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第十一章 告白(1)

 柳井から帰った翌日の放課後、久志の口から今学期限りの退任が美術部員たちに伝えられた。

 反応は様々だった。中には、噂を伝え聞いていたものもいたらしい。そんな中で、秋月はづきがあまりに判りやすく顔を青ざめさせていたのが、妙に印象的だった。

 「ま、当然といや当然……」

 飄々とした顔で同級生がそう嘯くのを、萌子は隣で何の感情も表さずに聞いていた。

 その週、久志は何かと忙しそうだった。部活でももろくに顔を合わせられずに、二人はすれ違ってばかりだった。

 久志がいなくなって、ほんの少し寂しさが増した気がする部室で、ゆっくりと尾道の街角を仕上げながら、萌子は惜別とは別の感情に捕われていた。

 それは柳井からの帰り道、久志と踏切のところで別れた瞬間から、突如として胸に湧き上がって来た想いだった。

 (おかしいのかなぁ、あたし)

 いまさら遅過ぎる気もする。始めは、ちょっとした気まぐれなのだろうか、とも思った。けれどもその想いは、日が経つに連れて彼女の中でどんどん大きくなっていく。

 キャンバスに向けていた筆を休めて、萌子は春の陽射しがあふれる教室の窓の外を見やった。いつかここから二人で見た福山城の天守が、春霞む空をバックにぼんやりと佇んでいる。

 (あの頃から……)

 何も変わらない、と萌子は思った。教え子から共鳴する間柄に、そして半分繋がった兄妹から赤の他人に。立場を違えても、萌子の気持ちがブレることは、結局1度もなかった。

 それなのに、あんなに心が揺れ動いてしまったのは自分の弱さのせいだ。萌子は、心からそう悔やんでいた。

 自分の意志の弱さが、時の流れに簡単に晒されてしまう心の弱さが、悪戯に哀しみを生んでしまうのだ、と。

 こんな時、薫のような強さが欲しい、と心底思う。愛する人の幸せのために、潔く生きることが出来る強さ。それとは違うけれど、同じくらいの強さが、今欲しい。

 あたしに出来るだろうか。自分の気持ちに潔くなれる、強い生き方が。

 「どうしたの? 萌子」

 あんまりにも長くぼんやりと呆けている萌子に、隣にいた部員が心配そうに声を掛けた。

 「……あっ、ううん。何でもないの」

 萌子はそう振り返って、

 「見慣れた景色も、明日また見れるかどうか判んないんだなぁ、って思ったの」

 と可笑しそうに笑った。



 ・午前十時 浄土寺境内に集合

 ・ハイキング出来るくらいの軽装で来ること


 最後のデートには、奇妙な条件が付いていた。

 「ハイキング?!」

 土曜日の夜、久志からのメールを受け取った萌子は、誰もいない部屋の中で思わず素っ頓狂な声をあげてしまった。

 「……オリエンテーリングでもやるつもりかしら」

 尾道の街の中で、まだ二人で訪れたことのない場所がいくつかある。けれどもそのどれもが、野山を駆け回るような服装とは縁遠い場所だった。

 3月12日、日曜日。萌子は首を傾げながら、それでもジーパンにスニーカーという出で立ちで、家を後にした。

 萌子はわざと、祖母の家の前を通って浄土寺を目指した。その道は、元日の午後に辿ったものと同じだった。

 大好きな人に逢いに行く道。そう思い感じたあの日の緊張感とは違う種類のプレッシャーに、萌子の胸は押し潰されそうになっていた。

 ベッチャー祭の朝、都わすれに向かった道。

 クリスマスイブに、久志を待ち続けた教室。

 バレンタインデーに、久志の姿を追いかけた廊下。

 ときめきや苦しさ、切ない想いを、久志を見つめるたびに萌子は感じて来た。でもそれは、全て受け身の感情だった気がするのだ。時の流れが与える結果をただ傍観して、一喜一憂するだけの、人任せの恋。

 与えられるだけの喜びや哀しみに身を委ね、満足する。今までの恋なら、きっとそれで十分だっただろう。

 (でも……)

 こんな想いを、生まれて初めて感じた。遅過ぎるのかもしれない。でも、体の中に湧き上がる今まで触れたことのないほどの熱情を、萌子は大切にしたいと思った。1度でいいから、自分から恋にぶつかってみたい、と思った。

 (もう、待つのは十分)

