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第十一章 告白(2)

 頬が熱い。

 一拍の間をおいて、その言葉の意味を突然理解したように、心臓が激しく鼓動を打ち始める。

 久志の言葉が萌子の胸の奥に届いて、マグマのように溶け出した。心の芯が、火傷しそうに熱い。安らぎと高揚に指先が震える気がして、萌子は思わず掌を握り締めた。

 初めて、愛する人の気持ちを聴いた。

 (今でも……)

 今でも好きだ。そう言ってくれた。それだけで、萌子の心は春空に溶けてしまいそうになった。

 壊れた玩具みたいに高鳴り続ける心臓に、久志の言葉が拍車を掛ける。

 「僕だって、出来ることなら、このまま君のそばにいたい」

 「じゃあ!」

 一瞬目を輝かせた萌子に、久志は重々しく諭すような口調で、

 「君を、東京へは連れていけない」

 「……」

 「僕の話を、聴いてくれるかい?」

 「……うん」

 萌子は小さく頷いた。それから、体を丸めるように膝を抱えた。

 風の囁き。鳥の囀り。

 静かだ、と思った。他には何も聞こえない。その静けさの中で、自分の胸の鼓動がやけに大きく感じられた。

 久志は、その静寂を味わうようにしばらく黙り込んだ。それからすっと息を吸って、

 「君には、話したよね?」

 「?」

 「とりあえず、春まではこの街で暮らしてみようと思って、臨時講師を引き受けたって」

 「……うん」

 「最初は、本当にそのつもりだったんだ。僕の先生も、戻れるなら半年で戻って来いって言っていたし」

 久志は懐かしむようにゆっくりと辺りの景色を見回した。

 「……君と、初めて会った日のこと、覚えてる?」

 「うん」

 もちろん覚えてる。今も彼女の胸の中に鮮明に残るその記憶。

 「君は、俺のバッグをしきりに気にしててさ」

 「やだ」

 萌子は思わず口に手を充てて、

 「そんなとこ、見てたの?」

 恥じらう少女を見て、久志は可笑しそうに笑った。

 「画材を気にするなんて、絵をやる娘なのかなって思ったんだ。そしたら急に親しみが湧いて来て……」

 甘酸っぱい感傷に少し照れたような顔をして、そして久志は、

 「……でもその前から、きっと出逢った瞬間から、君のことが好きになってたんだ」

 ずっと憧れていたはずの言葉だった。嬉しいはずなのに、萌子は何だかこそばゆくて、首まで真っ赤になりながら俯いて掌で岩を撫で回した。

 心臓はとっくに壊れてしまったみたいだった。明らかに普段より速い脈拍が、全く元に戻らなくなっている。体がふわふわと頼りなく浮き上がるようで、萌子は不安定な岩の上がさらに覚束なく感じられた。

 信じられなかった。あんなに近づいたり離れたりした2つの想いが、本当は始めから互いを向き合っていたなんて。

 「このまま、この街で美術教師として暮らしていくのも悪くないかなって、本気で思ったこともあった」

 「でもそれは……」

 「うん」

 判っているよ、という風に久志は軽く頷いて、

 「僕はね、父さんの絵にとても憧れていたんだ」

 「え?」

 唐突な台詞。もう二人のあいだでは触れずに済むようになったはずの『父さん』という言葉を耳にして、萌子は思わずビクッとした。

 「小さい頃―まだ父さんが尾道から帰って来る前に、父さんの絵を見たことがあったんだ。それを見てからずっと憧れていて、本当はとても憧れていて、でも帰って来た父さんに僕は上手く接することが出来なかった。そして父さんはいなくなって……」

 そうして久志は、抱えている心の内側の闇を初めて萌子に見せた。

 「大学2年の時に父さんの書きかけの書類を見つけて、僕はそこで描けなくなった。それまで、描く才能だけは父さんと繋がっていたと思っていたから……」

 「……」

 「それから、何も考えることが出来なくなった。何かに触れることが怖くて、身も心も動かなくなった」

 鈍痛に似た重苦しさが、萌子の胸にじっとりとのしかかる。

 「君が父さんの本当の子供だって知った時、不思議と驚かなかったんだ」

 (あの時……)

 萌子が久志と半分兄妹だと告げた、あの時。そう、確かに彼は笑っていた。

 「何故だか判らないけれど、君と僕に血の繋がりがあるなんて、信じられなかったんだ。ううん。信じたくなかった。その瞬間、『あぁ、やっぱり父さんは僕の父親じゃないんだ』って、確信したんだ」

