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終章 坂のある街で

 「せんせー! こんなのも、持ってくのー?!」

 台所から、薫の怒鳴り声が聞こえて来る。

 「やべっ。また何か捨てられちまう」

 萌子の傍らでダンボールに衣類を詰め込んでいた久志は、慌てて立ち上がると台所にすっ飛んで行った。

 『男一人で、荷物は少ないから』

 そんな言葉を信じたのが間違いだった。

 久志が尾道を発つ朝、彼のアパートに引越しの手伝いのために顔を出した萌子と薫は、玄関先で目が点になった。

 「何にも用意出来てないじゃないの!」

 薫がそう叫ぶのも無理はなかった。それほど久志の荷造りは進んでいなかったのである。進んでない、と言うより全くやっていない、と言った方が正しいかもしれない。

 「だって、引越し屋が来るのは午後じゃないか」

 そう言い訳をする久志を尻目に、二人は慌てて台所と居間に別れて荷造りに取り掛かったのだが。……

 「ダメだよ、それは。尾道で見つけた良い茶碗なんだから」

 「そんなこと言って、さっきも欠けたコップしまってたじゃないっ」

 意外なほど取っとき性な久志と短気な薫は、ことあるごとにそうやって衝突して、結局荷造りがさらに遅れる原因を作っていた。

 隣室から聞こえて来る、聴き慣れた二人の掛け合い漫才に耳を傾けながら、萌子はしばし手を休めて窓の方に目をやった。

 暖かな春の陽が窓辺から差し込んでいる。開け放たれたその窓から南風が流れ込んで来て、萌子の短い髪がサワサワとそよいだ。

 もうすっかり春だ。

 畳に広がる日だまりを見つめながら、萌子はぽつんとそう思った。

 柔らかく優しい季節の訪れの中に、確かに漂う寂寥感。半年前、あの秋雨の日に出逢ってから、萌子はずっとこの日が来ることを予感していた気がした。

 (その時までに私は何を望むのだろう……)

 心の片隅にいつも住み着いていた、漠然としたその思い。ずっと考えていたその答えが、今彼女の胸の中にあった。

 寂しくない訳じゃない。

 久志と出逢って半年。萌子はほとんど毎日のように彼の顔を見て来た。片想いでも、愛されていても。幸せでも、辛くても。彼の存在は常に萌子の傍らにあった。

 明日から、この街に彼の姿はない。その空虚な気持ちを想像すればするほど、絶望的な寂しさが胸に募る。

 それなのに、萌子の心の中にはそれと相反する思いが、湖底に湧く清水のようにトクトクと湧き上がって来るのだ。

 それはまるで昔読んだ冒険譚の、旅立ちを前にした少年のような気持ちだった。

 久志のことを想いながら、久志の届ける便りを楽しみに待つ日々。それを思うと胸がドキドキして来る。彼が世界のどこまで辿り着くのか、萌子は知りたいと思った。どんな世界に、彼が誘ってくれるのか。この街で彼の活躍を聴きながら、萌子は彼と見知らぬ世界を共に歩んで行けるような気がしていた。

 そして、そんな久志には遠く及ばないとしても、萌子も自分の目の前に広がる可能性を確かめてみたいと思っていた。

 久志と出逢うまで、萌子はそんな大それたことを考えたことがなかった。

 偉大な母への畏怖。父がいないことへの劣等感。さまざまなコンプレックスが見えない鎖となって、萌子の心を強く縛りつけていたのだ。

 久志は、そんな萌子の心を解き放ってくれた。萌子の目の前に、明日に繋がる扉があることを教えてくれた。

 だから、愛しい想いと同じくらいに、萌子は久志に感謝の念を抱いていた。

 いつの日か、この街から世界に『尾道』を伝えたい。

 (その時、そばに先生がいればもっと……)

