表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
43/53

第十章 真実(1)

 3月の始まりは、真冬を思わせる氷雨が降る1日だった。

 夕暮れ、尾道駅に降り立った萌子は、思わず傘を持つ手をさすった。

 朝から気温はほとんど上がらなかった。雪になるのでは、と思わせるほど冷たい雨が、時に強く、時に北風に煽られて1日中降り続けていた。日が落ちて、更に気温が下がったような気がする。

 駅前にも商店街にも、人影は極端に少なかった。雨を避けて歩いたアーケード下には、おもちゃ屋の店先で踊るチンパンジーのぬいぐるみのシンバルの音だけが虚しく響いていた。

 (あの時も……)

 萌子はふと、久志と初めて逢った日を思い出した。あの時二人で歩いた商店街も、こんな風に閑散としていた。……

 アーケード街の途中から道を折れて、狭い路地に入る。突風に煽られながら傘を斜め前に突き出すようにして、萌子は路地の奥へと進んだ。

 昨日から玲子は旅行に出掛けていた。3泊4日の予定で、絵心を持つ仲間たちとの海外旅行だ。その間一人分の食事を作るのが億劫で、萌子は『ひこうき雲』でただ飯にありつくことを企てていた。

 (勉強もはかどって、眠気覚ましの紅茶も付いて来るし)

 本音を言えば、一人きりになるのが恐かっただけなのかもしれないけれど。

 尾道水道は今日も、雨を吸い込んで鈍色に低いうねりを繰り返している。こんな雨の日は、全ての事象にあの秋雨の夕暮れを重ね合わせてしまいそうで、萌子は無性に切なさを覚えた。

 『ひこうき雲』のドアに手を掛けて、萌子は一息吐いた。手がかじかむほどの寒さが思考能力を低下させ、焦りを増長させる。制服に付いた滴を払う余裕もなく、彼女は山小屋のような分厚いきつね色のドアを押した。

 「千絵ちゃん、こんばん……」

 千絵はカウンター席の客と話し込んでいた。気さくな性格の彼女が客と話し込んでいるのはよくある光景だったけれど、萌子は何故か一瞬声を掛けるのをためらった。

 「あら」

 客の肩越しに萌子に気づいた千絵は、小さく声を上げた。それから、一瞬底意地の悪そうな表情を浮かべて、

 「待ってたわよ」

 と言うと、目の前の客の肩を突いた。千絵に促されるように、カウンター席の客が萌子を振り返る。

 小柄な、初老の男性だった。萌子の姿を認めると、まるで久しぶりに孫と再会したみたいに目を細めた。萌子には見覚えのない男性だ。

 「あの……」

 「萌ちゃん、こちら小田さん」

 「え……」

 千絵の紹介を受けて、その男性はすっと席を立った。

 「初めまして。小田です」

 「さ、澤崎萌子です」

 急にどぎまぎして、萌子は思わず台詞を噛みながら慌てて頭を下げた。

 びっくりするぐらい、穏やかそうな男性だった。『不動産屋の社長』と聞いていたから、もっとエネルギッシュな中年男かと思っていたのだ。あるいは、いかにも千絵が惚れ込みそうなロマンスグレーの紳士かと。

 小柄で痩せぎすなその姿には、決してパワフルさもフェロモンも感じられなかった。ただ、相手の心にすっと染み込むような、その優しげで頼りがいのありそうな笑顔だけがやけに印象に残った。

 (千絵ちゃん、この人のどこに……)

