた。緊張しているからなのか、くもり空だからなのか、なんとなくユウさんの透明度が上がっているような気がした。よく見なきゃわからないくらいだけど。
「ショウタのクラスは何やるんだ?」
「えっとね、三組と合同で『お化け迷路屋敷』やんの。お化け屋敷と迷路の合体で、体育館貸切でやるからすごいんだよ」
「すっげーなそれ! めっちゃ怖そう!」
学校に到着したので、校門をくぐり体育館へ向かう。時間が早かったらしく、開始までまだ時間がありそうだった。
「……あれ、おかしいな」
「ん? どうかしたのか?」
開始までまだ時間があるとはいえ、体育館の入り口にはなんの飾りつけもされていない。あるとしたら、扉に貼られている『準備中』の紙だけだ。
「準備中? ショウタは手伝わなくていいのか?」
「うん……ぼくは始まってからの係りだから……」
扉を開けて中を見てみると、そこは、まだ半分くらいしか迷路がない、中途半端なお化け屋敷 (仮)って感じだ。明らかに準備が終わっていないし人も少ない。これって間に合うの?
「おおっ! 来てくれたんだなショウタくん!」
どうするべきか入り口で呆然としていると中から声をかけられた。クラスメイトのヤマトくんだ。
「ちょうどよかった、手伝ってくれ! ぜんぜん人が足りなくてさ……みんな旅行とか入って来れなくなっちゃって」
リーダーのヤマトくんは、ただでさえ遅れていた準備を、少ない人数で頑張っていたらしい。流石にいつも元気なヤマトくんもあまりの人の少なさにしょんぼりしてしまっている。
「とにかく! 中に入って準備を手伝ってくれ! 時間がないから!」
「わかった、手伝う! あ、ユウさんごめん。ちょっと待っててよ。学校の中うろうろしてていいから」
「……いや、おれも、手伝いたい」
おずおずと、ヤマトくんの顔をうかがうように発言したユウさんに少し驚いてしまった。めんどくさがりで大ざっぱなユウさんのことだから、校庭のブランコかなんかに乗って時間をつぶすものだとばかりおもっていたのだ。
「ショウタくんの友達? ありがとうありがとう! じゃあ段ボール切って!」
こうしてぼくたちは一時間ちょっと、迷路を作り続けた。ぼくはこういう作業苦手だし、来なかった人にちょっと怒ってたんだけど、みんなに交じって作業をしているユウさんはとても楽しそうだった。
***
「いやあ! めっちゃ楽しかったな!」
「え~、楽しくはなかったなあ」
結局あの後も人はあまり増えず、ぼくたちはお化け迷路屋敷の係りとして働きづめだった。ぼくの係りの時間が終わってもユウさんの希望で続けたのだ。ユウさんの『やり残したこと』って労働だったの? でもまだユウさんは生き生きとしていて成仏しそうになさそうだ。
「あっ! ショウタ! 見ろ見ろアレ! 金魚すくい!」
「金魚はだめだよ~。水槽あるけど世話したくないもん」
「おれが世話するから! ほら!」
「でもさ~」
「金魚すくいがおれの『やり残したこと』のような気がする! 成仏できそうだぞ! な!?」
「ぜったい嘘でしょ!」
と、言いつつも、『やり残したこと』かもなんて言われたら、ぼくはもう断れないのだ。係りのおばさんに三十円払って一回やらせてあげることにした。ユウさんは金魚すくいが絶望的に下手で、お情けの二回目でようやく赤くて小さい金魚をすくったのだった。
「わるいな、すげー楽しかったけど『やり残したこと』じゃなかったっぽい」
「そうだと思ったよ~。ちゃんとユウさんが世話してよ」
「うん、わかった」
空をおおう厚い雲は黒く、遠くから雷の音が聞こえてくる。夕立が来るかもしれない。
***
「うわー、傘持っていけばよかったなあ」
金魚すくいのあと、雨が降りそうだったから急いで帰ったのだけど、間に合わずびしゃびしゃになってしまった。でもユウさんといっしょに金魚を守りながら走って帰ったのはけっこう楽しかった気がする。ユウさんといれば、ハプニングも楽しい遊びに変わってしまうのだ。小さい水槽に金魚を移す。カルキを抜いた水ができるまではこの浅さで我慢してもらおう。それをいったん窓辺に置いて、タンスからタオルを引っ張り出した。金魚優先でまだぼくたちの体をふいていなかったのだ。
「ユウさんもタオル使うよね?」
返事がない。金魚に夢中なのかと思ったら、違った。ユウさんはカーテンをつかみ、窓の外をじっと見つめている。
「どうしたの、ユウさん。風邪ひくよ」
「思い……出したんだ」
「……なにを」
「ついさっき。窓の外を見たら、思い出したんだ。ぜんぶ」
ユウさんの声は弱弱しく、いつもの元気さや豪快さは感じられなかった。
「おれ……おれは、事故で死んだんじゃない」
雨がいっそう強くなり、雨粒がアスファルトにはじける音がよく聞こえた。
「どういうこと?」
「おれさ……友達、ぜんぜんいなくてさ。みんなの輪に入れなくて、学校行ってもなんか浮いてて、楽しいことなんて一個もなくて……いる意味あるのかな~、とか思うようになってたんだよ」
ユウさんの声が震えて、どんどん小さくなっていく。でもぼくは、なぜだか一歩も動けなかった。
「でさ、なんか、虚しくなって、親にも言えなくてさ、それで家で…………」
ジサツ、だ。テレビでしか聞いたことがなかった単語に胸の奥がスっと冷たくなった。窓の外を見るユウさんの顔は見えない。
「ばかだよなあ。こうやって、まっさらにぶつかっていけば、友達なんて簡単にできたのに。一回でも素直に『いっしょに遊ぼう』って言えば、友達なんてすぐできたのに。いっしょに笑ったり、はしゃいだり、冗談言ったり……そんな普通の、友達が……」
雨の音が小さくなってきた。もう、雨が上がるのかもしれない。
「ごめん、お前にはいろいろ迷惑かけた。でも楽しかった。……成仏なんて、しなくていいと思えるくらい。それくらい楽しかったんだ」
ユウさんがふり返ってぼくの顔を見る。
「十年目に会えたのが、お前でよかったよ」
雨の音が消えて、暗かった空が徐々に明るくなってきた。雲が割れて光が差し込む。
「じゃあな、ありがとう」
そう言ってユウさんはぎこちなく微笑んだ。今までのユウさんとは全く違う、不器用な笑顔だった。生きてるときのユウさんは、こういうふうにしか笑えなかったのかもしれない。そんなことを考え、一回だけ瞬きをした直後、ユウさんは消えてしまっていた。思わず名前を呼ぼうとして息を吸ったけど、声にする前に飲み込んだ。ぼくはユウさんの本当の名前を知らないままだったのだ。
「金魚、自分で世話するって、言ったのになあ……」
空から下りている天使のはしごが窓に射しこみ、赤い金魚をきらきらと照らしていた。
以前書いたものを児童文学としてリメイクしました。