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第二章 美術部(1)

 「おはようございます」

 水谷家の玄関口で萌子がそう声を張り上げると、じきに薫が姿を現した。パジャマ姿で、歯ブラシを口に突っ込んだまま目を丸くしている。

 「……あんた、どうしたの?」

 「どうしたのって、迎えに来たんじゃない」

 「そりゃこのシュチエーションを見れば、あたしがあんたを迎えに来たようには見えないだろうけどさ」

 去年の春、二人で福山女子高校に受かった後で、萌子が薫を迎えに行くことが決まった。

 彼女は毎朝、澤崎家と水谷家の境にある階段を下って薫を迎えに行く。そしてそのまま二人は水谷家の正門を出て駅に向かうことになっていた。

 小学校・中学校の頃は逆だった。薫が萌子を迎えに行き、そのまま澤崎家の門を出て登校していた。

 小学校は澤崎家の目の前にあるし、中学校には自転車で通うために、玄関先がフラットになっている澤崎家の門から出発していたから、結局薫が迎えに行く形になっていた。

 水谷家は澤崎家と背中合わせに建っている。それぞれの家に面した道路が一本違うために、萌子の家の目の前にある学校に来るために薫はわざわざ坂の下まで降りて遠回りをして来なければならなかった。坂の街では、これは結構由々しき問題である。

 これでは不便だということで、水谷家が引っ越して来た1ヶ月後に、両家の間の柵に一つの小さな門と段差を埋める階段が設けられた。

 それ以来、二人は毎日一緒に登校していた。尾道駅へは薫の家の方が近いということで、去年の4月から今度は萌子が薫を迎えに行くことになったという訳だ。

 もっともその一週間後には、しびれを切らした薫が澤崎家に怒鳴り込んで来たのだが。

 「ちょっと待っててな。すぐに支度するから」

 そう言うと薫は奧に引き返して行く。萌子は上がり框に腰を掛けた。

 まあ確かに薫が驚くのも無理はなかった。何しろ高校に入ってから、三日に二日は薫の方が萌子を迎えに来ているのだ。時には、澤崎家の居間で平然とお茶をすする薫のそばで、萌子が支度に走り回っていることもある。

 二人で登校するようになった時から、萌子と薫の性格の差は歴然としていた。

 毎朝澤崎家の玄関に迎えにやって来る薫を、萌子は必ず十分以上待たせた。高校に入って今度は萌子が薫を迎えに行くと決まった時、薫は、

 「萌子があたしを迎えに来るようになるとはねえ」

 と皮肉っぽい視線を投げ掛けたものだ。

 日に当たったことがないんじゃないかと疑いたくなるほど白い、陶磁器のような透明な素肌。見るからに柔らかそうな黒髪を胸の辺りまで伸ばした薫は、同姓から見てもはっとするくらい綺麗な、愛くるしい女の子だった。薫の素顔を知らない男子は、大抵彼女のことを清楚なお嬢様と思い込む。

 けれども、幼い頃から彼女を取り囲む女友達はみんな、彼女のちょっと毒舌な、でもとても面倒見の良い姉御肌な性格に惹かれ、慕っていた。

 しっかり者のその性格は、例えば約束の時間に遅れないとか、そんなちょっとした日常生活にも如実に現れていた。

 薫が萌子の家の隣人として引っ越して来たのは、彼女たちが小学2年生になる春のことだったが、その頃から萌子はいつも薫の陰に隠れて過ごして来たように思う。

 「萌子の場合、ドジで間抜けな性格は自分でもよく理解しているのよね」

 ある日、薫は萌子のことをそう診断してくれた。

 「けど呑気な性格だから、それに危機感を抱くことも出来ないのよ」

 それじゃ自分があんまりにも救われないバカみたいじゃないかと萌子はむくれて見せたが、本音を言うと薫の言うことが何となく実感出来たのも確かだった。

 「でもね、あんたはそれで良いのよ」

 一通り萌子のことをけなした後で、その台詞を口にした時、薫は天使のような極上の笑顔を浮かべた。

 「萌子は感受性が強くて、日常生活に集中していられないほどいろんな方向にアンテナを張ってるんだから。あなたのあの美しい絵は、普通の人間がこなすべき生活のための能力を、そこに注ぎ込んだ結晶なんよ」

