第十一章 告白(3)
「ママ?」
萌子がアトリエの入口から顔を出すと、玲子は意外そうな顔をして、
「あら、どうしたの?」
と首を傾げてみせた。
澤崎家のリビングに続く一室を、玲子は長いあいだアトリエ代わりに使っていた。萌子がパステルの使い方の教わったのも、この部屋だ。子供の頃はよく部屋に出入りして、玲子の絵を眺めたり絵の手ほどきを受けたりしていたけれど、萌子も最近は自室で創作をするようになって、滅多にこの部屋に足を踏み入れることはなくなっていた。
「うん、ちょっとね」
気後れした様子で、萌子は後ろ手でドアを閉めると、
「あのね、報告したいことがあるの」
娘のやけに改まった様子が可笑しかったのか、玲子はニヤニヤしながらちょっと戯けた感じで、
「どうぞ」
と空いている椅子に座るよう萌子に促した。
「……あのね、あたし好きな人が出来たの」
どう切り出してよいか判らなくて、しばらく逡巡した後で萌子がそう漏らすように呟くと、玲子はちょっと目を丸くして、
「それは、おつき合いするっていう意味?」
「……うん」
「まぁ、おめでとう」
やっぱり普通の母親と違うよなぁ、と玲子の反応を見ながら萌子は思った。
普通一人娘の親だったら、眉をひそめるとか顔を顰めるとか、『どこの男? 変な奴に騙されてるんじゃないでしょうね?!』とまくし立てるとかするものではないだろうか。
「あんたみたいな色気のない娘、どこの近眼がもらってくれたの?」
それなのに玲子は、今にも『赤飯炊かなきゃ』とでも言い出しかねない口調で、興味深げにそう茶化した。
「学校の、先生なの」
「おや、まあ」
萌子のさらなる告白にも、玲子は動じることなく、
「最近は先生も色々と大変だからねぇ。萌子も立場を考えてあげて、慎重におつき合いするのよ」
母は大らかなのだ、と萌子は思った。その大らかさで、父を受け入れたのだ、と。
「……前に、話したことがあったでしょ? 千絵ちゃんの店から、三田村のおじさんの店まで案内した先生のこと」
「……うん、あったね」
「あの時の、先生なの」
「……そっか」
物思いに耽るように視線を彷徨わせた後で玲子は、
「一目惚れ、しちゃったのね」
全てお見通しよ、と言わんばかりに萌子に向かってウインクをしてみせる。
「どうりで、最近あなたの絵に艶が出て来たはずだわ」
「……彼ね、美術の先生でね、立花久志っていう名前なの」
気のせいだろうか。玲子の顔に、一瞬憂いの影が過ぎったように見えた。
彼氏が出来た、なんて野暮な話をするために、玲子のアトリエを訪れた訳ではない。もっと伝えたい大切なことがあるのに、それを上手く言葉に出来なくて萌子はつい試すようなことを口にしてしまった。
立花、という姓を玲子が知っているはずがないのだ。母が知っている父の名は、
『澤崎 芳久』
なのだから。
「ママは、パパがここに来るまで、何ていう名前だったか知ってる?」
何故それを……。玲子の戸惑い顔が無言でそう問い掛ける。
「……千絵ちゃんに聞いたの。ママと、パパの話を」
「……そう」
ため息混じりに小さくそう漏らすと、玲子はそっと萌子を見つめた。
「……どこまで」
「え?」
「ううん」
何でもない、という風に玲子は力なく首を2度3度振って、
「お父さんの本当の名前は、立花っていうのよ」
「……ママ、知ってるの?!」
驚きに、萌子は弾んだ声を上げる。そんな娘を見つめる、玲子の黙然とした微笑みが、肯定を表していた。
(どうして……)
「立花さん、ってことは、お父さんの……」
「子供なの」
そう告げてから萌子は、誤解を恐れてまごついたように言葉を継ぐ。
「でもね、パパとはホントは血が繋がってないの」
「知ってるわよ」
悠然と玲子は微笑んだ。
「久志君、だっけ? 彼のお母さんがね、うちを訪ねて来たことがあるの」
玲子の落ち着いた話ぶりと裏腹に、彼女の口を突いたその内容は衝撃的なものだった。予想もしないその台詞に、萌子は思わず言葉を失う。
「あれは、お父さんがいなくなってから5、6年経った頃だったかな。詩織さん―久志君のお母さんがね、一人で訪ねて来たの。『以前お世話になった、芳久の妻です』って」
それがどんな思いをする出来事だったのか、玲子は笑顔の下に本音を隠し通したまま話を続けた。
「それでやっと、お父さんが黙って出て行った訳が判って。ちょっと安心したの」
「……」
「詩織さんはね、いなくなったお父さんのことを探しに来たの。でも、ホントはお父さんがこの街にいないことは、最初から判ってたみたいだった」
「……お父さんに、逢ったよ」
「……えっ?」
さすがに玲子もこの台詞は予期していなかったらしい。彼女は、ぽかんとした顔で驚きを表現してみせた。
「今、柳井っていうところに住んでいるの」
「柳井……」
「……あたしたちの知らない人と一緒に」
「……そう」
安堵なのか落胆なのか、玲子は小さな吐息を吐いた。
「元気だった?」
「……うん」
「不思議なものね」
玲子はそう曖昧な笑みを浮かべて、
「どんな別れ方をしても、結局気になるのはそんなことなのね」
「恨んでる?」
「え?」
「……パパのこと」
「まさか」
玲子は面白そうにそう笑って、
「感謝してるわ」
母の言葉は、心の底からのものらしかった。けれども萌子にはその心境が、どうしても理解出来なかった。
「……ママはパパのこと、どう思っていたの?」
(そして今はどう思って……)
「……夢、かな」
「……え?」
母は微笑んでいた。きっと父のことを口にしたら哀しそうな顔をすると思っていたのに、なのに母は微笑んでいた。
「お父さんはね、ママの前に突然現れて、あっという間に去ってしまった。ホント、そんな感じだったの。確かに記憶を失しているあいだは、あたしたち家族のことだけを愛してくれてた。でもね、時々感じていたの。お父さんが記憶を失す前に過ごして来た、暮らしの匂いを」
「……」
「今でもね、夢だったんじゃないかって思うこともあるの。でもね、夢じゃない証拠に、あなたがいるのよ」
「?」
「萌子」
萌子の頬に伸びた繊細な指先が、愛おしむように撫でる。
「あなたはね、あたしとお父さんの子なの。お父さんがこの街にいた、大切な証なの」
「……」
「夢を見た記憶と、あなたの存在だけが、ママがパパを好きだった証拠なの」
いっそう優しく、玲子は微笑んだ。
「きっとね、パパも同じだと思う」
離れていても。一瞬しか逢えなくても。届かなくても。そして二度とと逢うことがないとしても。愛する人を想う気持ちに、変わりはないのかもしれない。
少女らしいセンチメンタルな気持ちで、萌子はそんなことを思った。
「1度連れて来なさいね。久志君を」
「……うん」
涙を浮かべながら、萌子は小さく頷いた。