 「さて、と。とにかく、とっとと送り出さなきゃ」

 全てはそれからだ。

 萌子は自分にそう言い聞かせて、タンスの一番下の引き出しを開けた。……

 「……せんせい」

 萌子の情けない声に、久志と薫は言い争いを止めて振り返った。

 「……これ、洗ってあるの?」

 萌子は眉間に皺を寄せて、くしゃくしゃに丸まったパンツを、まるで汚物でも扱っているように指で掴んだまま久志の前に差し出した。

 「あ、洗ってあるよ!」

 久志は慌てたように萌子の手から下着を奪い取る。

 「……だってそれ、タンスの中に丸めて突っ込んであったよ」

 萌子が疑わしげに久志を横目で睨む。

 「畳むのが面倒だから、そのまま突っ込んだだけだよ。そこ、俺が後でやるから」

 「あんたたち……」

 慌てふためく恩師と顔を真っ赤にした親友を見て、薫はさも可笑しそうに、

 「何をいまさら照れてるのよ。どうせ、何もかも許し合った仲なんでしょ?」

 「薫……!」

 薫の明け透けな台詞に、萌子は完熟したトマトみたいな顔になって、

 「あたしたち、まだ何もしてないわよっ!」

 (1回、キスしただけ……)

 浄土寺山の空の下で、1度だけ交わされた接吻を思い出す。それだけで萌子は、頬が上気して頭がクラクラしそうになった。

 「な〜んだ」

 薫はとてもつまらなさそうに唇を尖らせて、

 「立花ちゃんは賞を取るまで、キスから先はお預けなんだ」

 「……薫っ!」

 萌子がそう怒鳴りつけた時には、薫はもう隣の部屋へと逃げ失せていた。



 「……何とか、なったわね」

 奇跡、と言うしかなかった。

 半年に及ぶ久志の尾道暮しは、ずいぶんと質素なものだったらしい。普通ならありえないスピードで、引越しの荷造りは業者の到着時刻に何とか滑り込んだ。

 引越し屋の手によってダンボールの山が運ばれていくと、久志の尾道での記憶が徐々に薄れ、萌子と薫がここで過ごした懐かしい記憶が蘇って来る。三人は押し黙ったまま、それぞれの感傷に捕われながらだんだんと広くなる部屋の風景を見つめていた。