 自分の描く絵を、きっと一番評価してくれているのは薫だと萌子はずっと思っていた。彼女に迷惑をかけていると思う分、薫に褒められるのは一番嬉しかったし、励みにもなった。

 「おまたせ」

 ほどなくして、薫が制服姿で現れた。萌子ならあの洗顔の段階から間違いなく15分はかかるのに、彼女は5分余りで支度を済ませて来た。

 三和土の脇にある曇りガラスから朝の光が射し込んで、薫の頬に当たっていた。細やかな産毛が金色に染まるのを、萌子はしばらくぼおっと見つめていた。

 本当に綺麗だと思う。同性がそう思うのだから、異性はもっとそのように思うのだろう。知り合いか否かを問わず、薫は実にさまざまな男性から声を掛けられる。

 その清純な容姿と裏腹な彼女の闊達さに、たいていの男は目を白黒させる。それを楽しむかのように、彼女は『慈善事業』と称して男の子をとっかえひっかえして連れ回していた。

 「何しとんの。早よせんと、先生行っちゃうわよ」

 薫にそう急かされて、萌子は慌てたように立ち上がった。そうだった。今日はそのために、歴史的な早起きをして来たのだ。

 「行ってきます!」

 「行ってきま〜す」

 萌子と薫は水谷家の奧へそれぞれ声を掛けると、門の外へ出た。

 胸のすくような秋晴れの朝だった。

 水谷家の前の階段に立つと、眼下に尾道の街が広がる。その向こうにエメラルド色をした尾道水道、次に向島、そしてその向こうに雲一つない碧空が広がっていた。日立造船所の高々と伸びたクレーンが、朝日を受けて輝いている。

 急な坂道を、二人は足早に下りて行った。

 「それにしてもさ」

 薫はちょっと咎めるような目で、萌子を軽く睨んだ。

 「昨日は萌子、あんまり乗り気じゃなかったじゃない」

 「……別に乗り気じゃないって訳じゃないわよ」

 視線を坂の下に向けたまま、萌子はそう答えた。

 (あんまりに突拍子もないことを言い出すから、何て言って良いか判らなかっただけじゃない)

 もっとも薫のその『突拍子もない』申し出を聴いた時、萌子の表情が幾分仏頂面だったのは、あまりにびっくりして返す言葉が見つからなかったから、と言い切れないことは萌子自身よく判っていた。

 たとえどんなに驚かされたとしても、薫のその並外れた行動力と大胆さには、萌子は子供の頃からすっかり慣れっこである。瞬間的に不機嫌になることなど、今まで一度もなかった。

 なのになぜ昨日は、薫の台詞を耳にした途端に、

 (なんであんなに胸がちくちくしたんだろう)

 小さな路地を駆け下りると、やがて踏切に行き当たる。薫の家が萌子の家よりも近いのは、この踏切までの距離である。

 ここまで来るともう、家並みに阻まれて海は見えない。その代わりに、微かな潮の香りが漂って来る。

 澄み切った穏やかな秋の空気を、萌子は胸一杯に吸い込んだ。

 踏切を渡ると、すぐ目の前にアーケード街が現れる。二人はそこへは入らずに、手前の国道を右に折れて駅に向かった。

 萌子の心臓が急にその存在を示し始めたのは、尾道駅の駅舎が見えて来た辺りだった。足下が浮き立つような、おぼつかない気分になる。そんな風に訳もなく動揺している自分に、萌子は余計狼狽えた。

 (やだ、あたしったら何緊張してるのかしら)