 「やっと逢えた」

 「え?」

 「君に逢えるのを、楽しみにしていたんです」

 「?」

 意外な台詞に萌子が目を丸くしていると、小田は可笑しそうに小さく笑って、

 「ここで、いいですか?」

 と自分の隣の席を勧めた。

 ぴょこんと頭を下げて萌子が席に着くと、カウンターの向こうから千絵が、

 「何飲むの?」

 「んとね。じゃ、アップル・ティ」

 「相変わらず、代わり映えしないわねぇ」

 千絵はそう笑うと、急に思いついたように、

 「そういえばね、忠亮さんがあなたに絵のことを訊きたいんだって」

 そう告げて、カウンター奥のキッチンに向かった。

 「千絵にね、あなたの絵を見せてもらったことがあるんですよ」

 『千絵』という聞き慣れない呼び方と、自分の絵を見られたという事実に、萌子は一瞬うろたえた。

 「……あたしの絵、ですか?」

 「うん」

 何て、吸い込まれそうな笑顔を浮かべるのだろう。

 萌子はたおやかな小田の笑顔を、しばし呆然と眺めた。それから自然と笑みがこぼれた。

 見る人をいつの間にか笑顔にさせる笑顔。小田の柔らかな表情を見て、不意に千絵が彼に惹かれる意味が判ったような気がした。

 「ひまわりを描いた絵が、あったでしょう?」

 「……ええ。中学生の頃に、描きました」

 小田は親子ほど歳の離れた、下手すると孫でもおかしくない年端の行かぬ少女に、それでも敬語を使って来る。それは決して不快な響きではなかった。

 ひまわりの絵とは、彼女が中学3年の夏に向島のひまわり畑で描き上げたものだ。千絵と玲子のいる前でそれを披露すると、二人とも、

 『元気が出る絵ね』

 と褒めてくれた。そして、

 『店に飾りたい』

 と言い出した千絵に、『お店に飾ったら、2度と口聞かないからね』と念を押して、萌子はその絵を譲ったのだった。

 「あの絵、今うちにあるんですよ」

 「ええ?!」

 萌子はそう目を丸くしてから、カウンターの向こうを睨んだ。千絵がこちらを見やって、ペロッと舌を出す。

 「千絵にどうしても欲しいってお願いしてね。僕の子供たちも、普段は僕のやることをけなしてばかりなのに、あの絵のことだけは褒めてくれます」

 そんなことを言う小田の口調は、実に屈託がない。それでも萌子は、彼と千絵の歳の差や彼の死に別れた奥さんのことなどをつい意識してしまった。

 「他でも、あなたの絵を見たことがあるんですよ」

 「え?」

 「前に、県のコンクールで優秀賞か何かに選ばれたことがあったでしょう?」

 「……ええ」

 「その時の展示会に行ったんです。千絵と二人で」

 再び、千絵の方を見やる。彼女は微笑んで小さく頷いた。

 「凄く、上達してた。僕は全くの門外漢だけど、そんな僕でも『上手くなったな』と思うくらい」

 「そんな……」

 萌子は照れたように俯いた。えらい惚れ込まれようだ。慣れない褒め言葉がこそばゆくて、でも萌子はやっぱり嬉しかった。どんなに著名なプロでもどんなに無名な素人でも、原点は一緒なのだ。評される、ということが物を作る原動力になるのは。

 「今度、私のために描いてください」

 「え? でも……」

 「私のオフィスを明るくするような、心暖まる絵を」

 「そんな……」

 萌子は困ったような顔で、助けを求めるようにカウンターの奥を見やった。千絵は俯いたまま何か作業をしている。

 「あたしの絵なんか……」

 そう遠慮しかかった萌子の言葉を遮るように、小田は萌子の方に掌を向けて、

 「ストップ」

 と声を掛けた。それから何だか嬉しそうに微笑んで、

 「過信するのは良くないけれど、自信を持たないのはもっと罪なことですよ」

 「……」

 「僕が君を褒めても何の得もない。そんな僕が言うのだから、少しは信じても良いんじゃないですか」

 「……はい」

 不思議だった。薫や千絵とはまた違った透明さで、彼の言葉は萌子の心の中にすっと染み渡った。薫の聡明さや千絵の優しさから来るものとはとは違う。人としての大きさが、萌子をそっと包み込み、素直にさせる。

 (そっか。千絵ちゃんはきっと……)

 「萌ちゃんは、もっと自信過剰でもいいのよね。賞も取ったし、今度は萌ちゃんの絵がポスターになるんだから、ね」

 カウンターの奥から、そんな茶化すような千絵の声が飛んで来た。

 「千絵ちゃん、それは!……」

 萌子が慌てたように腰を浮かす。その隣で小田が『ほぉ』という顔つきになった。

 「おともだちをモデルにした絵が、弓道の全国大会のポスターになるんですって」

 「千絵ちゃん、まだそれ決まった訳じゃ……」

 『おともだち』とは、薫のことだ。昨日二人で『ひこうき雲』に来て、千絵の前でそんな話をした。

 それは、月曜日に久志から聞かされた話だった。

 「それに、あたしの実力じゃないもん。薫がポスターになるくらい可愛いってだけでしょ」

 元はといえば、薫が受けた雑誌の取材が原因だった。『日本の伝統を受け継ぐ美少女アスリート』という特集記事で、薫のことが記事になったのだ。他に剣道や柔道の選手なども載っており、特集の内の一人という設定だったけれど、その中でも薫をカラーページのトップに持って来るなど、明らかに彼女を『主役』扱いした記事だった。