 麗らかな春の陽が、細い路地にあふれんばかりに降り注いでいる。

 見慣れた光景。通い慣れた路。住み慣れた、坂のある街。

 この街に、たくさんの宝物がある。家や友や、慣れ親しんだ暮らしが。そんな故郷の風景一つ一つが、今日は何故か目に鮮やかに感じられた。

 赤く彩られた山門を潜ると、久志の姿は探すまでもなく簡単に見つかった。さほど広くない境内の中ほどで、まるで鳩を従えるように立ち尽くしている。

 萌子が近づくと、彼の周囲にいた鳩が一斉に舞い上がった。

 「お、来たな」

 「おはようございます」

 萌子は、わざとしおらしくそう頭を下げる。

 「先生、なんか……」

 「ん?」

 「なんか、マジシャンみたいだった」

 「えっ?」

 「だって、鳩を家来にしているみたいだったんだもん」

 魔術師、というより異邦人だ。と萌子は思った。

 結局、ただの臨時講師。ただの教え子と教師の間柄。

 このまま過ぎ去ってしまえば、この半年の出来事もアルバム1ページほどの思い出として、記憶の隅に埋もれてしまうかもしれない。

 萌子はふと、父のことを思った。

 『風のように去ってしまった』父も、母から見ればやっぱり異邦人だったのだろうか。

 「……どこに、行くの?」

 「え?」

 「これから、どこに……」

 今日、今からどこに。もちろん萌子はそう問い訊ねたつもりだった。けれどもその口調は、久志のこれからの行く末を訊き糾しているようにも聞こえた。

 「ああ」

 久志は何の疑いも見せずに、やんわりとした笑みを浮かべて、

 「ハイキング」

 「……はい?」

 あのメールは本気だったのかと、萌子は唖然とした顔で久志を見つめた。

 「……ってどこに?」

 「まあ、ついて来れば判るさ」

 久志はいつになく自信ありげにニヤッとして、

 「とっておきの景色を、見せてあげるよ」

 とりあえず本堂でお参りを済ませると、久志は萌子を誘って多宝塔の裏手へと回り込んだ。

 その勝手知ったる足取りを、萌子は不思議に思って、

 「先生、ここに来たことあるの?」

 萌子がこの寺を訪ねたのは、小学生の時以来のことだった。母や祖父母に引かれてやって来たその日のことを、萌子はあまりよく覚えていない。ただ、今日境内に足を踏み入れた瞬間に、鳩と戯れた記憶だけは鮮明に蘇った。

 「うん、何度かね」

 久志はさらりとそう答える。

 「静かで、落ち着くしね。境内から見える街並みも、とても良いんだ」

 そう言ってから久志は、意地悪そうな顔つきになって、

 「君に振られた時は、鳩に慰めてもらったりね」 

 「! あたし、先生のこと振った覚えなんかありませんっ!」

 何を言い出すのかと、萌子は思わず顔を真っ赤にして抗議した。

 「1度諦めさせらせたのは、あたしの方なんだから。先生だって黒沢先生とすっかり仲良くなって……」

 「それは!……」

 思わぬ反撃に久志は目を白黒させて、

 「だって、それは誤解だって判ったじゃないか」

 「わたしだって誤解された。龍太君のことは、先生のはやとちりじゃない」

 「萌ちゃんだってはやとちりしてたじゃないか……」

 微かに息を荒くしながら、二人は黙り込んだ。ぽっぽっ、と足元に纏わりつく鳩の和やかな鳴き声が聞こえて来る。

 「ぷっ」

 二人は一斉に吹き出した。

 「結局二人とも……」

 「あわてんぼう?」

 穏やかで賑やかな笑い声の中で、萌子はしんみりと思っていた。

 少なくとも、愛しく想われたことだけは間違いないのだ、と。

 久志に連れられて、木々が生い茂る道をしばらく行くと、イラスト入りの案内板があった。

 「瑠璃山?」

 その案内板は、登山道を示す絵地図だった。『観音の小道』と書かれた左側の経路と『修験道』と書かれたやや直線的な経路。修験道、と書かれたルートには、一番鎖・二番鎖・三番鎖の文字が見える。

 「浄土寺山だよ」

 久志に背後からそう声を掛けられて、萌子は飛び上がらんばかりに驚いた。

 「浄土寺山?!」

 千光寺山・鳴滝山と並んで尾道三大展望台と称されているのが、浄土寺山山頂の展望台だった。山頂の展望台やそのすぐ下にある浄土寺奥の院辺りからの眺めは、尾道で一番だと聞いたことがある。

