第十章 真実(6)
「何から、話したらいいんだろうな」
泣いたような、笑ったような。不思議な顔つきを芳久はしていた。線の細い、脆弱なその表情に、萌子は彼の中に自分と同じ気質を感じた。
小さくて脆い、ウサギみたいな性格。
「俺は君のお母さんと出逢った時、記憶を失くしてたんだ」
「……うん」
「知ってるのか?」
「千絵ちゃんから訊いた」
「そうか」
千絵のやんちゃな人柄でも思い浮かべたのだろうか。芳久はふっと失笑を漏らして、
「じゃあ、俺がどうして尾道に来たのかは判っているんだね?」
「うん。だいたいは」
「そっか」
そう言って芳久はしばらくのあいだ、腕組みをしながら思案した。それから、微かに憂いの表情を浮かべて、
「……ここへ来たということは、当然摩耶のことも」
「知ってます」
萌子に代わって、今度は久志が硬い表情でそう答える。
「ここは、和雄おじさんに協力してもらって捜し当てたんです」
「そうか。和雄に訊いたのか」
その一言で、どこまで知られているかを悟ったのだろう。芳久は急に表情を緩めて、
「……ここは、元々彼女の親戚が住んでいた家なんだ」
「……」
「俺が立花の家を出て―お前が中学を卒業した時だ―結局彼女のところに身を寄せることになった時、ちょうどここの持ち主が家を離れることになってね。大阪にいたんじゃいつ見つかるか判らないから、ここに移り住むことになったんだ」
芳久は、全く気配を感じさせない家の奥を気にするような素振りを見せて、
「あれには、悪いことをした」
この二人のあいだに、どんな時間が流れたのだろう。萌子はふと、そんなことを思った。好きとか嫌いとか、そんな単純な感情では表しきれない何かが、そこにはあるような気がした。
「いや、悪いことをしたのは、彼女だけじゃないよな」
芳久は、口にした端から自分の台詞を否定するように薄笑いを浮かべて、
「二人にも、二人のお母さんにも、悪いことをした」
寂しげな声だった。その声を聞いた瞬間、萌子は唐突に父との確かな血の繋がりを感じた。
この人は、望んでこんな場所にたどり着いた訳ではないのだ。弱い心が、臆病な性格が、彼をいつの間にか抜き差しならない所へと追い詰めてしまった。
あの日踏切の向こうに見た、どこか寂しげで真っ直ぐな瞳。あの時と同じ目をしている、と萌子は思った。その刹那、彼女の心に宿ったものは赦罪の気持ちだった。
「父さんは」
久志が顔を上げて芳久に問い掛けた。
「母さんのことを、どう思っていたんですか?」
彼の中にははまだ父を許す気持ちはないのだろうか。久志の冷淡なその口調を非難と捉えたのか、芳久は微かに苦笑いを浮かべる。
「……父さんが立花の家の婿になったのは、お前のおじいさんに俺が気に入られたからなんだ」
そうして芳久は久志が知らなかった、萌子が知るはずのなかった事実を、ゆっくりと話し始めた。
「お前のおじいさんは、俺が通っていたアトリエに出入りしていてね。将来芽の出そうな生徒の絵を買うのが趣味だったんだ」
俺は。そう言いさして、芳久は自分が呼んだ自分自身を嘲るような笑みを浮かべた。
「……あの人が気に入ったのは、俺の腕でなく人柄だった。だから、絵を買うのではなく就職先を与えてくれたんだ」
そう言ってから彼は、2度ほど首を横に振って、
「俺は、感謝しているんだ。あのまま絵を志しても、結局路頭に迷うことになっていただろうからね。あの頃の俺は、いろんなことに迷って何も見えなくなっていたから」
そう述べる感謝の気持ちとは裏腹に、芳久の眉間には苦渋が滲んでいた。
「……あの人のつてで社会人になって、俺はあのアトリエを離れた」
そう言葉を切り、芳久はしっかりと久志の瞳を見つめた。
「摩耶とは、その時1度別れたんだ。お前の母さんを紹介された時には、何もやましい気持ちはなかった」
「じゃあ」
頑なな表情のまま、久志はさらに父を追及する。
「なぜ、大阪に行ったんですか?」
父の目は、哀しそうだった。哀しみと憐憫を瞳に滲ませて、芳久は久志を見やった。
「……俺は、詩織を尊敬していた。お義父さんを介しての出逢いだったけれど、そんなことは関係なく、俺は逢った瞬間から彼女の強さに惹かれていた。上手くやっていきたいと、本当に思ってたんだ」
「じゃあ、なぜ……」
「……俺が」
自嘲に頬を歪ませて、芳久はそっと俯いた。
「詩織の思うような男じゃなかったから」
そんな父の哀しみも、萌子は理解出来てしまうような気がした。
思うようにならない運命。自分の弱さゆえに、逆らうことの出来ない運命。ここまで、流されるつもりもなく彼は流されて来てしまったのだ。そのあいだに久志や萌子を、二人に繋がるさまざまな人々を傷つけてしまったことも、彼は判っているのだ。
「お前の母さんはとてもリアリストだった。現実的で、その現実を受け容れられる強い女性だった。それは、とても憧れだったけれど、少し重荷だったんだ」
「……」
「俺は、失格の烙印を押されたはずの夢に、救われた」
「?」
抑揚のない父の台詞に、二人は顔を見合わせる。
「ずっと、そう思ってたんだ。それが自分で許せなかった。お義父さんは、俺と一緒に絵を描くことをいつも楽しみにしていた。俺が絵を描く人間じゃなければ、きっと立花の家に迎え入れたりしなかったと思う。絵を描くことは、1度破れた夢だった。それに自分の人生が救われているようで、俺はずっと堪らなかったんだ」
