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第十章 真実(7)

 ストンと、萌子の中で何かが落ちた。

 (繋がりが、ない?……)

 「……記憶を取り戻してしばらくしてから、俺はもう1度大阪を訪ねた。尾道を離れるつもりはなかったけれど、麻耶にだけは謝っておきたいと思ったんだ」

 そう言ってから芳久は、嘲笑を浮かべて、

 「卑怯なんだよな、俺は」

 「?」

 「麻耶に話しても、それが東京に伝わることはないと高を括っていたんだ。自分が立っている場所の周囲が崩れないことを確認してから、自分の中の罪悪感を薄めるために行ったんだ」

 「……」

 「そして、和雄に会ってしまった」

 あいつは。そう言いさして、芳久は久志の顔を見て目を細める。

 「お前に少し似たところがあってな。実直で、前のめりでおっちょこちょいで。俺が行方を眩ませて麻耶のところに行ったのだとすっかり勘違いして、俺を責め立てた」

 「でも……」

 「もちろん、自分が記憶喪失だったことはすぐに話したさ。君たちのことは隠したまま、尾道で暮らしていることも話した。あいつも、俺が嘘をついていないことは判ったみたいだったけど……」

 それまで微笑んでいた芳久のまなざしに、一瞬真摯な影が射した。

 「『それなら、すぐに東京に戻りましょう』そう言われて、俺はすぐに返事をすることが出来なかった」

 「……」

 「和雄はまた俺の気持ちを疑いだした。そしてこう言ったんだ。『早く東京へ戻ってください。あなたは、お父さんになったんですから』ってね」

 久志を見る芳久の目は、堪らなく哀しげだった。それを見返す久志の瞳は、それとは対照的に不思議なくらい静かに澄み渡っていた。

 「……悩んでいる時間は、あまりなかった。俺の返事が遅ければ、せっかちなあいつのことだからすぐにお養父さんや詩織に話してしまうだろうと思った」

 「……」

 「尾道を離れたくない。ホントにそう思った。けど麻耶のことがばれてしまえば、すぐに尾道のことも知れてしまう」

 芳久は耐えかねるように、視線を下に逸らす。

 「それでも東京には戻らない、そういう手もあった。詩織と別れて、玲子や萌子と暮らすことも考えた。でもそのためには……」

 そう言いさして、芳久は継ぐべき台詞をしばらくためらい、

 「久志。お前が俺と母さんのあいだの子ではないと、言わなければならなかったんだ」

 うなだれたまま、声を絞り出した。

 「すまない。あの時はどうしようもなかったんだ。萌子たちの暮らしを守り、久志を傷つけないために、俺が出来ることはそれしか思いつかなかったんだ」

 誰も人を傷つけようなど思わないのに、なんでみんなこうやって傷ついてしまうのだろう。

 「母さんは」

 一番傷つけられたはずなのに、久志はまるで傷つくことを予期していたみたいに、落ち着いた声でそう尋ねた。

 「知っていたんですか? そのことを」

 芳久は顔を上げた。そして、かつては息子と呼んだ彼の気丈な様を、少し驚いたように見つめていた。

 「強くなったな」

 「え?」

 「……俺は立花の家に帰って、尾道にいた経緯を話した。もちろん、摩耶や萌子たちのことは省いて。一雄も口裏を合わせてくれて、何とかみんな納得したんだ」

 「……」

 「でも、詩織だけは見抜いていた」

 芳久は微かに口元を緩めて、

 「その晩、彼女に訊かれたんだ。『どうして帰って来たの?』って」

 「……」

 「俺は尾道に別の暮らしがあったことを話した。詩織も、名前こそ明かさなかったけれど、お前が他の男との子だと認めた」

 長いあいだ心の奥底に溜め込んでいたものを吐き出すように、芳久は大きく息を吐いた。

 「いろんな歪みを支えるために、俺と詩織は共犯者になったんだ。お前が中学を卒業するまであいだ、期間限定の。その夜から、お前のことと萌子たちのことは二人だけの秘密になった」

 肩の力が抜けたように、父の背が少し丸くなった。その時萌子の目に映った芳久の姿は、ただの一人の初老の男性でしかなかった。

 「人が思いつくことなんて、ホントちっぽけなものだよな。あの時は、それが最善の道だと二人とも信じていた」

 そう言って父は、微かに笑った。

 「萌子と久志が出逢うなんて、神様でなきゃ判らんもんなぁ」



 柳井駅を出るとすぐに、あたりは黄昏に染まった。

 17時34分発岡山行きシティライナーは、僅かな乗客と夕暮れの気怠さを乗せて走り始めた。席に着いてからしばらくのあいだ、萌子は車窓に広がるセピア色の光景を見つめていた。

 古いアルバムのように色褪せるその景色の中に溶け込むように、ついさっきの出来事も過去へと流れていく。

 (あたしは、この街に何しに来たんだろう)

