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第二章 美術部(2)

 久志がまたそっと周囲を見回した。

 怯えた子供のような表情が、そのたびに彼の顔をよぎる。

 「せんせえ。何ビクビクしてるんですかぁ?」

 薫が呆れたようにそう声を上げた。

 「いや、教師と教え子が仲良く同じ電車に乗ってるところを見られるのも何かな、と思って……」

 「大丈夫ですよ。尾道から通ってる福女の生徒で、こんなに早く登校しいている子はいませんから」

 「そ、そうか」

 「もう。それに何で同じ学校の先生と生徒が一緒に登校しちゃいけないんですか?」

 薫はプッと頬を膨らました。彼女の場合、そういう仕草一つ一つが何とも言えず愛らしい。

 「いや、だって、仮にも教師と生徒がプライベートで親しくするというのは、あまり感心なことじゃないんじゃないか? それに君たちと僕は一応男と女だし……」

 萌子と薫は思わず同時に『プッ』と吹き出してしまった。

 「先生、何時代の人?」

 「堅いってば!」

 「そ、そっかな……」

 照れ臭そうに無理に笑みを浮かべる久志を見て、萌子は沸き上がる笑いを堪え切れないでいた。

 「今どき誰も言わないわよ、そんなこと」

 薫も、あまりの可笑しさに目尻を押さえている。

 誠実そうなその外見そのままに、いやそれ以上に久志はいたって生真面目な性格のようだった。ちょっと不格好で、けれどもそんな久志の態度は萌子にとって決して不快なものではなかった。

 (今時、言わないわよそんなこと)

 そう心の中で突っ込みながら、萌子は自然と笑みを浮かべていた。

 尾道駅と福山駅の距離はさほど長くない。列車に揺られている時間は20分少々である。清々しい冷たさを帯びたホームに、三人は降り立った。

 コンコースを抜けると、すぐ目の前に福山城の石垣が偉容を放つ。それを右手に見ながら線路沿いを歩くと、ものの10分程度で福山女子高校の正門に着くことが出来る。

 「先生、こっちの方が近道ですよ」

 広島県立博物館とふくやま美術館の間に広がる広場を指し示して薫はそう言った。そしてさっさとその中に入って行く。久志はよろめきながらその後に続いた。

 まだ時間が早いせいか、登校する生徒の姿はまばらだった。それでも何人かの2年生が、

 「先生おはよう!」

 と追い越しざまに声を掛けていく。

 「おはよう」

 まだ表情に堅さが残ってはいたが、久志はそう声を掛けられるたびに、その持ち前の爽やかな笑顔を見せて返事を返した。

 萌子はふと、この先生は案外と人気者になるかもしれない、と思った。

 優し過ぎるほど線の細い久志の輪郭からは、あまり教師としての毅然とした雰囲気は感じられない。先生というよりは、むしろ歳の離れた先輩のようである。

 でもそれがかえって良いのかもしれない、と萌子は思った。

 三人を追い越して行く彼女たちは、まるで友達に触れるような気安さで声を掛けていく。教師である久志には気の毒な話かもしれないが、気軽に接することが出来る年上の男性としてなら、彼は充分に魅力的に感じられるような気がした。

 萌子は微かな優越感を胸の奥に抱いていた。例えばそれは、有名人が隣人であったかのような少々ミーハーな要素も含んだものであったけれど、みんなより少しだけ早く久志に知り会えて、共有する記憶がわずかばかりでもあることが、引っ込み思案で臆病な萌子には掌でそっと慈しみたいような大切なことに思えたのだ。

 「じゃあ、あたしこっちだから」

 校門をくぐってすぐの場所で、薫は武道場の方に向かいかけながら二人にそう告げた。

 「あ、そうか」

 そんな彼女を久志はちらりと見やり、そしてすぐにその視線を地面へと逸らした。

 その瞬間、ふっと力が抜けるように、萌子は突然現実を悟ったような気がした。

 (なあんだ)

 二人で男の子と会っていると、いつしかその視線が薫を捕らえていることに、萌子はいつの頃からか気づくようになっていた。それはクラスメイトや同じ学校の先輩ばかりではない。中学の頃からは、男性教師までもがちらちらとそんな目線を送ることもあった。

