第三章 千光寺山(1)
「お祭り?」
「そう、来週あるの。あっ」
薫はそう言葉を切って、久志のことを軽く睨んだ。
「今、莫迦にしたでしょ。田舎だなぁ、て」
10月ももう終わりかけた、土曜日の午後のことだった。
ふくやま美術館と広島県立博物館の間に広がる緑の敷地にも、そこここに微かな色づきを見せる木々があり、確かな季節の深まりを感じさせる。
夕暮れにはまだ間があった。西に少し傾きかけた柔らかな秋の陽射しが、芝生の上にこぼれんばかりに降り注いでいる。その上で両親と戯れる幼子。穏やかで静かな、それは幸福に満ち溢れた光景だった。
「莫迦になんてしてないよ」
薫のあらぬ言いがかりに、久志は思わず苦笑いを浮かべて、
「お祭りかぁ。ウチのそばには、そういうことをやる神社とか、なかったからなぁ」
「ほら、やっぱり莫迦にしてる」
「そんなことないって」
薫が今話題にしているのは、毎年11月3日に行われる『ベッチャー祭』のことである。
吉備津彦神社の例祭であるこのお祭りは、三匹の鬼が人を追い回し、叩かれるとその年は病気をしないという言い伝えのある、一風変わった尾道の遅い秋祭りだった。
その日は御輿も出て、普段は静かな街も人で溢れ返り、露店も軒を連ねる。尾道の街中が華やかな雰囲気に包まれるのだ。
いつもと変わらぬ、久志と薫のまるで掛け合い漫才のような軽快なやりとりを黙って聴きながら、萌子はぼんやりと久志の顔を注視していた。
数日前の、尻切れトンボとなった彼の台詞が、萌子の脳裏に焼き付いたままだった。
あの後、久志は急に我に返ったように小さく2度、3度と首を振ると、
『何話してるんだろ。ごめんね、こんなどうでもいい話しちゃって』
そう照れ笑いを浮かべてから、わざとらしく腕時計に目をやって、
『ほら、そろそろ薫さんを迎えに行かなきゃ』
と空々しく帰り支度を始めたのだった。
二人で閑散とした廊下を歩きながら、萌子は話の続きを聴きたいという欲求と、問い掛けることの出来ない自分の意気地のなさに胸苦しさを覚えていた。
そうして武道館で薫と落ち合うと、久志と二人きりになるチャンスはその後2度と訪れなかった。
『父とはきっともう2度と会うことはないから』
あの時、久志は確かにそう言った。その直前の台詞と重ね合わせれば、それが死別を意味するものでないことはすぐに判る。
あれから、萌子はずっと久志が発したその台詞の意味を考えていた。矛盾だらけのその想像の中で、
(わたしと同じ痛みを抱えている……)
そんな漠然とした予感が、胸を捕らえて離さなかった。
「先生、その日は暇?」
薫が意味ありげな微笑を浮かべてそう尋ねた。
「休みの日は、断らなくったっていつも暇だよ」
久志が皮肉たっぷりの笑みでそうやり返した。
「あら、これは独身男性に失礼な質問をしてしまいました」
悪びれた様子もなく、薫はそう小さく頭を下げてから、
「じゃあ、私たちと一緒に行きます? お祭り」
と尋ねた。
「自分の教え子が変な男にナンパされたりしないよう、監視役について来るっていうのはどうかしら? それなら、教え子と歩いていてもおかしくないでしょ?」
彼を相手にするとどうにも一言多い薫に、久志は思わず苦笑して、
「それじゃ、大切な教え子が悪い遊びを覚えないよう、ついて行くことにしますか」
「先生、一緒に来るんですか。あ、でも薫」
思わず心の底からこぼれそうになった笑顔を中途半端に浮かべてから、萌子は薫を振り返って、
「その日は、龍太君も来るんじゃないの?」
「あ、龍太ね、その日来れないんだって」
素っ気ない表情で薫はそう答えた。
「あ、そうなんだ……」
「バンドのね、練習が忙しいって」
一人会話に取り残された久志が、それでもその穏やかな顔を崩すことなく、
「誰のこと?」
「昔、近所に住んでいた男の子なんです。和田龍太君ていうんだけど、中学に入る前に引っ越しちゃって今は福山に住んでいるんです」
「高校に入るまで、ずっと連絡取ってなかったんだけどね」
萌子の台詞を補足しながら、薫は急にニヤニヤとした顔をして、
「昔っからね、萌子のことがお気に入りなの。だから高校生になってこの娘が福山に来てること知って、連絡取って来たって訳」
「薫! 何言い出すのよ」
薫の思いも寄らない台詞に、萌子は顔を真っ赤にして声を荒げた。
そんなはずはない。薫の言っていることはまるっきり逆だった。小学生の頃から、龍太がお気に入りだったのは薫の方なのだ。
うろたえたように顔を強張らせた親友の反応を見て、薫は満足げな表情を浮かべて、それから萌子の背後の久志に向かって、