 「忘れ物、ないわよね」

 やがて部屋の中は、ボストンバック1つを残してあとはがらんどうになった。造り付けの棚の中などをチェックして回っていた薫は、リビングの隣の部屋に続く扉に手を掛けた。

 「……せんせー、忘れ物見っけた」

 扉の手前から部屋の中を覗き込んだ薫は、そう言って久志の方を振り返る。

 「あ、いいんだそれは。今から持って行くやつだから」

 薫の言わんとすることをすぐに理解して、久志はそう首を横に振った。

 「ふ〜ん」

 薫は小さく口を尖らせてそう頷いてから、萌子を呼び寄せるように手招いた。

 「……なぁに?」

 「いいからいいから」

 萌子は首を傾げながら、薫の横から隣の部屋を覗き込む。

 「……!」

 窓辺に立て掛けられた、一幅の風景画。

 その窓から望める、尾道の風景がそこにあった。

 それは、元日にこの部屋で見たデッサンが完成したものだった。素描の段階では植え付けられていなかった季節が、鮮やかな春として描かれている。

 「千絵さんが、どうしても欲しいっていうんだ」

 息を呑み立ち尽くす萌子の傍らに寄って、久志はそう声を掛けた。

 「……尾道の風景画を?」

 「う〜ん。と言うより、僕の描いた絵を」

 「?」

 同時に首を傾げた教え子たちに向かって、久志はちょっと照れたように笑いかけて、

 「僕の絵を、青田買いしておくんだって」

 「……はぁ?」

 「もし、僕が画家として成功したら、この絵を大々的に宣伝して、店の名物にするんだって」

 「……いかにも千絵ちゃんが考えそうなことだわ」

 薫が呆れたようにぼそっと呟く。

 「賞を取ったら、最初の個展を『ひこうき曇』で開いて欲しいって言われたよ」

 久志はそう苦笑して、

 「今日、その絵を置きに行かなきゃいけないんだ。腹減っただろ? なんか奢るから、一緒に行こうよ」

 そうして、三人はもぬけの殻になったアパートの部屋をあとにした。

 最後に部屋を出た久志が、鍵を掛ける。カチャリ、と微かに響いたその音が、この半年の出来事にも鍵を掛けた。萌子はふとそんな気がした。

 まずはその鍵を返すために、久志たちは三田村不動産を目指した。

 光のどけき春の陽射しが降り注いで、桜の花が今にもこぼれそうに揺れている。満開まで、あと少しだ。

 「みんなでお花見、したかったね」

 淋しげな口調で薫がそう呟くのとほぼ同時に、

 「あっ!」

 と久志が大きな声を上げた。

 「どうしたの!?」

 「忘れてた……」

 「……何を?」

 「西国寺の桜……」

 「へ?」

 何も知らぬ薫がきょとんと目を丸くする。

 久志の思いも寄らぬ台詞に、萌子は思わず口に手を当てた。不意に胸が熱くなる。

 あの日、西国寺の境内で見上げた、桜色のアーチの幻。

 たとえ今日、二人が奏でた物語が終わるのだとしても。あたしと先生の胸の中に刻まれた記憶は、きっと永遠に消えることはない。

 とめどなく押し寄せる感傷の波の中で、萌子はそんなことを考えていた。

 「せんせい」

 「ん?」

 「約束しよ」

 「?」

 「いつか、あたしと西国寺の桜のアーチの下を歩こうよ」

 「……うん」

 晴れやかな顔で、久志が頷く。微笑みを湛えた瞳で、二人は見つめ合った。

 「あの、さ」

 えへん、とわざとらしい咳払いをして薫は、

 「あたしの存在、そこまで無視しなくても、いいんじゃない?」

 迷路のように入り組んだ細い路地を抜けて、三人は三田村不動産に辿り着いた。萌子たちの到着を待ち侘びた様子で、三田村はいつかと同じ人の良さそうな笑顔を見せた。

 「お世話になりました」

 大げさなほど律義に、久志は三田村に向かってそう頭を下げた。

 「いやいや、こっちこそあんな辺鄙な部屋を使ってもらって、助かりました」

 三田村はそう笑って、

