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第十章 真実(4)

 柳井駅は、何の変哲もないよくある地方都市の駅だった。角張った味気ない駅舎も、タクシーが数台眠そうに佇むロータリーも、日本のどこかに似たような光景がありそうな気がする。駅名を隠されてこの景色を写真で見せられたら、きっとどこの駅前か答えることは出来ないだろう。

 「ちっちゃい駅だな」

 駅舎を出て振り返った久志がそう呟くのを聴いて、萌子は思わず笑ってしまった。

 「それでも、尾道駅よりは大きいよ」

 「う〜ん、確かに」

 久志は腕組みしながら唸るように頷いて、

 「尾道駅は、とても観光地の表玄関には見えないからな」

 柳井は白壁の通りが有名なのだと、萌子は列車の中で久志にそう教えられた。言われてみれば、そこここにそれらしき案内が確かにある。それと、名物なのかやたらと目立つ金魚の作り物。

 けれども、駅前の雰囲気は観光地とは思えぬほど静かだった。件の白壁通りも駅から少し離れているらしく、そこから見える景色は日本中にある中小都市の風景と、何ら変わりがない。

 駅前にある住宅地図を少しだけ眺めた久志は、迷うことなくタクシー乗り場へ向かった。

 「この辺りに行きたいんですけど」

 久志がそうはがきのコピーにある住所を見せると、運転手は少し顔をしかめて、

 「……小学校の辺りかな」

 「いや、ちょっと初めて来た街なんで、良く判らないんですけど……」

 「川向こうは古い街だから、ごちゃごちゃしていて現地まで辿り着けんかもしれんよ」

 運転手はそう言うと、その番地に程近い小学校の名を挙げた。

 「その辺りで降りて、探した方が早いかもしれん」

 「じゃ、そこまででいいです」

 久志はそう了承すると、萌子に向かって、

 「また無くなってなきゃ、良いけどね」

 と下手なウインクをしてみせる。

 無くなってしまっていても良い。久志の台詞にぎこちない笑顔を浮かべながら、萌子の胸の中を一瞬そんな罪深き思いが横切った。

 タクシーに乗った瞬間、萌子は狭い箱の中に押し込まれた子犬のような気分になった。このまま父の前に差し出されそうな気がして、反対側のドアから逃げ出したくなった。

 久志と出逢う前なら。久志を半分兄と知る前なら。タクシー乗っている時間さえ、長く感じられたのだろうか。

 「お客さんたちは、白壁通りには行かんのかい?」

 少し方言交じりに、運転手はそんな問いを投げ掛けて来る。

 「ええ。知り合いを訪ねて来たんで」

 「そうかい。帰りに時間さあったら、見て行かれるとえぇ。案外ええとこだから」

 見知らぬ他人に、私たちはどう映っているのだろう。そんなことを思いながら、運転手の気さくな台詞に萌子は愛想笑いで答えた。

 決して歴史的価値はなさそうな、でも古びた街並みをタクシーは進む。陽射しがあふれる眩いフロントガラス越しの風景を、萌子はその行く先を見極めようとするかのようにじっと凝視していた。

 タクシーに乗車していたのは10分ほどだっただろうか。住宅街に埋もれるようにして建つ小学校脇の歩道に運転手は車を横づけた。

 「その向こうが、その番地の辺りだから」

 観光地のせいか、その運転手は最後まで親切だった。彼が指し示すほうを一瞬見やってから、二人は神妙な顔で小さくお辞儀をした。

 日曜の午後にしては、やけに静かだった。フェンス越しの校庭にも、無論人影はない。今の二人にはひどく場違いな、優しく暖かい春光が辺りを包んでいた。

 「こっち、かな」

 電柱の住宅表示を見比べて、久志が頼りなげに歩き出した。

 決して豪勢ではないが、落ち着いた雰囲気の街並みである。『二人が大阪から逃げ込んだ』 萌子の中にそんな意識があったせいかもしれないが、その光景は彼女の目に意外なほど美しい佇まいに映った。

 (こんなところに……)

 父はいるのだ。13年間、萌子が捜し求めていたはずの父が。

 「結構番地が飛んでるな……」

 久志はそう呟くように言うと、近くを歩いていた初老の夫婦連れに近寄った。道を尋ねるつもりらしい。

 その刹那、萌子の脳裏にあの夕暮れの情景が唐突に蘇った。

 踏切の向こうへと渡る大きな背中が。

 「あの、この辺に葛生さんっていう家はありませんか?」

 久志の声に振り返った男性は、何故かびっくりしたような目をしていた。声を掛けて来た久志の顔を見、その背後にいる萌子の顔を見やる。そしてまた久志の顔に見入った。連れの女性も、怪訝そうな顔で萌子たちを交互に見やった。

 久志の顔をしばらく凝視していた男性の表情が、やがて全ての感情を消し去るように無表情に凍りついた。

 「……父さん」

 萌子に背を向けたまま、久志がそうぽつりと寂しげに呟いた。



 長いあいだ、何度心の中にその瞬間を描いただろう。

 喜び、哀しみ、怒り、戸惑い……。その刹那、どんな想いが胸に迫るのだろうかと、この13年間彼女は何度も夢想した。

 父と再会した瞬間、萌子の胸にはその描いて来たどの感情も湧いて来なかった。

 ただ呆気なく、

 (これが、父さんなんだ)

