第二章 美術部(3)
「ねえねえ、大変」
晴美がそう言って輪の中に入り込んで来る時は、たいていどこからかネタを仕込んで来た時だ。久志がこの学校に赴任して来る直前にも、彼女はこうやって仲間を集めて一席ぶった。
「あたし、見ちゃった」
「何を見たって? 誰かがホテルから出て来たとこでも見た?」
薫のいつもの毒舌に、晴美はにやっと笑って、
「そんな刺激的な場面じゃないんだけどね」
「なによ。誰がデートしてたのよ? 何組の娘?」
晴美の仕込んで来ることといったら、イイオトコの情報か誰かの密会の目撃談しかないと、薫はそう決めつけているらしい。
「ううん。生徒じゃないのよ」
「え? じゃあ……」
「そうなのよ。」
聴いたら驚くわよ。晴美は、そんな自信たっぷりな顔をして、
「立花クンがね、黒沢と歩いているとこ、見ちゃったのよ」
教室の後ろにあるロッカーに荷物をしまっていた萌子は、晴美の台詞を聴いた途端、その小さな肩をビクッと震わせた。
「あたしんちさ、竹原に親戚んちがあるんだけどさ」
何故か萌子には、黙り込む薫の気配が背中越しに感じ取れた。いつもと変わらぬ声高な晴美の声が、やけに燗に障る。
「昨日、その親戚んちに行ったんだけどさ。その時見ちゃったのよね。二人でさ、仲良く『街並み保存地区』の方に歩いて行くのを」
久志が赴任してから、二週間ほど経っていた。
久志の存在は、いつの間にか福女の風景の中に溶け込んでいた。前からそこのあったかのように、決して騒がれる訳ではないけど人望が薄い訳でもなく、ありきたりな爽やかさを纏った教師として存在していた。
「二人きりで?」
薫がそう晴美を問い質す。
「うん」
「でもそれだけじゃ……」
違うのよ。反論しかかった薫をさえぎるように、晴美が自信あり気にそう続けた。
「なんかもう、ラブラブなのよ。手なんか繋いじゃってさ」
「でも……」
やけに食い下がる薫の姿が、少しだけ滑稽に思えた。
黒沢美代子は、福女に赴任してもう二年になる国語の教師だった。そう、久志の前に最後に赴任して来た教師というのが、彼女のことである。
美代子の、落ち着いた教師らしい涼やかな目元を萌子は思い出す。彼女に、そんな艶聞めいた出来事はあまり相応しくないような気がした。
「黒沢、本気かもしれないよ」
それなのに、絵美までもが秘密を漏らすようにしたり顔になって、
「立花先生がここに来た頃、凄かったもん。部活の時、生徒を質問攻めにして。立花先生のこと何でもかんでも聞き出そうとして」
「立花クン、爽やかそうでちょっと良かったのにねぇ。あっという間にお手つきかぁ」
嘆かわしい。そんな口調で恭子が軽く頭を振った。その口調は、完全に晴美の証言を信じきったものだった。
「黒沢も焦ったんじゃないの? あんな若い男の先生、二度と入ってこないわよ」
宏美がそう言って、さも可笑しそうに笑う。
「立花クン、大人の色気にやられちゃったのかしらね」
「え〜?! あれに色気なんか、ある?」
「そうよ。色気だったら、あんなおばさんに負けないわよ」
晴美がお茶目にそう言うと、丈の短い制服のスカートをチラリとめくる振りをしてみせて、周囲を笑わせた。
「萌子。ライバル出現じゃない」
薫がそう萌子の肩を突く。
「なによ。ライバルって」
萌子はそう拗ねた口調で薫を睨んだ。
「ほらほら、そうやってムキになるとこがとても怪しいですわよ」
(自分はどうなのよ)
萌子はそう心の中で反論した。
怪しいのは薫の方だ。
萌子はそう思った。そうやって人を揶揄してみせるところが、実は内心気に掛けている証拠ではないのか。
それなのに、いつものように『慈善事業』に乗り出したりはしない。
(本当に、気に入っちゃったのかな)
こんな時なのに、薫の気持ちを想像して萌子は胸の奥がキュン、と痛んだ。
嫉妬が恋心の裏返しだということに、この頃の萌子はちっとも気づいていなかった。
竹原、という地名に萌子は聞き覚えがあった。
それは数日前、往きの電車の中でのことだった。
『竹原、ですか?』
萌子がそう不思議そうな顔をすると、久志は(あれ?)といった感じで首を傾げて、
『知らない? 尾道から結構近いと思うんだけど……』
『ああ、ううん。そりゃ竹原がどこにあるかぐらい知ってますよ』
自分の仕草が誤解を招いたことに気づいて、萌子は慌てたように顔の前で小さく手を振った。
『知ってることは知ってるけど……』
竹原は尾道から駅3つ分広島寄りにある、古くから塩の生産を主要業として栄えた街である。
その駅前の繁華街からわずかに外れた場所に、江戸時代後期の面影をとどめる古い街並みがある。安芸の小京都、とも称されるその家並みは、国の重要伝統的建造物群保存指定地区にも選定されていて、今は『竹原街並み保存地区』として観光地となっている。
萌子は小学生の時の遠足で、一度だけ竹原の街を訪れたことがあった。
『古い街並みが残ってるところでしょ? 小学生の時に、一度だけ行ったことがありますよ』
萌子の代わりに薫がそう答えると、久志は我が意を得たとばかりに、
『そうそう』
と細かく頷いて、
『尾道に行くのが決まった時に、一回行ってみたいと思ってたんだ』
萌子には竹原のイメージがあまり残っていない。古い木造の仄暗い空間に不思議な懐かしさを覚えたことぐらいで、後は級友との楽しい時間の微かな残滓が、記憶の片隅にあるくらいである。
そう、竹原には海がない。正確に言うと、市街地からほど近い場所に竹原港があり海辺には近いのだが、尾道と違って割と平坦な竹原の街からその海は見えない。
それが、竹原の印象が薄い理由かもしれなかった。
『好きな写真家がいるんだけどね。その人の写真集に、竹原の古い街並みを撮ったものがあるんだ。高校の時にその写真集を見て、その頃からかな、カメラも面白いなって思い始めたのは』
この人は、なんて無邪気な目をするんだろう。
急に饒舌になった久志のまくし立てるような口元を、萌子は微笑を浮かべて見つめながらそんな風に思った。
普段は―特に授業中などは、冗談一つ言うでもなく堅苦しいくらいその表情を緩めることをしないのに、こうやって自分のプライベートなことを話す時の久志は、まるで遊園地に出掛ける子供みたいにきらきらとした顔をしてみせる。
そんな久志の横顔を、今のところ福女の中で私たちだけが知っているのだという事実を、萌子はこそばゆいような気持ちでそっと胸の奥にしまっていた。
この時久志は、自分が絵を描く以外にカメラにも興味を持っていると、そんなことを二人に話し始めたのだった。
『軒先越しの、突き抜けるような碧空を写した一枚を見てね。ああ、こんな透明な表情を写し出すことが出来るんだって。だから、出来れば一度、秋か冬の初めに訪れたいって、そう思っているんだ』
『じゃあ、今度一緒に行きます?』
そんな風に気兼ねなく誘える薫の性格が、萌子は正直妬ましかった。
どうしてこんなにも臆病なんだろう。こんなにおっかながっていては、せっかく見つけた掌の大切なものも、すぐ誰かに吹き飛ばされてしまう。
あの時、久志は大胆な薫の台詞に微笑んでみせたのだった。そんな彼の横顔を見ながら感じた忸怩たる思いを、萌子はふと思い出していた。