 その割にあまり著名な観光スポットでないのは、急な登りで千光寺山のようなロープウェイもないからだ、とも。何しろ、元は山伏の修練の場だったというのだ。もちろん、萌子は1度も訪れたことはない。

 「まさか、あの鎖場を登って行くの?」

 萌子が恐る恐るそう訊くと、久志は大げさに笑い出して、

 「冗談言うなよ。それじゃハイキングじゃなくて、修業になっちまう」

 二人は案内板の先の道を左に曲がり、小さな池に架かる橋を渡った。

 しばらく行くと、道は山あいへと入り込んだ。むき出しになった岩肌。ごつごつとした巨石。うっそうと生い茂る木立の合間に、たおやかな陽が差し込む。木々の枝先に、春の息吹が感じられた。

 「せんせい……」

 「ん?」

 「この道も、ハイキングとは呼べないですよ」

 坂道に慣れた萌子の足でも、結構きつめの道だった。こりゃ誰も来ようとしないはずだ、と萌子は心の中でぼやく。

 「なんだ、坂道っ子の癖にだらしないなぁ」

 (都会のもやしっ子の癖に)

 見た目に寄らず健脚な久志の、爽やかな笑顔を萌子は恨めしげに見上げた。

 「楽して手に入ったら、つまらないだろ?」

 「え?」

 「人生も、絶景も」

 もっともらしい顔をする久志を、萌子は小馬鹿にしたように笑った。

 どんなに苦労したって、叶わないものもある。苦労をした方が素晴しいなんて、願いが叶ってから思うことだ。

 山道を歩いて30分あまり。途中観音様を幾つも数え、見上げるほどでかい不動岩に描かれた観音様の脇を通り過ぎて、二人は奥の院に辿り着いた。

 寺院の白壁が春光に映え、一層白く見える。無住なのか、明るい印象を与える院の周囲は、奇妙な静けさが漂っていた。

 ここまで登るとさすがに眺望が良くなる。若葉が芽吹く木々の合間に、エメラルドグリーンの尾道水道が覗いた。

 「きれいねぇ」

 そう感嘆の声を上げた萌子を、いつかの彼女と同じように久志は満足げな顔で見つめた。

 「ついておいで」

 「え?」

 「もっととっておきの景色、見せてやるよ」

 そう言って久志は萌子の右手を取る。ドキンと、萌子の左胸が自己主張をするように跳ね上がった。

 心臓が、ドキドキしていた。指先からつま先まで、体中がドクドクいっている。どうにもならない胸の高鳴りが、掌を通して久志にバレてしまうような気がした。

 3度目に触れた彼の手の温もりも、やっぱりいくらか高めだった。強過ぎず、弱過ぎず。柔らかなその温もりは、掌を通じて萌子の心を優しく包み込む。

 萌子は久志を見上げた。久志も真摯な目つきで萌子を見返す。

 優しげな鳶色の瞳。

 あの日、『ひこうき雲』の店内で、

 (綺麗……)

 と感じた、少し頼りなげな、端正な顔立ち。

 何も変わっていない、と思った。あたしの気持ちは何一つ変わっていない、と。

 (あたし、先生が好きなんだ)

 少し興奮気味に、萌子はそう思った。

 ―この恋のためならば、全てを捨てられる―

 萌子の手を取って、久志は奥の院の裏手にある展望台へと彼女を誘った。久志に左手を曳かれながら、萌子はときめきと緊張が交互に奏でる早鐘に、ただ身を委ねていた。されるままに連れられながら、この階段が永遠に続けば良いのに、と思っていた。

 浄土寺山展望台は、手狭な印象を与えるこぢんまりとした空間だった。人の背丈よりも高い石がごろごろしている。そんな巨石群に囲まれた敷地の中ほどに、柱が臙脂に塗られた鉄製の井楼みたいな建物が建っていた。

 久志はその展望塔には目もくれずに、敷地の片隅にある一際大きな岩の前に向かう。

 「ここに、昇るんだ」

 「え?」

 萌子が少し驚いたように見やると、久志は戯れるような笑顔を見せて、

 「大丈夫。僕が手を貸すから」

 意外な身のこなしで岩をよじ登ると、久志は萌子に向かって手を差し延べた。

 「さあ、おいでよ」

 久志の手を借りて何とか岩の上に上がると、萌子は一つ大きなため息を吐いた。

 「……先生、これ全然ハイキングじゃないよ」

 石の上に両手をついて息を荒げている教え子を、『しょうがないなぁ』といった風に笑った久志は、

 「顔を上げてごらん」

 「え?」

 萌子は、子供のように微笑む鳶色の瞳を見つめ、それから顔を上げて周囲を見渡した。

 「……すごい」

 唐突に思い出した。『浄土寺山からの眺めが尾道で一番』そう聞いた相手を。

 それは薫だった。去年、自慢げに話していたのだ。龍太に連れていってもらった、ロマンティックな景色のことを。

 彼女のその言葉の意味が、目の前に広がっていた。

 (確かに、尾道一だ)