 そう思っただけだった。



 しばらくのあいだ目を見開いたまま、父は何の感情も表に出そうとはしなかった。兄の背中も頑なに凍りつく。萌子の視界の中で、一瞬時が止まった。

 やがてゆっくりと芳久の表情が崩れた。その刹那、不思議なことに彼は面映そうな顔つきになった。

 「驚いたよ、久志」

 「お久しぶりです」

 生き別れた父子の再会、と言うよりそれは、長いこと無沙汰だった師弟の再会のようだった。敬意を示すように、久志は父に向かって大げさなほど深くお辞儀をしてみせる。

 「……母さんは?」

 「去年の始めに……」

 「そうか……」

 二人にしか判らない会話を交わして、二人は同時に沈黙した。

 「そうか、それでここに……」

 芳久の呟きに、久志は小さく頷く。

 二人の背景を知らなければ、何のことだか全く判らない。いや、背景を知っていても、芳久が何故そんな風に納得したのか、萌子には全く理解不能だった。

 「お伺いしたいことが、あります」

 穏やかさの中に決意を滲ませて、久志はそう告げた。その語気の硬さに、萌子と父に寄り添う女性―摩耶は、一瞬表情を強張らせた。

 けれども、芳久はその台詞を予想していたらしく、静かな笑みを浮かべて、

 「ここじゃなんだから」

 そう言って自宅へ誘うような態度を示した。

 久志はそう告げる父に向かって小さく頷くと、機嫌を伺うように萌子の方を見やる。それにつられるように、芳久の視線が久志の背後を窺うように動いた。

 「……そちらの娘さんは?」

 それまで落ち着いていた芳久の口調が、不意に華やいだ。戯けたような、少し照れ臭そうな言い草。それはまるで、息子がガールフレンドでも連れて来たみたいな口調だった。いや、実際彼はそんな気分だったのかもしれない。

 父にそう問われて、久志はしばらくのあいだ逡巡してみせた。

 どう告げたら、一番衝撃的なのか。彼の顔に一瞬よぎった愉快そうな笑みを、萌子は見逃さなかった。

 (……先生は、お父さんを恨んでるの?)

 「澤崎 萌子さんです」

 「さわざき?……」

 久志の言い含めるようなゆっくりとした口調をなぞるように、芳久はそう呟く。その台詞の余韻の中で、彼の表情はゆっくりと、しかし確実に激変した。

 驚愕。疑念。そして、ほんの少しのおののき。

 「もえこ、なのか?」

 宵闇に亡霊を見たように、父はか細げな声でそう呟いた。



 芳久は今度こそはっきりと、自分の感情を露わにしてみせた。ありえないものを見た人間が、きっと浮かべるであろう表情。

 ありえないもの。そうなのかもしれない、と萌子はぼんやりと思った。

 久志と出逢わなければ、ここまで辿り着くことはなかっただろう。玲子だって、自分の夫が同じ瀬戸内に住んでいるなんて、きっと想像することさえ出来ないに違いない。

 あの踏切で、わたしとお母さんを捨てた人。

 久志の前に一歩出るような形で、萌子は父と対峙した。

 やっぱり、その顔を思い出すことが出来なかった。哀切や憤り、そういった感情が浮んで来てもいいはずなのに、萌子はまるで見知らぬ人と出会ったように、ただ緊張して立ち尽くした。

 (あたしと先生を、散々振り回した人)

 どうして、何にも感じないんだろう。萌子は、自分が酷く冷たい人間に思えて焦りを覚えた。

 「ママは……」

 芳久が、呟くようにそう訊ねる。

 「え?」

 「ママは、元気か?」

 不思議な響きだった。自分の母を『ママ』と呼ぶのは、自分と祖母と叔母だけだ。それは萌子にとって、大切な肉親の証でもあった。

 「……はい、元気です」

 「そっか」

 「……元気で、絵を描いています」

 「そうだってね」

 「え?」

 萌子は不思議そうに芳久を見上げた。幼子の疑問に答えるように、芳久は少し前かがみになって萌子に近づいた。

 「尾道で、タウン誌の挿絵を描いているんだろ? 毎月、尾道の発行元から取り寄せているんだ、その雑誌を」

 どうやって驚いたらいいのか判らなくて、萌子は押し黙ったまま父を見つめた。そんな娘を、芳久は少し辛そうに見やって、

 「すまなかった……」

 不意に、視界の中の父がぼやけた。何の感情も思い起こすことが出来ないまま、萌子はいつの間にか涙で頬を濡らしていた。

 「……どうして……」

 嗚咽で言葉が途切れた。涙が丸い粒となって萌子の頬を次々と滑り落ちていく。あふれ出す感情が、彼女の体の芯を熱くした。込み上げて来る13年分の想い。それが透明な雫となって流れ出す。

 哀しかった。13年間、母子二人の暮らし。苦労はそう多くはなかったけれど、父がいないという事実は、萌子の胸に常に影を落とし続けていた。

 悔しかった。あの踏切で、萌子は母と一緒に捨てられたのだ。本当は違うのかもしれない。けど、どうしても萌子はそんな印象をずっと拭い去ることが出来ずにいた。

 そして、寂しかった。

 『君もずっと、寂しかったんだよ。きっと』

 そう、ずっと私は寂しかったのだ。その寂しさを、透明なガラスに封印するようにずっと心の中に、閉じ込めていた。

 その寂しさを、誰かに悟られないように。

 (あたしは……)

 パパに逢いたかったんだ。萌子はそう思った。その刹那、あの踏切で途切れた彼女の気持ちは一つに繋がった。

 逢えて嬉しい。こんな、とても哀しい再会でも。

 嗚咽を繰り返し俯いてしまった少女を、三人の大人たちはしばらく黙ったまま困惑したように囲んでいた。やがて父と目を合わせた久志が、萌子を慰めるようにそっと肩を抱いた。

 「さ、中に入れてもらおう」


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