 父と巡り逢えたこと。

 久志が兄でないと判ったこと。

 彼女にとってこの上ない結果のはずなのに、萌子はとてもそうとは思えない重苦しさに胸を締めつけられていた。

 知らなければ良かった。

 この数カ月のあいだ彼女の胸に何度も訪ねた思いが、今までで一番大きな感情となって、萌子の心に押し寄せていた。

 確かに、長いあいだの胸の支えが取れてすっきりしたのも事実だ。父はあたしたちを捨てた訳ではなかった。瀬戸際で投げ出すような決断をした父を、萌子は責める気になれなかった。出逢いも別れも、あえて言うならば運命だったのだ。

 (運命……)

 だとしたら、出逢いも別れも、全てが定めなのだろうか。

 車窓から視線を外し、萌子は久志を見やった。中吊り広告に目を奪われていた久志の視線が、ゆっくりと戻って来る。

 「?」

 小首を傾げた久志に向かって、萌子は黙って首を横に振った。

 彼を傷つけてしまった。そんな自責の念が、萌子の心を深く捉えていた。

 彼が尾道に来なければ、あたしと出逢わなければ、真実に触れることはなかったはずなのだ。

 (わたしが、父と逢いたいなどと思わなければ)

 この世で一番愛しい人を傷つけてまで得る真実に、どれほどの価値があるというのだろうか。

 「僕がね」

 「……え?」

 唐突に話し掛けられて、萌子はペットボトルを取りかけた指先を震わせた。

 「父さんの書きかけた書類を見つけたのは、大学2年生の時でね」

 「……うん」

 「すぐにおかしいって気づいたけれど、確信は持てなかったんだ。確かめたくても父さんはいないし、その頃から体が弱って入退院を繰り返していた母さんには、どうしても訊けなかった」

 その内。そう言いさして、久志は視線を宙に浮かせる。

 「……母さんが死んで、確かめる術はなくなった」

 優しい目をしてる、と思った。久志は、今まで萌子が見たどんな瞳よりも優しく目を和ませて、

 「この街に来るまで、自分が本当に真実を知りたかったのかどうか、よく判らなかったんだ。このままうやむやになってしまっても構わない。そんな投げやりな気持ちも、なかった訳じゃない」

 その瞳は、本当に満足しているように見えた。

 「君が父さんの子だと知って、どうしても真実を確かめなきゃならなくなった」

 その台詞は、萌子の自責の念に拍車をかけた。

 (わたしのため、なんだ)

 久志の、どこまでも深い優しさが、萌子の心を深く切り裂いた。

 「尾道を離れる前に、きちんとしておきたかったから」

 萌子は弾かれたように顔を上げた。鳶色の瞳が、彼女をじっと見つめている。

 ずっと大好きだった、柔和なまなざし。

 「4月になったら、東京に行くよ」

 その優しい瞳を前にして、萌子はただ頷くことしか出来なかった。

 久志が別れの準備を始めていることを、萌子ははっきりと悟っていた。今日柳井を訪ねたのも、そのためなのだろう、と。

 芳久が実の父でなかった。それが久志にどれほどの痛みを与えたのか、萌子には想像がつかなかった。父と思っていた人からの裏切り。本当の父を知らない辛さ。そして、久志は母も失っている。

 天涯孤独。

 母がいて、もう逢うことはないかもしれないけれども父がいる萌子には、到底計り知れない哀しみだった。

 それなのに、久志は萌子のためにあえてその痛みに身を晒してくれたのだ。

 萌子の心の苦しみを解き、全てを明らかにして彼は出て行こうとしている。最後まで真摯で誠実なその心遣いが、萌子の胸を切なくさせた。

 「だから、その前にはっきりさせるのが君のためにもなる。そう思って父さんの行方を捜したけれど……」

 「……」

 「僕も、すっきりした」

 「え?」

 「こんなもやもやした気持ちのまま絵に取り組んでも、また同じことの繰り返しになる。せっかく……」

 そう言いさして久志は、茶目っ気のある顔になって、

 「君と遇って治りかけた病気が、またぶり返しちゃうよ」

 「……あたし、抗生物質か何かですか?」

 久志の軽口に気づいて萌子がそうチラリと睨むと、彼は笑いながら、

 「いや、どっちかっていうと癒し系の愛玩動物?」

 「……もうっ」

 どうせあたしは小動物系ですよ、と萌子がむくれて見せると、久志はなおも微笑みを浮かべたまま、

 「でも、本当に助かった」

 冗談混じりの口調の、片端にこぼれた本音に気づいて萌子はハッとする。

 「尾道に来て、本当に良かった。あとは……」

 久志のまなざしが、不意に真剣身を帯びた。

 「え?」

 「いや、何でもない」

 急に照れたように、久志は視線を外して車窓を見やった。

 つられたように、萌子も窓の外に目をやった。いつの間にか、車外には漆黒の闇が広がっている。通り過ぎる人里の明かりが、旅愁を募らせた。

 これが、久志との最後の旅だ。萌子は何の脈絡もなくそう思った。

 この列車が尾道に着けば、別れのカウントダウンが刻まれ始める。そんな予感が、旅の終わりの哀愁と相まって、萌子の胸を切なく締めつけた。

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