 「この娘たちに貸しておくより、よっぽど儲かりましたからな」

 「何よ」

 そんな軽口を叩く三田村に向かって、薫は不服そうに口を尖らせる。

 「こっちが管理代行費を貰いたいくらいだわ」

 「……もしも、の話なんですが」

 三田村に鍵を渡しながら、久志は遠慮がちな声を出した。

 「?」

 「またこの街に戻って来た時に、もし空いていたらあの部屋を貸してください」

 「……判りました」

 目をしばたきながら三田村は小さく頷いて、

 「ま、そんな心配はないでしょうけど」

 と言いながら、萌子たちの方へ鍵を差し出した。

 「それじゃそれまで、君たちが責任を持って預かっていなさい」

 「……でも」

 「そういうことなら、萌子に任せた」

 薫がはしゃいだ声を上げて、萌子を押し出すように背中に手を充てる。

 戸惑いがちに三田村から鍵を受け取った萌子は、三田村と薫の顔を交互に見やった。そうして二人が頷くのを確認してから、今度は久志の顔を見上げた。

 「綺麗に、しといてくれよな」

 「……任しといてよ」

 そんな茶化したつもりの台詞が、涙で詰まった。



 山小屋のような分厚いきつね色のドアを押すと、千絵ご自慢のスイス製のカウ・ベルがカランカランと小気味良い音を立てた。

 「遅かったじゃない」

 カウンター向こうで、千絵が拗ねたように口を尖らせる。

 店の中には、また客が一人もいなかった。千絵はきっと暇を持て余していたのだろう。

 「千絵ちゃん、この店大丈夫?」

 薫が、半ば本気の口調でそう尋ねた。

 「あたし、この店で客の姿をあんまりみたことないよ」

 「そんなことないわよ」

 心配そうな薫の顔を、千絵はカラカラと笑い飛ばして、

 「みんなビックリしてるんだから。この店、ちゃんと黒字なのよ」

 「……ま、とにかくこの絵の作者がとんでもなく売れてくれれば、もっと客も寄りつくかもね」

 薫がそう毒を吐きながら、抱えて来た包みを紐解く。

 「……」

 初めて目の当たりにした千絵も、1度目にしていたはずの二人も共に息を飲み、一瞬緊迫した静寂が店内に流れた。

 「……素敵ね」

 千絵はそっと吐き出すようにそう呟く。

 「私、絵のことなんか全然素人だけど……」

 そう言いながら、千絵は壁に掛けられた油絵を見上げて、

 「あの絵も、この絵も、とても好きだわ」

 それから三人はカウンターに仲良く並んで、千絵のランチが出て来るのを待った。

 「そういやさ」

 薫が何かを思いついて、小悪魔のような含み笑いを見せた。

 「先生、家庭訪問に千絵ちゃんを同伴したって、ホント?」

 途端に、久志は思いっきりコーヒーを吹き出した。

 「なんでそんなこと……」

 疑惑のまなざしが千絵の姿を窺ってから、萌子の方を向いた。久志と目が合った瞬間、萌子は上目使いに彼を見つめて、ちらっと舌を出してみせた。



 久志が澤崎家を訪ねて来たのは、彼岸の中日のことだった。

 チャイムの音を聞きつけて、待ちかねたように玄関に駆けつけた萌子と玲子は、上がり框で目をきょとんとさせた。

 「初めまして」

 顔を強張らせてそう頭を下げる久志の傍らで、千絵が可笑しそうに微笑んでいる。

 「うちの店に来て、今にも倒れそうな青ざめた顔してたから、つき添って来ちゃった」

 そう言って千絵は舌を出した。

 リビングに通してソファーに座らせても、久志の緊張は一向に解けなかった。

 彼が来るまでは萌子もかなり緊張していたのに、その姿のあまりの可笑しさに彼女はすっかりリラックスした気分になっていた。

 「……あの、萌子さんの美術部の顧問をしています、立花と申します」

 「いつも娘がお世話になっております」

 まるで家庭訪問のように儀礼的に言葉を交わして、それからぷっつりと会話が途切れた。

 (ちょっと! それだけ?!)

