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第十章 真実(5)

 なぜ、泣いたりしたんだろう。

 部屋の周囲に雑多に積み上げられた荷物をぼんやりと見つめながら、萌子はそんなことを思っていた。

 葛生家に案内された二人は、六畳ほどの和室に通された。しばらく玄関で待たされてから通されたその部屋は、『客間』と呼ぶには少し雑然としていた。

 散らかった荷物を端に寄せ、どこからかテーブルを運んで来たのが一目見て判った。普段はきっと物置代わりになっている部屋なのだろう。二人の来訪がいかに急なものか、普段この家を訪れる客がいかに少ないかを、それらは如実に物語っていた。

 建てられてからそれなりの年月を過ごしているらしい家の佇まいと、そこに息づく生活の匂いを感じ取って、萌子は先刻の自分の言動が酷い醜態だったように思えて来た。

 父を見つけたからといって、4歳の時に戻れる訳ではないのだ。13年の時を越えて、親子三人の暮らしが再開する訳でもない。

 ここには確かに、父のもう一つの暮らしがある。萌子にも久志にも、立ち入れない暮らしが。

 刹那の喜びが過ぎ去った後で、萌子の胸に去来したものはもっと深い虚しさだった。

 沈黙を持て余して、萌子は何の気なしに久志の横顔を見やった。

 彼は、酷く緊張した面持ちをしていた。喩えて言うなら、家族の緊急手術を廊下で待たされているような顔。落ち着かない雰囲気で、時折忙しなく視線を動かしている。まるで借りて来た猫のようだった。

 そういえば大阪に摩耶のことを訪ねた時も、彼はこんな風に強張った顔つきをしていた。

 何にそんなに怯えているのだろう、と萌子は少し可笑しくなった。彼女の方がよっぽど落ち着いている。

 二人を5分ほど待たせた後、芳久は一人で和室に現われた。

 「すまんな、何の構いも出来なくて」

 そう言いながら彼は、運んで来た丸い盆から烏龍茶の入ったコップと煎餅の乗った皿を机に置いた。

 「いえ」

 久志は俯くように小さくそう答えると、

 「突然尋ねて来たのは、こちらの方ですから」

 相変わらずの他人行儀な言い草に、萌子は久志の頑なさを垣間見たような気がした。

 「ホント、ビックリしたよ」

 並んで座る萌子たちと対面するように、芳久は庭を背にして腰を下ろした。

 「さて」

 何から訊いたら良いのか、一瞬そう思案するふりをしてから芳久は、

 「二人はどこで知り合ったんだい?」

 父にしてみれば、それはとてつもなく不思議なことだったのだろう。何かの拍子に久志が―あるいは、限りなく可能性は低いかもしれないけれど、萌子が―自分を訪ねて来ることは、予想していたかもしれない。けど、まさか二人が連れ立って訪ねて来るなんて、それこそ青天の霹靂だったに違いない。

 「尾道で、です」

 久志の短い答えに、芳久は穏やかな顔で小さく首を傾げてみせる。

 「彼女は、僕の教え子なんです」

 「ほう」

 芳久は、少し意外そうに眉間にしわを寄せた。絵を志していたはずの息子が、いつの間にか教壇に立っているなんて。そんな、ちょっと不快な感じの顔つきだった。

 父のそんな懸念を、久志は素早く察したらしい。相手を納得させるような笑顔で、

 「臨時講師で、尾道に来ているんです。松崎先生の勧めで、少し気分転換をして来い、と」

 そしてそのままその笑顔を崩さずに、彼はこう続けた。

 「春には、東京に帰るつもりです」

 胸が、堪らなく痛かった。

 こんなところで聴きたくなかった。訪れる結果がたとえ同じでも、せめてその言葉は自分に向けて発して欲しかった。

 『まだ、君を残しては行けないんだ』

 父と逢えたことで、久志を引き止める足枷は全て取り払われてしまったのだろうか。萌子はそう考えた。そしてその刹那、

 (やっぱり、ついて来なければよかった)