 萌子は、さっきとは別の意味の深呼吸を一つすると、

 「来てるかしら」

 囁くように薫に向かってそう尋ねた。

 「来とるよ、きっと」

 薫が自信に満ちた笑顔で頷く。

 「だって彼、気ぃ弱そうだもん。きっと先に来てるんじゃない?」

 そう言って笑う薫の顔から、萌子はそっと視線を外した。

 何だろう。昨日から薫の言い草がいちいち気に障る。

 駅前に新しく立つビルとは対照的に、尾道駅の駅舎は古ぼけた平屋造りの建物だ。まだ浅い朝の光が射し込んで、駅舎の中の雑踏が斜めの影を作っている。

 ざわざわと揺れる改札付近の人波を背に、彼は立っていた。戸惑いを隠せない、落ち着きのない緊張した面持ちで。

 その瞬間、心臓の内側から誰かが叩いたみたいに萌子の胸が一つ高鳴った。

 「ね、いたでしょ」

 耳元で囁いた薫の台詞が、わずかな不快感を伴って頭の中に響く。

 「せんせぃ!」

 薫が無粋な大声で呼び掛けると、いくらか慌てたように彼がこちらに視線を向けた。

 「おはよう」

 ぎこちない、強張った笑顔で立花―立花久志は二人にそう手を振った。



 立花久志が福山女子高校にやって来たのは、あの雨の日の二日後のことだった。

 その日は朝から、校内に落ち着かない雰囲気が漂っていた。私立のこの学校に新任の教師がやって来るのは二年ぶりということだから、久志の赴任はそれだけでもう充分にニュースだったのだ。

 とりあえず若い―それも大学を出たばかりぐらいの年齢だということは、朝のホームルームの前には教室中に伝わっていた。せっかちな誰かが職員室を覗いて来たらしい。

 萌子だけがその実像を知っているというのは、優越感を覚えるようでもあり、こそばゆい居心地の悪さも感じさせた。

 一時限目の授業が終わると、最初に美術の授業があった3組から、早速立花情報がもたらされた。

 「立花久志。年齢二十三歳。東京出身。優しそうで人当たりの良い感じ。かなりの美形、ねえ」

 隣で話し込む級友たちの台詞に耳をそばだてながら、薫が小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。

 「萌子の言ってることと違って、ずいぶんと評判がいいじゃない」

 そう言われてみれば、確かにそうかもしれない。薫に久志の印象を説明する時、彼女はやれ『頼りなさそう』だの『教師らしくない』だの、散々な台詞を吐いたのである。

 久志と出会ったことを、萌子は薫にその日の夜に携帯で話した。

 『ふ〜ん。そりゃ珍しいこともあるもんねぇ』

 久志との出会いのいきさつをかい摘んで話すと、薫もちょっと驚いたように声を大きくした。

 『それで、みんなが騒ぐほどの男だった?』

 そう突っ込まれて、萌子は一瞬答えに窮した。

 『う〜ん。まあ顔も背もそこそこだけど、なんか頼りなさそうであんまり先生って感じじゃないなぁ』

 とっさにそう口を突いた言葉は、確かに萌子が彼に抱いた印象の一つではあったけれど、その台詞を口にしながら萌子は、久志のことを思い浮かべてどうしようもない違和感を覚えていた。

 けれどもそう感じたことを薫に知られるのは、何となく嫌だった。

 『ふ〜ん、そうなんだ』

 萌子の言葉を聞いた薫はちょっと拍子抜けした様子で、

 『まあそんなロマンティックな出会いが転がっているほど、世の中甘かないわね』

 と素っ気なく言い放ってみせたのだが……。

 「萌子、イケてるだなんて一言も言わなかったじゃない」

 薫がそう言って萌子を軽く睨んだ。

 「悪いとも言ってないわよ。そこそこって言ったじゃない」

 そう反論しながら萌子は、不意に初めて久志の顔を見た時に感じたことを思い出した。途端に、胸の奥の方がキュッと痛んだ。

 「そこそこ、ねえ」

 薫はなおも納得しかねる表情を浮かべていたが、やがて首を小さく左右に振ると、

 「ま、あんたの男に関する美的感覚には前から疑問を抱いてたんや。これでようやく萌子の男の好みが判るわね」

 と、のたまった。

 「うちのクラスの福担やるらしいよ」

 クラス委員長の丸山絵美が二人にそんなことを教えてくれたが、もともと萌子たち四組の副担任は産休に入った美術教師が努めていたから、これはある程度予想されていたことであった。