 そこからは、尾道の全てが見渡せた。尾道水道に寄り添うように続く雑多な旧市街も、千光寺の玉の岩も。反対側に目をやると、重なり合う新旧2つの尾道大橋が見下ろせる。

 尾道だけじゃない。その光景は、遥か彼方まで続いていた。濃く淡く、幾重にも重なる瀬戸内の島々。そして遠く四国山脈のその上に、地上の何倍もあるパステルブルーの空が広がった。

 「千光寺山より、こっちの方が少し高いんだ」

 言葉を失して尾道の街を見下ろす萌子の横顔に、久志はちょっとだけ自慢げにそう語り掛けた。

 「だから、こんなに良く見えるんだろうね」

 久志の言葉に小さく頷きながら、萌子は彼が与えてくれた景色に見惚れていた。

 離れていく彼の、それは置き土産なのかもしれない。

 去り行く人の、最後の優しさ。

 長いあいだ、萌子はいつまでも浄土寺山からの絶景を見下ろしていた。

 パステルブルー、エメラルドグリーン、浅黄色。春の陽に霞立つ、尾道の街。

 「春だね……」

 ポツリと、萌子はそう呟いた。

 「……うん」

 「先生、覚えてる?」

 「ん?」

 「ベッチャー祭の日に、西国寺に行ったこと」

 「……ああ」

 「あの時ね、先生言ったんだよ。春には、ここにいないかもしれないって」

 「……」

 「あの時からね」

 泣くまい、と思った。萌子は胸に込み上げて来る熱い思いを堪えるように、小さく一つ息を吐いて、

 「ずっと不安だったの。先生が、いつか目の前から消えてしまうって」

 「……」

 「先生がね、ホントは半分お兄ちゃんかもしれないって知った時よりも、先生が東京に帰るって知った時の方が、もっとショックだったの」

 遥か上空からヒバリの鳴き声が聞こえて来る。それ以外は、音もなく静かな世界だった。

 「先生、行っちゃうのね?」

 萌子は子犬のように震える瞳を、それでもしっかりと久志の方へ向けた。

 「……うん」

 すまなそうに、久志は視線を逸らす。

 「あたしね、ずっと一人ぼっちだったの」

 萌子のその声に、久志は弾かれたように顔を上げた。

 「先生に逢うまで、わたし一人ぼっちだったの。友だちも、お母さんもいたけど、でも一人ぼっちだったの。でも、それが寂しいことだなんて、気づかなかった。先生に逢って、初めて気づいたの。今まであたしは寂しかったんだって」

 わずかに瞳を潤ませて、萌子は切なげな声を上げる。

 「気づいてしまったの、一人ぼっちだって」

 もうその寂しさに、耐えることは出来ないと思った。一人きりでは。

 「先生のことが、好き。先生と、離れたくないの」

 黒目勝ちの小さな瞳をめいっぱい見開いて、萌子は久志を見つめた。

 「あたしを、一緒に東京に連れていって」



 鳶色の瞳が、頼りなく揺らめいた。惑い、逡巡するその心を映し出すように。しばらくのあいだ、久志はためらうように黙り込む。

 「……ダメだよ、それは」

 「何で!」

 判り切っていた答えのはずだった。それでも、未練がましいと思いながらも萌子は、つい感情を露わにして声を荒げた。

 「先生がいなくなったらわたし、ここにいる意味がなくなる。高校だって、卒業してもしょうがないの」

 涙と、たぎる想いに顔を歪ませて、想いのたけを叩きつけるように、萌子は久志に言い寄る。

 「家も友だちも、先生の代わりにはなれないの」

 「……」

 「先生は、あたしが嫌い?」

 「……好きだよ」

 「……え?」

 泣き腫らした目で、萌子はキョトンとしたように久志を見つめた。

 「好きだよ。ずっと、大好きだった」

 溜め込んだ想いを瞳に込めるように、切なげな表情で告げる久志の台詞が、春風に乗って萌子の耳に届いた。

 「今でも、萌子のことがとても好きだ」


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