 どれだけ傷つけたのだろう。

 浅はかな自分が疎ましくて、萌子の心は澱んだ。

 好きな人を愛せなくなること。好きな人と離れてしまうこと。

 自分の心に訪れる苦痛だけを案じて、本当は知らず知らずの内に久志を傷つけていたのかもしれない。萌子はそう考えて、自らを恥じた。

 「……ごめんなさい」

 「え?」

 「先生のこと、たくさん傷つけてた」

 「……」

 「だってあたしのために、先生は知らなくてもよかったことを……」

 みなまで言葉を継ぐことが出来ずに、萌子は涙を溜めて俯く。

 先生は、あたしと出逢って幸せだったのだろうか。

 あたしは幸せだった。たくさんの想い出や慈しみをもらった。けど、先生はただ苦しみを覚えただけなのではないだろうか。

 ぽんぽん、といたわるような手つきで、久志の掌が萌子の黒髪を撫でた。

 「君のため、じゃないんだ」

 「え?」

 顔を上げたその先には、思ったよりも間近にいつもの穏やかな表情があった。

 「……父さんの血液型が書かれた用紙は、手書きだった。自分の血液型を書き間違える人なんて滅多にいないとは思ったけど、絶対とは言い切れなかった。世の中には、自分の血液型を勘違いしている人もいるって聞いたこともあるし」

 「……」

 「僕と君のあいだに何のやましさもないことを、僕は僕のために証明しなければならなかったんだ」

 鳶色の瞳が、強欲なほど力強く萌子を見つめた。

 「君を、永遠に僕のものにしたかったから」

 「……え?」

 すっと視線を逸らして、いつものように気後れしたような照れ笑いを浮かべた久志は、

 「こんなの、僕のわがままかもしれないけど……」

 「……なに?」

 「この街で、僕を待っていてくれないか?」

 「え?」

 ドキン、とした。今までで一番大きく、萌子の心臓が跳ね上がる。

 「どうしても今、僕は東京に戻らなきゃならない。でも、もしそれで独り立ち出来たら、いやたとえ失敗したとしても」

 強い意志を秘めた、鋭い口調。

 「僕は必ずこの街に戻って来るから」

 濡れた頬を拭いもせずに、萌子は久志の優しげな顔をじっと見つめた。

 「まぁ、ダメだったらこの街に戻って、また美術教師をやってもいいし」

 「……そんなこと、言っちゃダメ」

 真剣な顔をしてしまった、その照れを隠すように、久志は茶化した感じを装った。そんな彼を萌子は諌めるように睨んだ。

 「先生の夢は、あたしの夢でもあるんだから」

 「……ごめん」

 萌子の真剣な口調に、うろたえたように俯いた久志は、

 「必ず、成功して帰って来るから。だから、僕を待っていて欲しい」

 「……どうして」

 「え?」

 「どうして、もっと早く話してくれなかったの?」

 瞳を濡らしたまま萌子は下唇を噛むと、ちょっとだけ頬を膨らませて上目使いに久志を睨んだ。

 「……それは、君に確かなことを言えなかったから」

 「不安だったんだから」

 呪縛が解けたように、萌子は次第に泣きじゃくりながら、苦しかった心情を吐露し始めた。

 「先生の気持ちが判らなくて、不安だったんだから。兄妹だと知っても、先生は全然平気な顔してて」

 涙に声を詰まらせながら萌子は、

 「あたしは、妹みたいなものかと思ってた」

 「……好きだったよ、ずっと」

 「……」

 「ホントは、何度も奪い去ろうと思った。万が一本当の兄妹でも、それでも構わないとさえ思った」

 不意に、久志の右手が萌子の肩を掴んだ。

 (……え?)

 驚く間もなく、萌子はその腕の温もりに包まれていた。

 (うそ……)

 心臓が、今にも爆発しそうなほど激しく鼓動している。全身で脈打つように、体中がドクドクいっている感じがした。

 思った通り、久志の腕の中は暖かかった。久志の優しさを思わせる、穏やかな暖かさ。圧倒的な感情の高ぶりに震える萌子の体を、安らかな温もりがそっと包み込んだ。

 「僕にはもう、他に帰る場所はないんだ」

 萌子を腕の中にかき抱きながら、久志はそう呟いた。

 (二人ぼっち)

 揺らめく萌子の心の片隅に、そんな言葉が静かに灯る。それは、この上もなく幸せな響きだった。萌子は、久志の匂いの中でゆっくりと目を閉じた。

 柔らかな春風が、二人を包んでいた。あの日、秋風に吹かれながら感じた、共鳴する想い。あの時と寸分変わらぬ想いが、今ここにある。

 「……絶対に、帰って来てね」

 腕の中にその台詞を聴いた久志は、少しびっくりしたように萌子の身体を離すと、その小さな顔を覗き込むように見つめる。萌子も、少し見上げるように久志を見やった。

 「もう、一人ぼっちのままでいるのはイヤなの」

 「当たり前じゃないか」

 いつもの清廉な笑顔を見せて、久志は小さく頷いた。

 「必ず、帰って来るよ。君のところに」

 久志の肩越しに、パステルブルーの空が見える。どこからかひばりの鳴く声。二人を包む風の柔らかな感触。

 他にはもう何も感じなかった。安らかな気持ちで、萌子はもう一度目を閉じた。


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