 雑誌が発行されてから、しばらくは校内でもかなり話題になった。千絵も雑誌を買い込んで来て、常連客に見せびらかしたりしていた。

 県の高校弓道連盟からポスターの話が来たのは、そんな騒動が治まりかけた頃だった。

 最初の話は、今度広島で開かれる全国大会のポスターのモデルを薫に勤めて欲しい、というものだった。もちろん、あの雑誌を見て依頼して来たのだ。

 雑誌の内容にすっかり困惑していた学校側は、薫がこれ以上『客寄せパンダ』扱いを受けることに拒絶反応を示した。彼女の両親も、娘が見世物になることに過敏になった。

 その内誰かが言い出したのだ。『澤崎さんが賞を取った、水谷さんを描いた絵。あれをポスターにすれば良いじゃないか』と。

 秋から冬にかけて描いていた薫の肖像画を、萌子は久志に言われた通りに絵画展に出展してみた。それが優秀賞を受賞した、と連絡が入ったのはつい先週のことだ。

 「賞を取った絵をポスターに活用出来るか、まだ判らないみたいよ」

 「あら、そうなの?」

 千絵は目論見が外れたように少し残念そうな顔した。でもそれは瞬きほどの出来事で、彼女はすぐにおっとりとした顔つきになって、

 「でも、弓道連盟の人たちはOKを出したんでしょ?」

 「……うん」

 「ならば、萌ちゃんの実力も認められたってことよ」

 「そっかなぁ……」

 小首を傾げ苦笑いを浮かべながら、萌子は小田の方を見やる。

 彼は穏やかな顔で軽く頷いた。慈愛に満ちた笑顔に触れて、萌子は慌てたように視線を逸らした。

 「さて、と」

 萌子の前にアップル・ティを差し出しカウンターを出た千絵は、エプロンを外しながら、

 「ちょっと店番していてくれる?」

 「どこ行くの? 外、凄い雨だよ」

 「砂糖、切らしちゃったの。『健康のためにそのままお飲みください』って訳にもいかないし、ねぇ」

 「心配しなくても、もう客は来ないんじゃない?」

 萌子がそう皮肉ると、千絵は彼女を睨みつけるふりをして、

 「あんたの晩飯も、作れなくなるかもよ」

 「行ってらっしゃいませっ! お姉さま」

 急にかしこまった萌子のその横で、小田がいかにも可笑しそうに微笑み続けていた。

 「……じゃ、忠亮さんのこと、よろしくね」

 千絵はそう言い残して、氷雨の中を出て行った。

 当たり前のように、すっと会話が途切れた。普通なら居心地の悪くなりそうなその間も、小田は意に介することなく飲みかけのコーヒーを口に運ぶ。

 不思議な空間だった。普段の人見知りの激しい萌子なら、緊張して紅茶のカップを忙しなく口に運んでいるところだ。でも、今の萌子は実にゆったりとした気分で、アップル・ティの甘い香りを鼻腔で味わう余裕さえ持ち合わせていた。

 萌子は、小田の柔らかな面差しをそっと盗み見た。

 (なんで、逢いたくないなんて思ったりしたんだろ)

 確かに、萌子は小田と遭遇することを避けていた。それは中学2年の多感な少女の心に、千絵と小田の関係が決して純愛とは映らなかったからだ。死に別れたとはいえ妻を持ち子を持つ小田と、親子ほど歳の離れた千絵の間柄に、彼女は自分と母を捨て去った父を無意識の内に連想していたのかもしれない。

 でも、本当は逢ってみたかったのだ。

 敬愛する千絵が愛した男性。奔放だけれど、千絵は決して秩序を乱してまで己の本能を満たそうとする人ではない。だからこそ萌子は、そんな彼女が愛した男性に本当は凄く興味があったのだ。