 「そういえば美術部の顧問もやるらしいよ」

 絵美の台詞に呼応するように、不意に今野晴美がそう言って萌子を振り返ったのは、四時限目の始まる前の美術室に移動する廊下でのことだった。

 「え? ああ、そうなんだ」

 一瞬どんな顔をしたらいいのか判らなくて、萌子は曖昧な笑顔を浮かべた。

 「せっかくだから、イイオトコだと良いよねえ」

 「……そうね」

 呑気な口調の晴美に無理に笑顔を合わせて頷きながら、萌子は悪戯に広がる晴れがましい気持ちを悟られないようにと、必死に平静を装っていた。何浮かれてるのかしら、と自分で自分を戒めながら。

 いつもの美術の授業といえば、何かモチーフを囲んで絵を描いたりすることが多いのだが、この日は久志の授業初日ということで、美術室の中は椅子だけが整然と並べられていた。

 始業のチャイムすれすれに久志は教室に入って来た。浮かべた造り笑顔に、少しだけ自信ありげな様子が窺える。

 実際、この前まで三時限分の授業をこなした彼は、教育実習以来の教壇の感触をすっかり取り戻した気でいたらしい。

 「起立!」

 絵美の甲高い声に、全員が息を合わせたように一斉に立ち上がる。

 その瞬間、部屋の中に空気が奇妙に張り詰めていることに、萌子は今更ながら気付いた。

 全員が着席すると、今まで見たことないような静けさが辺りを支配した。

 萌子は例えようのない胸騒ぎを覚えた。彼女はすっかり忘れていたのだ。このクラスの面々が、どんなに好奇心が強くて、お茶目な連中であるかということを。

 そんな萌子の心配をよそに、生徒たちの視線が自分に集中いていることにまた幾ばくかの自信を深めた久志は、張りのある声で自己紹介を始めた。

 「えー、産休に入られた近藤先生に代わり、今日から皆さんの美術の授業を担当することになりました、立花久志です。よろしく」

 やはり端正な標準語だった。その瞬間、感嘆とも冷やかしとも取れるどよめきが、クラス中から一斉に湧き上がった。

 「……は?」

 第一声がやたらと気取っていた分、次に久志が漏らした戸惑いの声は余計に間抜けに聞こえた。今度は教室中に風船を叩き割ったみたいな大爆笑が弾け飛んだ。

 「な、ほんまもんの標準語やろ」

 「ホントホント。美術じゃなくて国語を教えて欲しいなぁ」

 「あ、あの……」

 「センセー、私に正しい日本語教えてください!」

 最前列の松谷宏美がそう声を挙げた。それがまたひとしきり笑いを誘う。

 隣を見ると、薫が笑いを堪えきれない様子で下を俯いていた。

 「え、いや、その、僕は美大出身だから、その、国語の教員免許は持ってなくて……」

 「質問、質問!」

 ちょうど真ん中辺りに陣取っていた晴美が、張り切った声で右手を高々と挙げた。

 「いや、その、質問って……」

 「先生、独身ですか?」

 皆が今度は一斉に吹き出した。誰かが『当たり前じゃん』と茶々を入れる。

 「いや、まだ、その、結婚には早いかと……」

 「じゃあじゃあ、カノジョいますかぁ?」

 今度は『ヒュウヒュウ』だか『きゃあきゃあ』だか判らない歓声が上がる。美術室の中は、もはや収拾がつかないほど騒然となってしまっていた。

 「いや、彼女っていうのは……」

 ずいぶんと律儀な性格なのか、久志はそんなくだらない質問に顔を真っ赤にしながらバカ正直に答えようとしている。十月だというのに、こめかみの辺りから玉のような汗が次々と噴き出して来た。