 それは、仕方ないことなのだと思う。

 その美しさに心を奪われ、薫の気まぐれな表情の変化に喜々としたり落胆の色を浮かべたりする彼らを、萌子は嫉妬するよりむしろ誇らしげに思うことの方が多かった。

 それは、彼女がまだ誰かに嫉妬するほど人を恋しく想ったことがない証でもあったけれど、やっぱり薫の美しさは萌子にとって自慢であり誇りであった。

 けれどもこの時、萌子は自分でも気付かないほど小さな、哀しみと諦めと妬みを胸に宿していた。

 そう。それは自分でも気づかないほど小さな、嫉妬心だった。

 「じゃあ、頑張って」

 久志のあまりにもありきたりで不器用な台詞に、薫はちょっと目を見張ってから、すぐに小生意気な笑みを浮かべて、

 「先生こそ頑張ってね。3年生のお姉さま方は、ウチらみたいにカワイくないから気をつけて」

 と言い残して早足で去って行った。しばらく取り残されたように突っ立っていた二人は、ふとお互いの存在に我に返ると、見つめ合いぎこちなく笑いあった。

 「行きましょうか」

 強張った笑顔のままそう言うと、萌子は先を急ぐように久志の前を歩き始めた。

 さっき落ち込んだばかりなのに、萌子の心臓はもうドキドキし始めていた。そういえば、薫抜きで男の人と肩を並べるなんて、子供の頃にも経験がない。

 何か話さなくちゃ、と思うと萌子は余計に焦りを覚えた。

 初対面の人と一緒に過ごす時には、お喋りな人の方が気が楽だった。それに男の人となんて、何を話せばいいのかちっとも思いつかない。

 「あ、あの……」

 「あのさ……」

 同時に口を開きかけて、二人はまた声に詰まって見つめ合った。それから可笑しそうにクスクスと笑った。

 「どうぞお先に」

 取り澄ました顔で萌子がそう促すと、久志は笑いながら、

 「いや、こんなに早く部室に行って何をしてるのかな、と思って。朝練やってる美術部なんて聴いたことがないからさ」

 「……別にこの時間に登校しなきゃいけない訳じゃないんだけれど」

 「水谷さんと一緒に来るため?」

 「て言うか、薫と一緒に来ないと、学校に間に合う自信がないんです」

 「……は?」

 中学生になってから、薫は弓道部に入った。萌子も美術部に入部したが、久志の言う通り美術部なら朝早く登校する必要などない。実は中学に入って最初の頃は、二人は別々に登校していたのである。