 久志の横に座っていた萌子が、肘で彼の脇腹を突く。

 「あ、あの、それで千絵さんの店で偶然に萌子さんと出逢いまして……」

 これぞまさしくしどろもどろ、と言った口調で、久志は急かされたように言葉を紡いだ。

 「それから、親しくさせていただいております。あ、いや、あの、決してやましいことは何もなくて……」

 ダメだこりゃ、と萌子は天井を仰ぐ。玲子の隣で口を歪めて笑いを堪えていた千絵が、とうとう吹き出した。

 「こんな色気のない娘のどこが良いのか判りませんが」

 久志の尋常じゃない態度にも動ずることなく、穏やかな笑顔にとても相応しくない辛辣な台詞を1つ吐いてから、

 「これからも、出来れば末永く、よろしくお願いしますね」

 玲子はそう深く頭を下げた。

 「……姉さん。そんな結婚の挨拶じゃないんだから」

 急に湿った部屋の空気を吹き飛ばすように、千絵がそう茶化した。

 「……それにしても、似てるわね」

 「え?」

 「芳久さんに」

 「……」

 「判ってるわよ」

 複雑な表情を浮かべた千絵と萌子に笑いかけるように、玲子は戯けた笑みを浮かべて、

 「不思議ね。血は繋がっていないのに、あの人によく似ているわ」

 不思議なくらい穏やかな顔で、玲子は何の憂いも見せずにそっと呟く。

 「親子で、好きになる人は似てるものなのね」

 照れたように、そして少し感慨深げに、久志は視線を反らして曖昧な笑みを浮かべた。

 「……いつ、尾道を発つんです?」

 「明後日の日曜に……」

 「そうですか」

 娘が愛した人を、玲子はじっと見つめて、

 「必ず、帰って来てくださいね」

 「……え?」

 「この街に帰って来れなかった、芳久さんのためにも、必ず」

 じっと見つめる玲子に向かって、久志は神妙な面持ちで小さく頷いた。



 千絵のランチを平らげると、薫は自分のコーヒーカップとマンガを手に取って、カウンター席を立った。

 久志の乗る列車の発車時刻までまだ少し時間がある。どうやら二人に気を利かせたつもりらしい。千絵もシンクに向かって洗い物を始めて、カウンターに形ばかりの二人の空間が出来上がった。

 「そうだ、先生」

 「ん?」

 「あたしね、美大に行くことに決めた」

 「そっか」

 萌子の意外な台詞に久志は一瞬驚きの表情を浮かべてから、本当に嬉しそうに相好を崩した。

 「どこの大学を受けるんだい?」

 「うん……」

 あの日久志が帰った後に、萌子は母に美大進学の気持ちを初めて伝えた。

 『そうなんだ……』

 娘の決意を感じ取った玲子は、何だか面映ゆそうな顔つきになって、

 『あんたもやっぱり、ママとパパの子なんだね』

 と小さく笑ってから、

 『で、どこの大学? 広島? 大坂?』

 性急にそう問い掛ける母に、萌子は鳩が豆鉄砲を喰ったような表情になった。

 『え、でも尾道大にも芸術学部があるし……』

 『何だ、ちっちゃいわねぇ』

 娘が当たり前だと思っていた感覚を、玲子はあっさりとこき下ろす。

 『あたしがあの時代に大阪まで出たのよ。いまどきなら東京でもニューヨークでも十分行けるわよ』

 久志にこの話をすると、彼は喉を鳴らすようにクッと笑った。

 「結局、君のお母さんも千絵さんと同じ血を引いてるんだね」

 「……でもさぁ、そもそも自分の娘の実力がどれほどのものか、判ってるのかなぁ」

 萌子のぼやきに軽く苦笑いを浮かべて、黙ってコーヒーを啜る。そしてそのまま、久志は真剣な顔をして黙り込んだ。

 「……萌ちゃん」

 「ん?」

 「君に、話しておきたいことがあるんだ」

 「……なに?」

 久志の意外なほど真面目な口調に、萌子は一瞬ドキッとして、ゴクリと唾を飲み込んだ。

 「実はね、君の絵を僕の先生に見てもらったんだ」

 「……えっ?」

 「その、美術室に置いてあった君の絵を何点か……」

 「もうっ。先生、人に無断で何やってんのよ!」

 萌子は急に顔を真っ赤にして、久志に向かってぶつマネをした。

 「ゴメンゴメン」

 久志は可笑しそうに萌子の手を避けるふりをしてから、

 「先生の評価は高かったよ」

 「え……」

 「丁寧で、しっかりした基礎を持っているって。もっと経験を積んで独創性を身につけたら、大化けするかもしれないって」

 少し遅れてから、久志の台詞の意味に気づいた萌子の心臓が唐突に乱打し始めた。

 「そんな、いくらなんでも……」

 恥らう萌子の様子を、恋人として、教え子として、久志は目を細めて愛おしげに見つめる。

 「……君と、東京で過ごせたらいいのにな」

 「……えっ」

 「あ、いや」

 要らぬことを言った、といった風に久志は慌てて作り笑いを浮かべた。

 (東京で先生と共に過ごす……)