 萌子の視線に気づいた小田が、面映そうにはにかむ。

 「何か?」

 「あ、いえ……」

 萌子は何となくもじもじとして視線を逸らしながら、

 「小田さんは、千絵ちゃんと離れていて寂しくはないんですか?」

 そんな不躾な質問にも、小田は笑みを絶やすことがなかった。しばらくにこやかな顔で萌子を見つめた後で、

 「寂しいですよ」

 と、ちっとも寂しくなさそうな口調でそう言った。それから、

 「立花先生、どこかに行ってしまうんですか?」

 「えっ……」

 「いや、すまない」

 小田は申し訳なさそうに視線を落として、

 「千絵から話を聞いているんです。君と、立花先生のことを」

 「……私たちが、兄妹だっていうことも?」

 「……ええ」

 少し驚いたけれど、萌子はそれほど不快な気持ちにはならなかった。説明が省けて、むしろ好都合に思えたくらいだ。

 「……先生、東京に帰るんです。春になったら」

 こんなこと、今日逢ったばかりの人に話して何になるんだろ。萌子はそう自分に疑問を投げ掛けながら、気がつくとそんな台詞を口にしていた。

 確かに、親友は萌子の気持ちを悟ってくれた。心優しき叔母の忠告も、とても良く理解出来た。みんな優しいし、彼女の周りを囲む人々はいつだって彼女の気持ちを気遣ってくれる。

 本当は意固地になっているだけなのかもしれない。そう思うこともある。本当は自分の進まなければいけない道を、頭のどこかで理解しているのかもしれない、と。

 それでも、萌子は自分の想いにどうしても逆らうことが出来ずにいた。

 久志がいなくなると知った瞬間、萌子ははっきりと悟った。捨て切れない愛執の念を。どんなに綺麗ごとを並べてみても、その刹那に胸を貫いた衝撃には敵わなかった。

 「本当は、こんなところにいてはいけない人なんです、先生は。こんなところで立ち止まっていては。あたしは」

 あたしは。そう言いさして、萌子は一瞬言葉に詰まる。

 「あたしは、先生にくじけて欲しくない。この街で、先生の才能が朽ち果てていくのを目の前で見たら、絶対に後悔するって判ってるんです。でも……」

 萌子のぶつけるような激しい口調にも、小田は動じることがなかった。そんなこと判っていたよ、とでもいうように、黙ったまま目で萌子を促す。

 「……我がままなのかもしれない。こんな欲張りなの、自分でも嫌なんです。でも、今先生と離れたら、何も残らなくなる。何も、なかったことになってしまう」

 「どうして、そう思うのですか?」

 穏やかな問い掛けだった。優しく包み込むような口調で、小田はそう尋ねる。萌子は反射的に顔を上げて、小田の目を見つめた。

 「どうして、何も残らないと」

 「……」

 「遠く離れてしまったら、立花先生は2度と君のことを想い出さない?」

 「それは……」

 小田はフッと弛緩したため息を漏らした。それから何かに思いを馳せるように表情を緩ませて、

 「どうして、僕たちが広島と尾道に離れて暮らしていると思います?」

 「え?」

 小田は悪戯っぽい顔で萌子を見つめていた。喉元まで出かかった台詞を躊躇すると、そんな萌子の心を見透かしたように彼は、

 「僕の子供たちはね、僕が千絵と離れて暮らしていることに反対しているんです」

 「……え?」

 「もちろん、積極的に一緒に住もうとは言いませんけどね。私が広島で家を借りて、そこに二人で住めば良い、と。千絵と交際していることは、誰も反対していません」

 「そう、なんですか……」

 「千絵につき合おうと言った後で、僕は子供たちを説得しました。『再婚したい人がいる』と」

 笑っているけれど、小田の目つきは真剣だった。真剣で、真摯だった。

 「最初はみんな怪訝な顔をしました。真っ向から反対された訳ではないけれど、やはり二人の歳の差や死んだ妻のことをとやかく言われたりしました。しばらく時間がかかって、それでも子供たちは言ってくれたんです。『じゃあ、1度会ってみよう』って」

 「……」

 「子供たちを説得していることを、千絵には話しませんでした。全てが上手くいってから、彼女を喜ばせよう、と。子供たちが会いたいと言ってくれたところで、僕はようやく千絵に切り出したのです」

 小田の笑みの中には、幾分苦いものが混じっているように見えた。

 「彼女の答えはこうでした。『仕事を辞めて、尾道に帰る』と」

 小田が突然身の上話を始めたその真意を掴めぬまま、萌子は先を促すためだけに小さく頷いてみせた。

 「つき合い始めた当時、彼女はうちの会社で経理として働いていました。途中入社だけど、非常に有能で僕自身も会社としてもとても頼りにしていたんです。彼女が会社を辞めると言い出した時、僕はすぐに考えました。こんな関係になって、社長である僕に贔屓にされているように見られるのが、きっと嫌なのだろう、と」