 その結果萌子が残した記録が、1ヶ月で8回という学年ナンバーワンの遅刻の数であった。

 そしてゴールデンウィーク開けから、再び薫が澤崎家に萌子を迎えに来るようになった。

 「こんな時間に来ても、ホントはやることないんですけどね。部室に行って絵を描いたり、本を読んだり」

 「そりゃ大変だねえ。朝起きられないっていうのも」

 呆れてるのか同情してるのか、久志は堪えるように小さく笑った。

 でも今日は早起きしたんですよ。

 そう反論しかけて、萌子は何故か急に恥ずかしくなって思わず黙り込んだ。

 「で?」

 「……はい?」

 「いや、ほらさ、君が訊きたかったことは?」

 「ああ。あの、あのですね」

 それは会話のきっかけにと頭に浮かんだことを思いついたままに尋ねようとしただけで、改めて訊こうとすると何だか少し照れた。

 「先生は、美術部の顧問をやらないんですか? あ、いえ、あのですね」

 何だか質問が唐突過ぎたような気がして、萌子は慌てて言い訳めいた口調になった。

 「前に美術教えてた近藤先生、美術部の顧問やってたんです。だから立花先生が代わりに顧問になるのかなって思って……あんまり深い意味はないんです」

 「そうなんだ。いや、まだそんな話は来てないなぁ」

 と久志は小首を傾げた。

 「そうですか……」

 「……その、美術部の顧問てさ」

 しばらくためらった後で、久志は真面目くさった顔でこう訊いた。

 「はい?」

 「先生が描いていても良いのかな?」

 冗談で言っているのではないらしい。久志のいたって真剣な表情に萌子は戸惑った顔で、

 「それは……別に良いんじゃないんですか」

 前の顧問は1日1回部室に顔を出せば良い方で、たいして美術部に拘わっていた訳ではない。

 部活と言ったって、みんな個々に好きな作品を仕上げて、たまに作品展を開いたり校外のコンペに出展したりするだけだから、顧問の仕事などそういった時にしかないのだ。

 「絵、描きたいんですか?」

 「いや。部活のためだって言ったら、仕事せずに絵を描いてられるかなって」

 その時の久志の顔は、まるで年下の少年のように無邪気だった。悪戯っ子のように目を輝かせて。照れたような笑みを浮かべて。

 「ダメかなあ。こんなええ加減な教師」

 「……いいんじゃないですか」

 萌子は笑いを堪えながらそう答えた。部室でみんなに混じって絵を描いている久志の姿を想像しながら。何かいいかもしれない、と思った。

 「別に顧問って言ったって、みんなに教えるとかいう訳じゃないですからね」

 「じゃ、受けちゃおうかな。あ、でもその前に顧問の話が来なきゃダメか」

 そう言って笑う久志の、無垢で子供みたいな表情が萌子の心にすっと染み込んで来る。萌子は、知らず知らずの内に柔らかな微笑みを浮かべている自分に気づいた。

 「君も放課後に絵を描いているの?」

 そう尋ねられて、萌子は一瞬言葉をためらった後で小さく頷いた。

 「はい」

 「そっか。それじゃ」

 久志は優しく萌子の瞳を覗き込んだ。

 「一緒に絵、描こうか」

 トクン、トクン。心臓の奥の方から、そう小さな波が湧き上がって来るような気がした。



 こうして三人の奇妙な集団登校が始まった。

 「おはよう」

 翌日。やはり尾道駅の改札の前で待っていた久志の顔は、硬さの取れた自然な表情に変わっていた。鳶色の優しい目で微笑まれると、萌子は不意打ちを食らったようにドキリとした。

 「よく見ると、綺麗な目をしてるなぁ」

 薫がそう感心したように隣で呟いた。

 そうして毎朝30分ほどの道程を、三人は時間を惜しむようにお喋りを続けた。

 と言っても、もっぱら喋っているのは薫一人で、話題は久志のことに関することばかりだ。時折笑顔を浮かべて受け答えする久志と興味深げに質問を重ねる薫の二人の姿を、萌子は黙って微笑みながら見つめているだけだった。萌子が訊きたいと思ったことは、大抵薫が代わりに質問してくれた。

 「中野区?」

 「ああ。新宿から十五分くらいの所」

 「て、都会じゃないですか。そこに家があるの?」

 「親の家だけれどね」

 「当たり前でしょ! それが先生の持ち家だったら、あたし何が何でも先生のアパートに居座っちゃうわよ」

 薫は少し興奮気味に、黒目勝ちのつぶらな瞳をくりくりさせると、やたらと嬉しそうな口調で、

 「それにしても先生んち金持ちじゃない。もしかしてお坊ちゃま?」

 「そりゃ、この顔見れば一目瞭然だろ?」

 久志がもの凄く真面目な顔でそう答える。少しの間を置いて、萌子と薫は一斉に笑い転げた。

 「……俺の親の物じゃないんだ。元々はじい様の住んでいた家でね」

 若い頃、画家になることを諦めて親の家業を継ぎ、その事業を拡大させて資産家になった。彼の母方の祖父はそういう人物らしい。

 (何か……)

 「何か教科書に出て来そうな話ねえ。先生のお祖父様、松下幸之助とかいう名前じゃない?」

 薫の軽口に久志は口を開けて笑ってから、萌子も聴いたことのある衣料品メーカーの名前を挙げた。

 「え、そこの会長?」

 「こりゃ本物のお坊ちゃまだ」

 薫が呆れたように目を見開いて呟いた。

 「そんなことないさ」

 けろっとしてそんな風に笑う久志の穏やかさは、萌子にはやっぱり『お坊ちゃま』の為せる技にしか見えなかった。

 「絵を描き始めたのはね、そのじい様の影響なんだ」

 事業家としての道を歩み始めてからも、彼の祖父は画界との縁を絶ち切り難かったらしく、絵を描いていた当時の友人・知人との親交をますます深め、やがて金銭的な手段で絵の世界との繋がりを得ることを覚えた。