 「いやん、先生かわいー」

 「先生! 体が寂しくないですか?」

 「センセー! あたし、福山妻に立候補しまーす!」

 こうして、久志が赴任初日途中まで順調に築き上げていたと錯覚していた自信は、脆くも崩れ去っていった。

 「晴美ったら、新人教師をイジメちゃ駄目じゃないの」

 昼休み。みんなでテーブルをくっつけてお弁当を広げながら、薫がさも可笑しそうに晴美を横目で見た。

 「だってぇ」

 晴美も思い出したようにくすくす笑いながら、

 「何かあのセンセ、純情ぽくってカワイイんだもん」

 「そうそう」

 大きな体をゆさゆさと揺らすように笑いながら、神野恭子が相づちを打つ。

 「何か母性本能をくすぐるっていうかさぁ。何かこうちょっかいを出したくなっちゃうタイプよね」

 「でもみんなひどいじゃない。あの先生、ホントに困ってたよ」

 萌子だけが、真剣な表情でそう級友たちを責めた。

 「あら萌子、何をそんなにムキになってるのよ」

 怪しいわよ。冗談めかしたそんな目つきで、晴美がちらりと萌子を見やった。

 「別に何でもないわよ。たださ、あんまりに可哀想じゃない」

 不服そうにそう言って、萌子は薫が作ってくれた豚肉の野菜巻きにかぶりついた。ちなみに彼女が毎日食べる弁当は、全て薫のお手製である。彼女は毎朝、萌子の分までお弁当を作るのだ。時間に間に合うように起きるのが精一杯の萌子に、お弁当を作る暇なんかあるはずがない。

 「本当にね、何をムキになってるんだか」

 薫がもったいぶった口調で紙パックの烏龍茶をすすりながら、

 「ま、確かにあんまり苛めちゃ可哀想だわよね。何しろ最近の先生はとってもデリケートに出来てるから、登校拒否にでもなられたらかなわないし」

 その日の放課後。萌子は何となく浮ついた気分で美術部の部室に向かった。

 部室といっても、美術室の隣にある準備室を兼用しているだけである。普段の部活動―つまり創作作業は美術室の中で行っている。

 先に準備室の方を覗くと、3年生で部長の小笠原朋美がいた。

 「部長……」

 「あら、萌ちゃん」

 萌子の姿を見て朋美は、いつもの日溜まりのような笑顔を浮かべた。

 「あの、後任の顧問決まったんですか」

 久志の名前を出すのを何となくためらって、萌子はそんな遠回しな言い方で尋ねた。

 「ううん。まだよ」

 あっけない朋美の即答に、萌子は少し戸惑った。

 「あれ、でも、今度来た臨時の先生がやるかもしれないって……」

 「ああ。まあ順当に行けばそうなのかもしれないけどね。そうと決まってる訳じゃないみたいよ」

 「そうなんですか……」

 少し気落ちしたように、萌子は声のトーンを下げた。

 「そういえばあの先生、今日から2年生の授業には出てるのよねえ」

 思い付いたように朋美はそう萌子に問い掛けた。

 「ええ」

 福山女子高校では、1年の時は全員音楽を、2年の時には逆に美術の授業を受けることになっている。そして3年になると、今度はそのどちらかの授業を選択することになっているのである。

