第二章 美術部(4)
久志が赴任してから数日後に、彼の所に美術部の顧問の話がやって来た。
「体育系の部活と違って特に指導する必要はないですから、気楽にやって下さい」
教頭のその一言を待つまでもなく、彼は喜んでその役を引き受けた。
「へえ、パステルを使うんだ」
それが、美術室で萌子の絵を見た時の久志の第一声だった。
美術部顧問として初めて放課後の美術室を訪れた彼は、改めて簡単に自己紹介を行い、それから生徒たちが各々作品に取り組んでいるところを一人一人巡回した。
久志は、萌子のところから一番遠い生徒から順番に回り始めた。彼が自分のことを充分に意識しているのが手に取るように判って、萌子はつい可笑しくなった。
じっくりと時間を掛けて、まるで萌子のそばに近づくのを避けるような動きで、久志はようやく彼女の背後に立った。
「ええ」
久志の問い掛けに、萌子はキャンパスに顔を向けたまま答えた。
普段の美術の授業では、今はクラス全員が水彩による静物画に取り組んでいる。そういえば久志の前でパステルを使うのはこれが初めてだということに、彼の台詞を聴いて萌子は思い当たった。
萌子がパステルを使うようになったのは、母の影響だった。
彼女が物心ついた頃から、玲子はパステルを使ってイラストを描いていた。その特徴的な甘い色調と多彩な色種を巧みに使って彼女が描き出す世界は、繊細で暖かみに溢れていて、多くの人の心を魅了する。
彼女は現在、尾道や福山など幾つかの街のタウン誌と、神戸で発行されている大手の地域情報誌で活動をしている。二年前には、こんな地方で活動しているイラストレーターとしては異例の、画集の発表も行った。
決してメジャーではないけれど、関西を中心に彼女のファンは結構多く存在するのだ。家には時折ファン・レターも届く。
萌子が初めてパステルに触れたのは、小学5年生の時だった。千光寺山からの夕景を上手く色に表すことが出来なくて、母に相談を持ち掛けたのがきっかけだった。
萌子が玲子に絵の相談をしたのは、それが初めてのことだった。優しそうに目を細めて、母は自分の仕事場から幾つもの橙色系のパステルを持って来た。
それから彼女は、自分の娘にパステルの使い方を教えた。比較的初心者向きと言われるその画材の色使いを、懇切丁寧に。
優しく柔らかなタッチが描き出せるこの画材は、萌子のお気に入りだった。画題のほとんどが尾道の街と薫の肖像である萌子にとって、その街並みや親友の横顔の優しさを表現するのに、パステルの色調はちょうど打ってつけなのだ。
「最近は、パステルと水彩を併せて使ってるんです」
真っ直ぐに何かを見つめる、凛とした薫の横顔を捕らえたその絵を見て久志は一言、
「似てるね」
と評してから、どこか嬉しそうな柔らかな笑顔を浮かべて、
「僕と一緒だ」
「え?」
「僕も、パステルを使うんだ」
窓辺で揺れる逆光の中で、久志は静かに微笑んだ。
「そ、そうなんだ……」
慌ててキャンパスに視線を戻しながら、萌子は破裂しそうな自分の心臓を必死になだめ透かした。
その揺れ動く気持ちが、自分と久志の共通点をまた一つ知ったせいなのか、それとも逆光の中で微笑む久志が美しかったからなのか、萌子にはよく判らなかった。
ただ一つだけ確かなことは、その体中を駆け巡る想いがひどく心地良いものであるということだった。
「先生は描かないんですか?」
わざと視線を逸らして、萌子は意地悪っぽい口調でそう尋ねた。
「うん……」
久志はそう小さく頷いたきりで、恥じらうように黙り込んだ。
萌子にはあんなに威勢の良いことを言っていた癖に、最初の2日間彼はすっかり萎縮したように、ただ黙々と部員たちの作品を見て回るだけであった。
しかしとうとう堪え切れなくなったのか、3日目の夕暮れに彼はこそこそとデッサン用の鉛筆を取り出した。
「へえ、上手いなあ」
久志のキャンバスをこっそり後ろから覗き込んだ3年の男子が、思わず感嘆の声を挙げた。
「おいおい、覗き見するなよ」
久志は照れ臭そうに、慌てて自分のキャンバスを手で覆い隠す真似をする。
「いいじゃん先生、上手いんだから」
その声を聞きつけて、他の生徒たちも久志の周りに集まって来た。
「ホント、上手いねえ」
それは、窓から見える木々の向こうの福山城の天守をスケッチしたものであった。幾つかの線を走らせて輪郭を整えただけの、全くの未完成品である。それでもそのしっかりとした力強いデッサンは、彼の技術の高さと確かさを如実に物語っていた。
「先生凄い、プロみたい」
女生徒の一人がそう驚きの声を挙げるのを、萌子はまるで我がことのように得意げになって聴いていた。
久志が、
『仕事をさぼって絵を描いていられる』
から顧問を引き受けた訳ではないことは、その後数日もしない内に判明した。