 「中学校の頃からついこの間まで僕が通っていた絵の先生というのも、じい様に紹介してもらった人なんだ」

 「じゃあ、その才能もお祖父様譲りなんですね」

 そう萌子が尋ねると、久志は弛緩したような緩やかな笑みを漏らした。笑っているはずなのに何故かそれがとても哀しげに見えて、彼女はまた悪戯に胸を乱した。

 「どうなのかなぁ。何しろ僕の母にはその血筋はちっとも伝わっていないからね」

 彼の母親は、絵の方はからっきし駄目だがその代わりにスポーツ万能な女性なのだという。それを聴いた瞬間、萌子と薫は思わず含み笑いを浮かべた。

 「何だよ。その血筋は僕にはちっとも伝わってないって言いたいんだろう」

 久志がそう言って口をへの字にすると、

 「先生の家の家系が隔世遺伝なら、先生の子供はワールドカップに出れますよ」

 薫がそう茶化した。

 「……絵の才能はね、父親譲りなのかもしれないんだ」

 小さな間の後で、久志がそうぽつりと呟くように言った。

 「え?」

 まただ、と萌子は思った。自嘲にも似た物憂げな影が久志の横顔をよぎる。それは、あの日夕暮れの国道沿いの歩道で、やはり彼が父親の話題を持ち出した時の横顔と同じだった。

 (何でこの人は、こんなにも哀しそうに父親のことを話すんだろう)

 「うちの父はね、絵の才能があったんだ。それでじい様の受けが良くってね。だから母と結婚出来たらしいんだ」

 「遺伝と隔世遺伝が混合して、先生が出来上がったのかもしれないですよ」

 「……僕は試験管の中で生まれた訳じゃないよ」

 自分の存在がまるで化学反応で誕生したかのように言う薫に、久志は思わず苦笑した。

 「先生のお父さんは、画家さんなんですか?」

 萌子がそう尋ねると、久志は小さく笑って首を振った。

 「いや、結局本職になることは諦めてじい様の会社にコネで入ったらしいよ。僕の生まれるずっと前の話だけどね。休みの日にじい様と二人でスケッチに出掛けたりしてたんだって。可笑しいよね」

 久志はそう言って皮肉っぽい笑みを浮かべて、

 「ま、ある意味画家のなり損ないの血が化学反応起こしちゃったんだから、僕に期待しても無理ってもんだよね」

 らしくない、と萌子は思った。

 出会ってから数日しか経ってないのだから、久志の本性を全て理解している訳ではないことは萌子にもよく判っていた。それでも、その数日の間に久志が垣間見せた、実直で誠実そうな人柄を思うと、そのどこか投げやりな口調は久志らしくないよう感じられた。

 「じゃあお父さんは、ずっと趣味で絵を描いているの? いいよね、そういう生き方って」

 何だかとても憧れの職業でも語るような口調で薫がそう訊くと、久志は苦笑しながら軽く首を振って、

 「いや、きっともう父は描いていないと思うよ。それに僕は生まれてから一度も、父が絵を描いているところを見たことがなかったし」

 その曖昧で過ぎ去った者を語るような口調に、萌子は奇妙な違和感を覚えた。ちらりと薫の方を見やると、彼女はさほどおかしいとは思わなかったらしく、ちょっと拍子抜けしたような表情で、

 「そうなんだ……」

 と呟くように応じるだけだった。

 (小学校に入って少しするまで、僕は父親の顔を知らなかったんだ)

 萌子の脳裏に、久志のそんな台詞が蘇った。

 その事実を知っていたからこそ、久志の微妙な言い回しに敏感に反応したのかもしれない。萌子はそう思った。でも、その事実と過去形の語り口がどうしても結びつかない。

 (だってお父さんは尾道から帰って来たって……)

 久志のことをもっと知りたい、と萌子は思った。けれども、久志が触れたがらなかった話題を薫の前で持ち出すことに、萌子はためらいを覚えた。

 戸惑いと臆病な気持ちの狭間で揺れ動いて、結局その時萌子は久志に抱いた不透明な違和感の原因を、突き止めることが出来なかった。


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