 久志は明日から3年生の授業にも顔を出すことになっているらしい。

 「その前に、明日の全校朝礼で紹介されるらしいけどね」

 それまで俯いて何か書類を整理しながら話をしていた朋美は、急に顔を上げると萌子の方に身を乗り出すようにして、

 「ねえ。どんな先生だった?」

 「どんなって言っても……」

 あまりそういうことに興味を抱くことのなさそうな朋美にまでそう尋ねられて、いささか辟易しながら萌子は言葉を探してしばらく逡巡した。

 「別に普通の人だけど。まだ若いんですよ。大学出たばかりで、先生やるの初めてみたいです」

 「ふ〜ん。じゃあ手に余るかもね、うちの生徒たちは」

 朋美の台詞に、肩をすくめる仕草を見せて萌子はこう答えた。

 「もうすでに持て余してますよ」

 それから、金色の西日が校舎の奥深く入り込んで来る時刻まで、萌子はそこで後から来た部員たちととりとめのないお喋りをして過ごした。

 普段は、用事がなければそのまま帰宅してしまうこともあるのだが、今日だけは薫の部活が終わるのを待とう、という気になっていた。

 夕暮れ間際の武道場に顔を出した萌子を、薫はちょっと意外そうな目で見た。

 「あれ、まだ帰ってなかったん?」

 「うん」

 小さく頷いた萌子に、薫は優しく微笑んだ。

 「ちょっと待っててな。今すぐ着替えて来るから」

 二人が学校を出て福山駅のホームに辿り着いた頃には、西日はもう福山そごうのビルの向こうへと沈んでいた。高架式のホームから見渡せる駅南口の高層ビル群が、ほんの一瞬あかね色の輝きに満ちる。

 「ホントに」

 ゆっくりとしたスピードのエスカレーターからポンと飛び降りながら、薫はそう呟いた。

 「え?」

 「登校拒否にならなきゃ良いけどね、あの先生」

 「まさかぁ」

 萌子は思わずそう笑った。

 「でもちょっとやり過ぎたわよね。何かあの先生気が弱そうだし、明日から大丈夫かしらね」

 「あら、薫も一応は心配してる訳?」

 萌子は皮肉っぽく薫を軽く睨んだ。すると薫はちょっと口を尖らせる仕草をして、

 「あら、やあね。あたしは一つもあの先生のこと苛めてないじゃない」

 「あんなに大笑いしてたくせに」

 「だってぇ……」

 と言いさして、薫はまた思い出したように含み笑いをする。それから何か言いたげな目つきで萌子を見て、

 「ま、萌子みたいにマジではらはらしてた訳じゃないけどね」

 「何よ、それ」

 萌子はすっと表情を堅くした。

 「萌子はね」

 そんな萌子の瞳を覗き込んだ薫は、教え諭すような口調で、

 「目がね、嘘をつけないんだな」

 「ちょ、ちょっとそれ、どういう……」

 「あ!」

 口許を強張らせてそう言いさした萌子の台詞を遮るように、薫が素っ頓狂な声を挙げて萌子の背後を指さした。

 「あんなとこに登校拒否予備軍がおるやない」

 そう言うと彼女は、萌子の脇をすり抜けるようにしていきなり走り出した。

 「ちょ、ちょっと待ってよ、薫!」

 いつにも増して突拍子もない薫の行動に、萌子は蹴躓きながら慌てて彼女の後を追った。

 「たちばなせんせぇ!」

 先頭車両が止まる位置に、久志は立っていた。蛍光灯の明かりが奇妙な存在感を増し始めたホームで、彼は薫の恥じらいもない大声に驚いたように振り返った。

 薫に少し遅れて久志の前に辿り着いた萌子は、ハアハアと荒い息を吐いた。

 激しく脈打つ鼓動の乱れが、走って来たせいなのかそれとも緊張しているからなのか、彼女自身よく判らなかった。

 「やあ、君か」

 少し驚いたように目をぱちくりさせて、目の前に走り込んで来た二人の少女を見ていた久志は、先に萌子のことに気付いて頬を緩めた。それから薫のことを見て、不思議そうな表情をして見せる。