「センセイ、顔が青ざめてますよ。もう、冗談なんですからそんなに焦った顔しないでくださいよ」
「別に僕は驚いたりしてないよ」
薫の台詞に萌子が背後を振り返った時には、久志は特別変わった表情はしていなかった。皮肉屋な薫独特のジョークだと頭の中では理解していながら、彼女は急に弾んだ鼓動の乱れを押さえることが出来ずにいた。
「そうそう。龍太君は小さい時から薫一筋なんだから」
そう素っ気なくやり返したつもりの台詞が、唇の上で上滑りした。
「……彼、バンドやってるんです」
気まずい半端な間を置いて、その場を取り繕うように萌子は台詞を続けた。
「アマチュアだけど、福山じゃ結構有名で」
「明日ライブなの。そうだ」
薫がいつものように、唐突に久志を振り返って、
「先生も、明日来ません?」
「明日? あ、いや……」
薫の誘いに、久志は何故か急にうろたえた顔になって、
「明日は、ちょっとダメだ」
「あれ? 『休みの日は、断らなくったっていつも暇』なんじゃなかったでしたっけ?」
薫の意地悪い視線に、久志は思わず苦笑した。
平日よりごみごみとしたコンコースを素通りすると、三人は福山駅の南口へと出た。
今日は福山の街に寄り道して、久志の服を萌子たちが選んであげることになっていた。数日前からの約束である。
『福山で買い物をするとしたらどこかな?』
登校途中の電車の中で、久志がそう二人に尋ねて来たのがそもそものきっかけであったが、
『あたしたちが選んであげるわよ!』
と薫が張り切った声を挙げると、途端に久志は弱腰になった。
『い、いやそんないいよ』
『遠慮しなくっていいって。前からあたし思ってたのよね。センセイもうちょっと若々しい恰好した方が良いんじゃないかしら。今の服、ちょっとイケてないんだもん』
そんなお節介を焼かれるのが怖くて遠回しに『お断り』してるんじゃないかしら、と萌子はその時そう思ったのだが……。
「薫、どこ行く? 天満屋?」
萌子がそう訊くと、薫は小さく3回ほど首を振って、
「ダメよ。あそこに行っても大人しい服しか置いてないわよ」
「あの、大人しいので充分なんだけど……」
久志の蚊の鳴くような抗議は、あっさりと無視された。
「まかして。こっちこっち」
薫はそう言って、二人を駅のすぐ横に立つ『キャスパ』へと引っ張って行った。
そこは萌子たちもよく利用する、比較的若向きな店が揃ったテナントビルだった。彼女たちぐらいの年齢層が好みそうな雑貨屋やカジュアルウェアの店が多く入っている。
女子高生がたむろする一画を歩きながら、久志がおろおろと周囲を見回している。その姿が可笑しくて萌子は含み笑いを漏らしながら、
(別にこういう場所にいても、ちっともおかしくない歳なのになぁ)
などと思ったりしていた。
確かに普段の久志の恰好は、お世辞にもあか抜けているとは言い難いものがあった。
赴任初日がスーツ姿だったのはけじめとして判らなくもなかったが、その後も彼は萌子と出会った時と同じ浅葱色のジャケットを毎日のように着用し、下も地味な色のスラックスでご丁寧にネクタイまで締めて来ていた。
まだ休日に久志と顔を会わせたことはなかったが、その服装は萌子にもだいたい想像がつく。
まずは社会人向けのシックな感じの店で、久志が所望した薄手のコートを選んだ。
「こういう明るい色、似合うかなぁ」
カーキ色のコートを纏って心細げに鏡を覗き込む久志の横で薫が、
「ほら、これでおじん臭くなくなったでしょ」
と言ったのには、萌子も思わず吹き出してしまった。
「薫ったら失礼じゃない。先生そんなに老けてないよ」
「顔はね、顔は。素材は良いんだから、もったいないじゃない」
そう言いながら薫は、じっと久志の顔を見つめて、
「髪型も何とかしたいなぁ。今度、あたしの行っている美容院に連れて行ってあげようか」
萌子と薫はその店を出ると、更に別の店へと足を運んだ。
「今日はコートだけでいいよ」
「ダメダメ。そんな野暮ったい恰好で来られたら、一緒に歩けないじゃない」
薫のそんな台詞に、不意に萌子は久志と一緒に歩く風景を思い浮かべた。それは淡い光に包まれた、優しい光景だった。
(そっか。先生と尾道の街を歩くんだ)
そう思った刹那、胸の奥の方からコトコトと何かが沸き上がって来た。
相変わらず辛辣な薫の言葉に、久志は口をへの字にして不満そうな表情を浮かべている。それを見て萌子は可笑しそうに笑ってから、急に薫を追い抜くと店先に飾られたトレーナーを手に取った。
「ね、これどう? これならうんと若く見えるよ」