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第十章 真実(2)

 「あら、萌ちゃん学校は?」

 澤崎家の裏から千光寺山へ続く細い路地の途中で、萌子は近所のおばさんからそう声を掛けられた。

 「今日は卒業式があったから、午前中に終わったんです」

 「あら、もうそんな時期なんねぇ」

 その女性がそうほんのちょっぴり感慨深げな顔をした後で、

 「精が出るわね」

 と優しく微笑み掛けたのは、萌子が小さい体に不釣合いなイーゼルを抱えていたせいだろう。

 自分を幼い頃から知るその女性と、萌子は照れたように小さく会釈して別れた。

 福山女子高校の卒業式は、毎年3月の第1週の金曜日に行われる。今年は3月3日がその日だった。午前中の式典に出席すれば、その日の在校生に用はない。

 萌子は帰宅すると、昼食もそこそこにイーゼルを抱えて再び家を出た。

 風が冷たい。真冬に戻ったような1日だった。それでも、陽だまりには微かな春の匂いが感じられる。

 まるでわたしの気持ちみたいだ。萌子はそう思った。暖かい、と思った時は全て幻で、すぐに薄暗い冷凍庫の中のような冷たさに晒される。

 でも、季節ならいつか春を迎えるのだ。なのに、わたしには……。

 千光寺山中腹の展望台の周辺に、人影はほとんどなかった。こんなに寒い平日の昼間に散策したり絵を描いたりする人間は、よっぽど奇特かよっぽど暇なのだろう。

 イーゼルを据える場所はそこら中にあったけれど、萌子はあえて展望台のそばを離れて、公園の奥まったところにある庭園風の芝地に踏み込んだ。

 その先に、いつか二人で見た景色がある。

 あの日、金色に染まっていた光景は、澄んだ午後の光に包まれて透明に輝いていた。

萌子は足場を選んでイーゼルを据えると、その上に大きなキャンバスを置いた。

 そしてそのまま、しばらくのあいだ黙って景色を眺めていた。

 (あの日……)

 あの日、自分がこの世で一人ぼっちじゃないと知った。その瞬間、それまで感じていた久志への仄かな憧れは、確かな愛おしさへと変わった。

 あれから、何度坂道を転げただろう。何度崖から落ちただろう。ぼろぼろになって、砕け散って、こんなに削れて。

 それでも、この胸に小さな欠片が残っている。使い古した石鹸のような欠片が。

 気づかぬ内に、涙が頬を伝っていた。

 「なんか、おかしいの……」

 一人苦笑いを浮かべながら、萌子は涙を拭った。けれどもそれは後から後からあふれ出して来て、萌子はその内に泣き笑いみたいな表情になった。

 (わたし、今でも好きなんだ)

 やっと素直な気持ちになれた。萌子はそう思った。4ヶ月前、この景色を見ながら抱いた気持ち。あんなにいろんなことがあって、それでもまだ同じ気持ちがこの胸の中に、ある。

 下唇を噛み締めて、それでも堪えきれずに萌子は短い嗚咽を漏らした。

 何だか無性に悔しかった。自分に与えられた運命も、振り切れぬ未練も。今、彼女を取り巻く全てのことが堪らなく悔しかった。

 でも、もう終わらせなければいけない。

 『君なりの答えを探さなければ』

 一昨日小田にそう忠告された瞬間、萌子は皮肉にも自分の我がままを捨てる決意をした。

 『まだ、君を残しては行けないんだ』

 携帯越しに聴いた、久志の苦しそうな声が脳裏に蘇る。

 大好きだから。だから、もう苦しめたくない。

 それが、萌子の答えだった。

 好きな人の胸に残ることが叶わないのならば、せめてこの胸に残る好きな人の面影が優しいものであって欲しいと思った。今でも好きだから、きっといつまでも好きだから、この胸の痛みが消えるまでは、大好きな人の笑顔を覚えていたかった。

 涙を拭うと、萌子は視線を上げて遠い景色を見やった。

 (いくつも……)

 久志と、この街の美しい光景をいくつも見た。

 雨上がりの街。ベッチャー祭り。千光寺山の夕暮れ。あのアパートから見下ろせる、尾道の風景。御袖天満宮の階段。ゆったりと揺れる、尾道水道。

 久志は、この街の風景を好きだと言ってくれた。大好きな人が自分の故郷を愛してくれることは、自分を愛してもらうのと同じくらい嬉しいことだった。

 この街の景色を、いつまでも美しい思い出にして欲しいと思った。いつまでも、覚えていて欲しいと思った。

 たとえ、自分のことを想い出さなくなっても。

 また、涙があふれて来た。萌子はもう、自分でも何に対して泣いているのか、判らなくなっていた。

 終わりを告げる。それが、自分に出来る精一杯のこと。

 あふれる涙を必死に拭うと、萌子はキャンバスに向かった。真ん中に1本の線を引き、それから眼下に見下ろせる雑多な街並みを丁寧にスケッチし始めた。

 苦しくて、でもときめいていた二人の想い出を、その筆先で封じ込めるために。



 「萌子」

 聴き慣れた声で発する、聴き慣れた呼び名。でも、それはこの場には相応しくない呼び方だった。

 廊下の片隅で久志にそう呼び止められて、萌子は驚いたように振り返った。

 土曜日の午後の校舎には、確かに人影は少ない。それでも生徒が全くいなくなった訳ではなく、たとえ小声でも誰かに聞き咎められる可能性は否定出来ない。

 「先生……」

 歩み寄って来た久志を咎めるように、萌子は小さく睨む。けれども、彼の顔色を読み取るとすぐに彼女は表情を改めた。

 (どうしたんだろ)

 久志は硬い表情を浮かべていた。日当たりの悪い廊下にいるせいか、その顔が土気色をしているように見える。

 そう。まるで彼は、何かに怯える子供みたいな顔をしていた。

 「萌ちゃん」

 萌子のそばまで歩み寄った久志は、微かに耳に届くほどの囁き声で彼女の名を呼んだ。

 「明日、時間あるかな」

 「え?」

 「一緒に、行って欲しいところがあるんだ」

 その刹那、理由のない不安が不意に萌子の胸を襲った。

 久志の暗く沈んだまなざしの奥に、萌子はまた一つ絶望を見たような気がした。これ以上悪いことなんて、起こるはずがない。そう思う傍らから、急に駆け出してしまいたいような焦燥感が迫り上がって来る。

 「どこに?」

 尋ね返す、声が震えた。

 逃げ出してしまいたかった。これ以上、何を失えばよいのだろう。やっぱり、久志を想う気持ちは根こそぎ奪われてしまうのだろうか。

 「……父さんのとこに」

 「……え?」

 父さん。忘れかけていたその単語を耳にして、萌子は不意に胸を突かれた。びっくり目のまま、呆然と久志を見やる。

 「父さんの居所が、判ったんだ。一緒に、会いに行って欲しい」

 久志もまた、声を震わせていた。

 穏やかな昼下がりの静寂な校舎の中で、二人はまるで濁流に飲まれ中州に取り残されたように、なす術もなくただ立ち尽くしていた。


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