 「こんにちは、立花先生」

 得意のゆっくりとした笑顔を浮かべながら、薫がそう小さく頭を下げる。

 「覚えていませんか? 四時間目の授業でお会いしてますよ」

 「四時間目?」

 久志はオウム返しにそう問い返した。それから、まるで蠅が口の中に飛び込んだみたいに、もの凄く嫌そうな顔をした。

 「そういや、君もあのクラスだったな」

 「そんな、汚い物を見るような目つきで思い出さないで下さいよ」

 薫はそうクスクス笑ってから、急に澄ました顔になってちょこんと小首を傾げると、

 「水谷薫です」

 と名乗った。萌子がその横から、

 「私の家の隣に住んでる友達なんです」

 と付け加える。

 「そうなんだ」

 久志が短くそう頷いて、薫を見やった。

 その瞬間、萌子の胸に締めつけられるような痛みが走った。

 その感情を抱いたのは、きっとこの時が初めてだった。その時はまだ正体不明の心の疼きに、萌子はただ戸惑いを覚えながら早鐘を打ち続ける心臓を持て余していた。

 「今日はご苦労様でした」

 わざとらしいほどしおらしく、薫がそう深々と頭を下げた。

 「あ、ああ」

 「気になさらないで下さいね。ウチのクラスは元々が少し異常なんですから」

 「ちょっと薫……」

 そんなこと言ったら先生に失礼じゃないの。萌子は思わず薫の制服の裾を引っ張った。けれども久志はちっとも嫌そうな顔をすることなく、

 「何かちっとも授業にならなくて、悪かったね」

 とはにかむように笑った。そのやけに素直な反応が意外だったらしく、薫はじっと覗き込むように久志を見つめた。

 ズキン、とまた一つ胸が疼いた……。

 「先生、彼女いるんですか?」

 黄昏の気怠さが漂う、中途半端に混み合った列車の中で、薫は久志の身辺情報に関する質問をぽんぽんと浴びせた。そんな彼女の見掛けに寄らぬ人懐っこさに、久志は少し呆れたように苦笑いを浮かべた。