その窓辺の風景を、彼はいたく気に入ったようだった。部員でも毎日通って来るメンバーは限られていてほとんどが幽霊部員だというのに、久志は毎日美術部にやって来た。そして毎日その場所にキャンパスを置いて、夕方暗くなるまでほとんどその場所から動くことはなかった。
(よっぽど絵を描くことに飢えていたのかしら)
萌子がそう思うくらい、その表情は今まで見たことがないほど生き生きと輝いていた。
あらかたスケッチを終えると久志は、今度は窓の外には一切目をくれずに、パステルを取り出してキャンバスに直接色を施し始めた。
やがて彼の描く福山城は、背景に深い碧空が、裾に紅葉の錦が彩られた。それは、パステルの鮮やかさと曖昧さと透明さを充分に引き出した描き方であった。
「萌ちゃん、まだいる?」
帰り支度を始めた朋美が萌子にそう問い掛けたのは、久志が顧問になってから2週間ほど経ったある日の、校舎内に夕暮れの気配が漂い始めた時刻だった。
その日はもう、朋美と萌子たちの三人しか残っていなかった。自分の画材を片付けながら彼女は、
「私、そろそろ帰らなきゃいけないんだけど……」
「あ、いいですよ、先に帰って。戸締まり、私がやっておきますから」
美術室と美術準備室の鍵を下校時に施錠しておくことが、長年美術部の役目となっていた。朋美は、そのことを心配しているのである。
「そ、じゃあお願いね」
幾らかホッとした表情で萌子と久志の顔を交互に見やって、朋美が美術室から出て行く。
二人きりの静寂だけが、後に残された。
久志との二人だけの時間の突然の訪れに、萌子は俄かに緊張を覚えた。
出逢ってからもう幾日も経つのに、教師と生徒として毎日のように顔を会わせているというのに、萌子はいつまで経っても久志と二人きりになることに慣れなかった。
もっとも、いつも一緒に過ごしているとは言っても、授業の最中や部活動の時は周りにたくさんのクラスメイトや先輩・後輩がいるのだし、登下校の時だっていつも薫と三人なのだから、よく考えるとこうやって二人きりになるケースは今までそう何度もあった訳ではないのだ。
「どう、進んでる?」
珍しく自分のキャンバスから離れて、久志は萌子のキャンバスを覗き込んだ。
「うん……もう少し」
水彩とパステルを取り混ぜたその絵は、彼女自身今までで最も出来が良いと確信出来る作品であった。凛と澄んだ青空のような、薫の素直で真っ直ぐな美しさが上手く表現出来たように思う。
「先生こそ、進んでるんですか?」
悪戯っぽい表情を浮かべて、萌子は逆に久志のキャンバスを覗き込んだ。
「綺麗……」
それはどこにも存在しないような、それでいてリアリティを感じさせる、秋色の福山城の光景だった。
深い空の碧と壁面の白、天守の裾に広がる朱や黄色や橙の、淡く曖昧でそれでいて鮮やかな木々の色づき。立体感を持ったその絵は、見慣れたはずの城を描いた、取り立てて特徴のないただの風景画のはずなのに、萌子は不思議と異国情緒を感じた。
「さすがですね」
尊敬と感嘆と憧憬と、そしてわずかばかりの嫉妬をない交ぜにした小さな声で萌子がそう讃えると、
「そんな大したもんじゃないよ」
と久志は照れ臭そうに笑った。
「ま、久しぶり描いた絵としては、まあまあ描けた方だと思うけどね」
「……え?」
久志の言葉の意味にしばらく気づかず、萌子はとぼけたような間を置いてから久志を振り返った。
「正確に言えば卒論の絵を完成させてからだから、半年ぶりに筆を執ったことになるね」
そう言って久志は、去年の暮れに卒論の絵を仕上げて以来、今年に入ってまだ一度も自分の絵の描いていなかったことを明らかにした。
「僕はね、ここに来る前の半年間、建築デザイン関係の会社でアルバイトのような形で働いていたんだ。だからまあ正確には、全く絵に触れていなかった訳じゃないけどね」
就職先も決まらずに卒業してしまった久志のために、彼の師に当たる人物がそのデザイン会社を紹介してくれたのだと、彼はそう説明をした。
「本当は、卒業後はその先生の下でもっと絵の制作に打ち込む予定だったんだけどね」
自分を貶めるような寂しい笑いを浮かべた久志は、
「その頃から、描けなくなっちゃったから……」
「何で? 描けなくなったって……」
「別に怪我したとかそういうんじゃないよ」
萌子の心配そうな情けない表情に、久志はゆっくりと微笑んで、
「何て言うかな。ま、一種の心の病だ」
「……」
「年が明けてすぐにね、母親が死んだんだ」
萌子はピクンと肩を震わせた。
「お母さんが?……」
「あ、別にそれがショックで描けなくなったっていうんじゃないよ。僕、マザコンじゃないし」
誤解されたくない。久志はそんな口調で、ちょっと慌てたように大げさに左手を振って見せた。それから哀しげに笑って、
「その時にね、どうしても気になることがあったんだけど、それを確かめる手段をなくしちゃったんだ」
そう言って、久志は小さく息を吸い込んだ。
「親でないと判らないことだったんだけどね。母にはもう訊くことは出来ないし、父とはきっともう二度と会うことはないから」