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第十章 真実(3)

 欠伸を見られているのに気づいて、萌子は慌てて口に手をやる。それから彼女は、睨むように久志を見つめた。

 「眠そうだね」

 変わらない穏やかな顔つきで、久志がそう笑う。

 「そりゃ、早起きしましたから」

 萌子の台詞に久志は、今度は可笑しそうに笑い声を上げた。

 「早起きって、駅に着いたのは9時半を過ぎてたじゃないか」

 「……休みの日は、午前中に起きることが早起きなんです」

 昨夜はなかなか寝つけなかった。まどろみの中で夜が明けたことを知った。そうして萌子は結局寝過ごして、9時前に慌てて飛び起きたのだ。

 何度も、踏切の向こうに去った父の顔を思い出そうとした。明日父に逢った時に、その顔を見分けられるように、と。けれどもそう思えばそう思うほど、記憶は彼方へと遠ざかり、父の姿はどんどん小さくなった。

 目覚めてから、ずっと心臓が高鳴っている。尾道から三原に出て新幹線に乗り、広島で在来線に乗り換えても、その胸の震えは治まらなかった。

 父と逢う。それは、13年間ずっと想像し続けていた瞬間だった。

 (それを、こんな気持ちで迎えるなんて)

 ずっと描き続けて来た至福の瞬間。それが今、絶望の瞬間へとすり替わろうとしている。

 『今度こそ、間違いなく見つけた』

 仄暗い校舎の片隅で、久志は確かにそう言った。たったそれだけだったけれど、萌子はその一言で今度こそ父に逢えることを確信していた。

 もう、逃げられない。自分と久志のあいだにある全てが、白日の下に晒されるのだ。もっと曖昧に、いつものようにごまかしてしまおうと思えば、出来ないこともなかったはずなのに。

 (後悔してばかり)

 自分の人生は、いつだってそうだ。萌子はそう思った。おろおろと戸惑ってばかりで、何かを思いついた時にはもうその場所から流されている。何をしても、その繰り返しだった。

 二人を乗せた徳山行きの快速『シティライナー』は、11時ジャストに広島駅を発った。今は五日市の駅を後にしたところである。

 ここからちょうど1時間かかる。昨夜『柳井』という街の名を地図で調べた時には、こんなに遠いとは思わなかった。尾道から見てその街は、安芸灘を挟んだ向こう岸にあるように思えたからかもしれない。

 父が、同じ瀬戸内海沿いに住んでいる。それを知った時に萌子は、

 (お父さんはまだ、尾道を忘れられないのかもしれない)

 そんなことを思ったりもした。

 けれども、こうして電車を乗り継いでみると、やはり遠く感じられる。その距離は、そのまま父と萌子たち親子との距離のようにも思えた。

 宮島口駅を過ぎる辺りから、列車の左手に大きな島影が見え隠れし始めた。

 「厳島だ」

 久志がそう小さく呟く。

 「……ここ、遠足の時に来た」

 「へぇ」

 萌子の台詞に、久志はさも羨ましそうに反応して、

 「尾道の子供は、遠足で厳島神社に行けるのか。いいなぁ」

 「東京の子供は、遠足でディズニーランドに行けるんでしょ?」

 「……んな訳ないだろ」

 久志は思わずそう吹き出してから、

 「結局、厳島神社も原爆ドームも見に行けなかったなぁ」

 ポロリとこぼれたその終止形の台詞に、萌子の胸は痛んだ。

 この柳井への旅で、彼は何かに決着をつけようとしている。そんな理由のない予感が、萌子の胸に訪れ、そっと心を苦しめた。

 岩国駅を過ぎると、やがて列車の左手に瀬戸内海が見え始めた。

 内海らしい穏やかさを携えたその景色は、けれども間違いなく『海の景色』だった。うららかな春の陽射しにさんざめく波の向こうに、四国の島影が見える。

 たおやかなさざ波が立つ尾道水道を見慣れた萌子にとって、それは久々に見る海岸線の風景だった。

 その風景を見た刹那、萌子は何の脈略もなく父の存在を遠く感じた。

 尾道から2時間半。東京や大阪より遥かに近いはずなのに、その距離はどこか彼女を拒絶しているような気がする。

 久志と自分のあいだに流れるもの。今日判るのはそれだけじゃない、と萌子は思った。あの4歳の時の踏切の光景。あの瞬間、萌子たち母子は捨てられたのだということもまた、白日の下に晒されるのだ。

 自分との再会を、きっと父さんは望んでいない。萌子はそう思った。

 (どうして……)