 更に深く、彼女の心は沈んだ。

 「もし、今日ここで父さんに話を訊けたら、松崎先生に連絡を取るつもりです」

 曖昧で、焦点をぼかした久志の言い草に、芳久は一瞬怪訝そうな顔をした。

 小さな沈黙が生まれた。コップを手にした久志につられるように、萌子も目の前の茶色い液体で喉を潤した。

 口の中が渇き切っている。緊張のせい、だろうか。

 「どうして……」

 「え?」

 「どうして判ったんだい? その……」

 芳久は少し言い辛そうに躊躇した後、

 「二人に、そういう繋がりがあるってことを……」

 「父さんの、絵です」

 「俺の、絵?」

 理解出来ない。そんな表情で芳久は戸惑い顔を浮かべた。

 「父さんが、向島のクレーンを描いた絵があったでしょう?」

 記憶の彼方を手繰り寄せるように、芳久は視線を宙に浮かせるようにして、

 「……ああ、あの絵か」

 「あの絵を、尾道に持って行ったんです」

 「それをね、千絵ちゃんに見せたの」

 そう口を挟んだ萌子の顔を、芳久はじっと見つめたまま、

 「……ママの、妹の千絵ちゃん、かい?」

 「そう」

 「……そっか」

 みなまで聞かなくても、芳久はその意味を理解したらしい。力なく頷いた後で、

 「千絵ちゃん、あの絵を描いているところによく遊びに来ていたからな」

 「それと、サインが一致しました」

 久志のその台詞に芳久は小さく目を丸くした。

 「あの絵のサインと、千絵さんが持っていた絵のサインが」

 「……」

 「彼女の肖像画、です。尾道にいた時、描きませんでしたか?」

 「……ああ」

 芳久は懐かしむような顔つきで呟いた。

 「あの絵、まだ持っていてくれたんだ」

 この人は、私のお父さんなんだ。

 不意に、萌子の胸にそんな滾るような感情が押寄せて来た。

 その姿を見て記憶が蘇らなくても、彼の発する言葉の端々には彼が自分のそばにいた匂いがしていた。

 (確かにこの人は、一緒に暮らしていたんだ)

 千絵や玲子が、そして萌子がいた空間で。

 「……どうして」

 「え?」

 唐突に、呟くように萌子は声をもらした。それから、戸惑う『父』の目をしっかりと見つめて、

 「どうしてあたしを、置いていったの?」

 「……」

 「あの日、踏切で」

 ずっと、尋ねたかったこと。

 13年間告げることの出来なかった台詞を、萌子は父にぶつけた。穏やかなこの空間の均衡を壊しかねない台詞。父や兄を、不快にさせかねない言葉。それでも、萌子はそれを口にせずにはいられなかった。

 悲痛な声で告げる萌子の顔を、芳久はじっと見つめていた。あの踏切の向こうに見た瞳と同じような、まっすぐなそのまなざしで。

 「……本当に、すまなかった」

 「ううん」

 申し訳なさそうに頭を下げる芳久に向かって、萌子は許しを与えるように微笑みさえ浮かべて首を横に振る。

 「もう、いいの」

 判っていたことだった。いまさら父と逢えても、何も変わることなどないと。

 「あたしも、多分ママも、今は幸せなの。だから、恨んだりなんかしてない。でも、どうしても知りたいの。お父さんがいなくなった訳を」

 「……」

 「それが判らないとあたし、前に進めないの」

 小さく、悲しげに呟いた萌子のその台詞に、芳久は何かに衝かれたように顔を上げた。

 「……仕方がなかったんだ、あの時は」

 「え?」

 絞り出すような声だった。苦しそうな芳久の口調に、萌子は自分の愚直な気持ちがまた何かを傷つけてしまったのかと思った。

 「仕方がなかったんだ、あの時は。それ以外に、君たちを守る方法が判らなかった」


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