 冷めたコーヒーを口に運ぶその横顔は、やはり少しだけ苦笑いを浮かべている。

 「そうじゃなかった。僕が何も言わないでいるあいだ、彼女は彼女なりに考え、彼女なりの答えを導き出していたのです」

 「?」

 「彼女には、この街で店を構える夢があった。そして、このまま広島に居座っていてはその内に僕の迷惑になる。ならば、尾道へ帰ろう、と」

 「……」

 「僕はしまった、と思いました。もう少しちゃんと僕の意志を彼女に伝えていれば、彼女の考えは変わっていたかもしれない。何も伝えなかったばかりに彼女に辛い思いをさせ、辛い決断をさせてしまった……」

 「……」

 「彼女に想いを告げようと思った時もそうでした。彼女が僕の前に現われてから2年間、僕は何も言うことが出来なかった。出逢った時から彼女に惹かれていたのに、僕との歳の差や僕と彼女を取り囲む環境に気を取られていたんです。僕は僕なりに一所懸命考えたつもりだけど、結局僕のやっていたことは、彼女を苛立たせ、彼女に諦めの気持ちを抱かせただけでした」

 過ぎた過ちを笑い話に変える。そんな口調の後で、小田は不意に真面目な顔つきになって、

 「君は、立花先生の声を聞いてますか?」

 「え?」

 「人はね、言葉を交わせるから、他の生き物とは違うんですよ」

 小田はそう言うと、ゆっくりと優しく頷いた。

 「男はね、案外口下手なんです。ちゃんとはっきりとしないと、なかなか口に出せない。でも、ちゃんと考えているものなんです」

 「……はい」

 「大切な人のことならば、必ずね」

 確かに、私はまだ何も聞かされていないかもしれない。萌子はそう思った。兄妹だという事実を告げてから、まだ1度も久志の本音を聞いていない。それを悪い方向に捕らえたり投げやりになったりしたのは、全て自分が勝手にしたことだ。

 (先生は、本当にあたしのことを……)

 「立花先生は、いつこの街を離れるのですか?」

 「……たぶん、4月には」

 萌子の呻くような返事に小田は軽く頷いて、

 「ならば、もうすぐだ。きっと彼はちゃんと答えを出してくれると思いますよ。そう遠くない未来に」

 「……そうでしょうか」

 「君の好きになった人は、そんなにいい加減な人なんですか?」

 「え?」

 萌子の戸惑った顔を諭すように、小田は静かに微笑む。

 「君の精一杯の気持ちを思いやってやれない。もし彼がそんな男なら、こっちからぶちかましてやればいいんです。『東京でもどこでも、とっとと行っちまいな』ってね」

 突然女声を上げて小田が茶化したように叫ぶのを、萌子はしばらく呆気に取られて見ていた。

 「あれ? 滑った?」

 小田がそう真顔に返った瞬間、萌子は思わず吹き出した。

 「……君も」

 萌子につられるように相好を崩しながら、小田は言葉を重ねる。

 「え?」

 「君も、自分の気持ちをはっきりと伝えなければいけないですよ」

 「……」

 「半分兄妹であるという事実に、君たちがどんな結論を下すのか。それは君たち以外、誰にも判りません。どれが二人にとって一番幸せを感じ続けることが出来る道なのか、二人でよく考えて、二人でよく話し合わなければならない」

 千絵は。そう言いさして、小田はしばらく黙り込んだ。選りすぐりの言葉を探すように、思案げな顔をした後で、

 「千絵が尾道に戻ると言い出した時、僕は彼女に思い留まってもらおうと必死に謝りました。でも、違ったんです。彼女は言いました。『私はあなたの、公平なパートナーでいたいの』と」

 「……」

 「それは彼女の決意でした。無骨な結論かもしれないけれど、精一杯考え抜いて自分なりの生き方を見つけられる。そんな千絵のことを、私は今も誇りに思っています」

 だから。そう言いさして、小田は萌子に向かって力強く微笑んだ。

 「君も彼の決断に頼ることなく、君なりの答えを探さなければ。私が誇りに思った、千絵のようにね」

 小田がそう言った刹那、山小屋のような分厚いきつね色のドアが開いて、千絵ご自慢のスイス製のカウ・ベルがカランカランと小気味良い音を立てた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