 いつか夢想した、あまりに荒唐無稽な思いつき。不思議なことにそれは、決して不可能ではない夢として今この掌の中にある。

 「先生」

 「ん?」

 「あたし、やってみる」

 「……」

 「出来るかどうか、自信なんてちっともないけど、でも頑張ってみる」

 そこにはもう、始める前から諦め続けていた、子犬のような目をした臆病な少女の姿はなかった。

 「……ハイハイ。まだしんみりする時間じゃありませんよ」

 黙り込んだ二人の背後から、囃し立てるような口調で薫がそう出立を促した。

 「個展を開く日を、待ってますよ」

 千絵らしい見送りの言葉だった。レジでそう声を掛けられて、久志ははにかむように笑顔を浮かべた。

 「そういえば……」

 「?」

 「初めてお話したのも、この場所でしたね」

 久志の台詞に、千絵は感慨深げに小さく頷く。

 「せっかくだから、忘れないでくださいね。この店のことを」

 「もちろんです」

 心外だ、といった風に久志は軽く戯けた仕草をしてみせた。

 「また、来ます。ごちそうさまでした」



 分厚いきつね色のドアを開けると、萌子の頬に柔らかな風が纏わりついて来た。西に傾むきかけた陽を浴びて、尾道水道がキラキラと輝いている。

 その刹那、胸に苦しいほどの感傷が押し寄せて来て、萌子は思わず棒立ちになった。

 「どうしたの? 行くよ」

 立ち尽くす萌子の背後から、薫が不審げにそう声を掛ける。

 「うん……」

 立ち去り難い素振りを見せて、萌子はもう一度きつね色のドアを振り返る。

 (……ここから、始まったんだ)

 そして、促されるようにゆっくりと歩き始めた。

 狭い路地を抜け商店街へと、時を遡るようにあの日と逆の道筋を辿る。休日の午後の繁華街は、気だるい明るさに包まれていた。名残惜むような賑わいを縫うように、三人はただ黙々とアーケード街を通り過ぎた。

 辺りが刻々と暮れゆくごとに、別れの気配が忍び寄って来る。久志と次にこのアーケードの下を歩くのは、いつになるのだろう。そんなことを思ってしまって、萌子はまた悪戯に胸を切なくさせた。

 「そういやさ」

 喫茶店のショーケースをちらりと見やりながら、久志はボソリと呟いた。

 「『からさわ』のアイス」

 「……え?」

 「食べ損ねちゃったよ」

 屈託のない笑顔だった。久志は『しまったなぁ』といった風に苦笑いを浮かべて、

「『ナチューレ』のシュークリームも。とっとと賞を取って、ここに戻って来なきゃ」

 泣いてしまいそうだった。

 そう、終わりではないのだ。二人には、確かに明日がある。思わずこぼれそうになった涙を押し止めて、萌子は必死に笑顔を作った。

 歩みを緩めた萌子を誘うように、久志は右手を差し出した。萌子は1つ小さく頷いて、その柔らかく暖かな掌を握り締めた。

 小さなロータリーを渡り、古ぼけた駅舎に歩み寄る。通学時とは違うざわめきの向こうに、鈍く銀色に光る改札口が見えた。

 (あの向こうに行ける……)

 幼かったあの日、恐ろしげに見えた銀色のゲート。

 もう立ち尽くすことはない。やっと、あのゲートを通ることが出来る。

 「早くしないと、電車来ちゃうよ」

 せっかちな薫が、改札の向こうから二人を手で招いている。久志と目を合わせ、笑いあった萌子は、飴色の夕日に輝く銀色のゲートに向かって歩き出した。











みなさん、最後まで目を通していただきありがとうございます。

初めて、人に見てもらうために書きました。

恋愛小説を書いたのも初めてです。


尾道という街の優しい風景に似合う話を書きたいと、ずっと思っていました。波乱も悲劇もない平淡な話ですが、少しでも切なさ・優しさを感じて貰えれば幸いです。


自分で読み返してみても拙いところばかりですが、最後まで読んでいただいた方のご意見もぜひ伺いたいです。


感想・評価をぜひお寄せ下さい。よろしくお願い致します。


平成20年5月14日


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