芳久の台詞は、まだ夢に破れたことのない二人の絵描きにとって、理解出来るようで理解出来ない言葉だった。
「詩織との仲は、最初からぎこちなかった。こんな後ろ向きな男は、やっぱり合わなかったんだ。夫婦、なんて呼べる仲だったのは、せいぜい最初の1ヶ月くらいだった」
萌子の心の琴線に、小さな違和感が引っかかる。その違和感の根源を確かめる間もあたえずに、芳久は言葉を繋いだ。
「そうしている内に、風の頼りに聴いたんだ。摩耶が、離婚して大阪に戻っているって」
芳久はふっと自虐的な笑みを浮かべて、
「1度きりのつもりだった、なんて言っても信じてもらえないよな」
「……」
「結婚してから2年、大阪に通うようになってから1年。ちょうど今頃だった。俺が事故に遭ったのは」
「その時……」
「そう」
漏らすように呟いた萌子に芳久は目をやって、
「君のママと出逢ったんだ」
そして彼は一瞬遠い目をしてから、
「記憶が戻ってしまうと、記憶がなかった頃の気持ちを上手く思い出せなくなってしまってね」
と寂しげに笑った。
「でも……」
「……でも?」
「でも、あの頃感じた想いは、今でもはっきりと覚えている」
芳久は深く目を閉じて、
「あの街で、俺はやっと安らかな気持ちになれた。何のしがらみもなく、自分の気持ちに素直になれた」
それから彼は、裏山でカブトムシを見つけた子供みたいに、嬉しさを伝えるように萌子の目を覗き込んで、
「君や、君のママと過ごした時間は、本当に楽しかったんだ」
「じゃあ……」
静かな口調で、萌子は父を問い詰めた。
「なんで出て行っちゃったの?」
「……夢から、覚めたから」
「え?」
「1度夢から覚めたら、もう2度とその続きを見ることは出来ない」
芳久はそう小さく笑って、
「萌子は、ママと俺と三人で大阪に行ったこと、覚えてるかい?」
「あたしが?」
萌子は慌てて頭を振った。そんな記憶、もちろんない。このあいだ久志と訪ねたのが生まれて初めての大阪だと、信じて疑いもしなかった。
「まだ、小さかったからな。萌子は」
そう目を細めて、父は成長した娘を見やった。
「君が三つになった頃、家族で大阪に遊びに行ったんだ」
「……」
「観光目的が半分。そして、もしかしたら俺の記憶が蘇るかもしれない。そんな目的も、半分はあった」
芳久がふっとため息を吐く。その吐息の合間に、微かな後悔が見え隠れした。
「……俺は事故現場に立っても何も思い出すことはなかったけど、その近くで摩耶を見かけたんだ」
「……」
「その場で、すぐに何もかも思い出した訳じゃない。でも、摩耶を見た瞬間の『どこかで見たことがある』という気持ちは、尾道に帰っても拭い去ることが出来なかった」
思い出さなければ。そう言いさして、芳久は次の台詞をためらう。
「……しばらく経って、俺は摩耶のことを思い出した。そして、東京でのことも」
芳久は、娘の瞳を見つめた。壊れてしまった宝物を見つめるように、とても哀しげに、とても愛おしそうに。
「東京に戻ろうとは、思わなかった。その時はむしろ、立花の家に知られるのが恐かった」
芳久はそう言って久志の方を見やった。
「こんなことを言って、気を悪くするかもしれないが」
「いいえ」
久志は表情一つ変えずに、首を横に振った。
(先生は、私とは違うんだ)
萌子はそう思った。父の複雑で深い想いを見せられて、混乱している自分とは違う。彼はそれを一つ一つ受け止めて、とても冷静だった。
萌子が近しさを覚えた、彼女と似た少し気弱な横顔は、そこにはなかった。
「あなたが戻って来てから、ずっと尾道に帰りたがっていたのは、判っていましたから」
「そうか」
芳久は俯いたまま小さく笑って、
「やっぱり、少し他人行儀だったかな。一所懸命馴染もうとは思ったんだが」
「それなのに、どうして……」
「ん?」
「どうして、うちに戻って来たのですか? 僕のため、なんですか?」
久志は力強く芳久を見返した。そのまなざしの強さに折れたように、芳久は横を向いて、
「知っているんだな」
「……ええ」
久志は確信を持った表情で頷くと、
「血液型が……」
「え?」
「あなたがいなくなった後で、あなたが書きかけた書類を見つけたんです」
「……」
「会社の健保に出す書類で。そこに、血液型を書く欄があったんです……」
血液型、と聴いた瞬間、芳久の肩が見た目には判らないくらい小さく震えた。
「母さんの血液型はA型。僕はB型」
久志がほんの少し笑った。ように見えた。
「芳久さん。あなたの血液型はA型、と書いてありました」
しばらくためらった芳久が、やがて短く頷く。
一人会話から取り残された萌子は、交わされるその言葉の意味も判らずに黙り込んでいた。ただ何故かは判らないけれど、言い知れぬ不安が彼女の胸を捕らえて離さなかった。
4歳の夕暮れに感じたのと同じ、競り上がって来るような焦燥感。
「萌子」
急に父に呼び掛けられて、萌子は思わず心を震わせた。
「はい?」
「君は俺の、たった一人の子供だ」
「……え?」
告げる芳久の瞳は、何故かとてもすまなそうだった。
「君と久志には、何の繋がりもないんだ」