 どうして、ここまでついて来てしまったのだろう。

 「……せんせい」

 「ん?」

 目に鮮やかな瀬戸内の海を眺めながら、萌子は久志に質した。

 「どうして、お父さんが柳井に住んでいるって判ったの?」

 答えは返って来なかった。萌子が不審げに顔を戻すと、久志はその鳶色の瞳で、じっと萌子を見つめていた。

 「……」

 やがて久志は黙ったまま、ポケットから紙を取り出して萌子に差し出した。

 「?」

 B5サイズのコピー用紙の真ん中に、それは写っていた。ハガキ大サイズの―いや、それこそハガキそのものをカラーコピーしたものだ。どうやら年賀ハガキの裏面をコピーしたものらしく、自分たちで取り込んだ写真が上半分に、その下にありきたりな賀正の挨拶が印字されている。

 そしてその最後に、二人の名前があった。


 葛生 芳久

    摩耶


 「父さんだよ」

 「え?」

 そう顔を上げた萌子に、久志は写真の中の男性を指し示した。久志の指につられるように、萌子は再び紙に視線を落とす。

 40代後半と思われる1組のカップルが、陽だまりで微笑んでいた。どこかの観光地で撮影したものなのだろう。石碑の前にちょこんと座るその姿は、何故かとても小さく見える。

 知らない顔だった。自分の父だと示されたその男性の顔に、萌子はどうしてもその面影を見出すことが出来なかった。あんなに焦がれていたはずなのに、その顔すら思い出せない自分が無性に腹立たしかった。

 「葛生って、父さんがうちの婿養子になる前の旧姓なんだ」

 じっと写真を見つめる萌子に、久志は柔らかな声でそう告げる。

 「え?」

 「うっかりしていたよ」

 久志は薄笑いを浮かべて、

 「本当なら、うちのじいさんの戸籍に父さんの名前も残っていなければおかしいんだ。でも調べてみたら、父さんが失踪する直前に母さんと離婚したことになっていた」

 「……」

 「父さんがやったのかそれとも他の誰かがやったのか、判らないけどね。これなら父さんは失踪したのではなく、普通に母さんと別れて家を出て行ったことになる。どこで、誰と暮らそうと、何の問題もない」

 「この摩耶さんって……」

 「そう。僕たちがこないだ大阪で捜した、父さんが昔つき合っていた女性だよ」

 久志は穏やかに、本当に穏やかに言葉を紡いだ。

 「この年賀状は、摩耶さんとアトリエにいた頃につき合いのあった人にコピーさせてもらったんだ」

 「……?」

 「摩耶さんの行方なら、昔の知人をくまなく当たれば見つかるんじゃないかと思ったんだ。彼女は別に、大阪から身を隠した訳じゃないし」

 「なんで……」

 「ん?」

 「なんで、お父さんがこの女性と一緒にいると思ったの?」

 今度も返事はなかった。哀しいような、切ないような、憂うような。ほんの少し唇を歪ませて、久志は何か物言いたげな顔で黙ったまま萌子を見つめていた。

 「……父さんを、見つけようと思った訳じゃないんだ」

 「え?」

 やっと吐き出された久志の台詞に、萌子は戸惑った。

 「父さんのことをこの人に訊きたいと思って、この人を捜してたんだ。父さんが見つかったのは、ホントに偶然。もちろん、父さんに直接尋ねた方が良いことなんだけどね」 

 (先生は、何でお父さんに逢いたいんだろう)

 以前、大阪に父を訪ねようとした時にちらりと脳裏をかすめた疑問が、今度こそはっきりと萌子の胸の中に頭をもたげて来た。

 萌子だって、もちろん父に逢いたかった。こんな風にそれが哀しい事実となってしまった今でも、それでもやっぱり父に逢いたいという気持ちは残っている。久志は萌子と違って、物心ついた後にもう一度父と別れているのだ。逢いたいという気持ちが余計に強くても何の不思議もない。

 でも、それだけじゃないような気がした。

 久志はただ父の行方に執着している訳じゃない。はっきりと目的を持って、その背中を追いかけているような気がする。

 知りたいのは、父の居場所ではない。それが判るのなら、相手は別に父じゃなくても良いのだ。

 『親でないと判らないことだったんだけどね。母にはもう訊くことは出来ないし、父とはきっともう2度と会うことはないから』

 久志が確かめたかったこと。それは、父親の行方や足跡ではなかったのだろうか……。

 萌子は、自分が何かとてつもない勘違いをしているような気がして来た。

 (何を……)

 柳井という街に、彼が確かめたいというどんな事実があるのだろう。1駅1駅近づいて来るその目的の地に、萌子は言い知れぬ不安を覚えていた。


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