 「君たちは新任の教師に対して、その一点しか興味が湧かないのかい?」

 「あら、女子高でこういった興味を持たれなくなった男の教師なんて、人生の墓場ですわよ」

 薫はにこやかにそう言い放つと、軽い上目遣いで久志を見た。こういう仕草が男にどんな刺激を与えるのか、彼女は自分の美しさを充分に知り尽くしている女の子だった。

 「そういう時は、いないって答えた方が生き長らえるのかな?」

 澄ました顔をして、久志がそう呟くように尋ねる。

 「そりゃポイント上がりますわねぇ」

 「じゃ、いないってことにしとこう」

 「やだせんせ。目が結構マジですわよ」

 元々どちらかと言えば人見知りしがちな萌子は、こうやって薫がぽんぽんお喋りを始めるとつい黙り込んで傍観者になってしまう。いつもなら、その方が気楽に感じられた。

 それなのにこの時は、何故だか薫の軽快な口調がやけに癪に障った。萌子は何となく、二人に置いてきぼりにされたような寂しい気分になった。

 除け者にされたような疎外感。こんな気持ち、例えば薫とその知り合いの男の子と三人で会っている時には、一度も感じたことがなかった。

 「先生は、東京から来たんでしょ?」

 久志の顔をちらりと見上げて、薫がそう尋ねた。

 「あ、うん」

 「どうして福山の高校なんかに来たんですか?」

 「どうしてって……」

 薫の質問の意味を図りかねたのか、久志は答えに窮してしばらく逡巡した。

 「先生の……知り合いのつてで、ここの高校に美術教師の空きがあるって知ったから。今更僕みたいなのが潜り込むには、コネでも使って私立の臨時教師になるしかないからね」

 「でも……」

 自分の質問の意味を噛み砕いて伝えようと、薫は思案顔で言葉を選んだ。

 「だからってこんな田舎まで来ることないんじゃないですか」

 「今はどこだって就職難だからね。そんなに簡単に、それも美術教師なんて需要の少ない職業は見つからないよ」

 さらりとそう答えてから、久志は真面目な顔になって、

 「それに結構いいところだと思うよ、福山も尾道も。これでも、案外気に入っているんだ」

 本当は、昔お父さんが住んでた街だから。萌子はそう言いかけてやめた。何だかごちゃごちゃしていて、上手く薫に説明出来そうもない。

 それに一昨日の様子だと、久志はあまりそのことに深く立ち入って欲しくなさそうな雰囲気だった。

 「ふ〜ん」

 薫はしばらくの間、胡散臭そうに久志のことを見ていたが、やがてポンと一つ手を打つと、

 「そっか、判った。女に振られて、逃げて来たんだ」

 列車は福山駅を出ると、軒の低い家並みや工場や薄茶けた枯野や田畑を貫くように走り、備後赤坂・松永・東尾道と停車していく。

 日は既に山並みの向こうへと暮れ、取り残された昼間の残像のような光景が優しく車窓を過ぎ去っていった。

 まるで、動かなくなってしまったロボット兵のように、にょっきりと腕を伸ばしたまま乱立している造船所のクレーンの脇を通り過ぎて唐突に海が見え始めた頃、薫が久志に向かってこう尋ねた。

 「先生、今日は何時に出て来たんですか?」

 二人の話題はいつしか、久志の身上調査から尾道での暮らしぶりに移っていた。

 「今日は6時50分過ぎの電車に乗ったかな」

 「あら、ずいぶんと早起き」

 「うん。まあ初日だからね。明日からはそんなに早く行かなくても良いんだ。それにね、駅から学校まであんなに近いと思わなかったから。職員室に行ったら、まだ誰も来てなくてさ。参ったよ」

 「あらあら。今日は災難続きだったんですねえ」

 「全くだよ」

 薫は嫌みっぽくそう言ったのだが、ちっとも気づいていないのか久志はそう真顔でため息を吐いた。

 「それで、明日からは何時に登校すれば良いんですか?」

 二人に無視されているような気がして、萌子は珍しく二人の会話に割り込んだ。

 「そうだなあ。7時半頃に学校に着ければ良いんじゃないかな」

 「あら、じゃあ今日あたしたちが乗った電車で充分間に合いますよ。そうだ」

 まるでとっておきのプレゼントを思いついた子供みたいに、薫はポンと一つ手を叩くと目を輝かせてこう言った。

 「それじゃあ明日から朝、駅で待ち合わせて一緒に登校しませんか?」

 尾道駅の改札を出た所で、萌子たちは買い物をしていくという久志と別れた。

 「ちょっと薫!」

 久志の姿が見えなくなると、萌子は薫の袖を引っ張りながら詰め寄った。

 「何であんなこと言い出すのよ!」

 「あら、萌子は先生と一緒に登校するのが嫌なの?」

 「そういうことじゃなくって。だって、先生だって迷惑じゃない」

 「そうかなあ。案外楽しみにしてる感じだったけどなぁ」

 こうして口で突っ掛かってみても、萌子はいつだって薫にいいようにあしらわれてしまう。それでも、この日の萌子はいつになくしつこかった。

 「だいたい、何で先生が生徒と一緒に登校しなきゃいけないのよ」

 「いいじゃない。あの先生、結構イイ感じだし面白そうじゃない」

 「薫まさか……」

 「ん?」

 「……ううん。何でもない」

 まさかあの先生のこと気に入ったの?

 そう吐きかけた台詞を、萌子は寸でのところで飲み込んだ。

 (何言おうとしてるんだろ。別に薫が誰を気に入ったって関係ないじゃない)

 「ねえ萌子。『ひこうき雲』に寄って行こうよ」

 唐突に思いついたように、薫がそう言い出した。

 「え?」

 「ほら。だってあの先生と最初にあったのがあの場所でしょ? きっと千絵ちゃん、この話聴きたがるよ」

 そう言うと薫は、萌子の返事を待たずにまた突然走り出した。


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