第九章 2つのベクトル(4)
その夜、夜半過ぎから降り出した雨は、翌日の昼過ぎまで絶え間なく降り続けた。
久しぶりの本格的な雨だった。春の優しさを思わせる柔らかな雨足を、南向きの窓から萌子はぼんやりと眺めていた。
この雨の中を、久志は東京へ旅立ったのだろうか。
東京へ何をしに行ったのか、結局最後まで訊けずじまいだった。福山駅のホームや電車の中で、久志とのあいだに会話が全くなかった訳ではない。他愛もないお喋りの合間に、さり気なく尋ねることも出来たはずだった。けれども萌子は久志の態度に勝手によそよそしさを感じ、尋ねることをあっさりと諦めてしまった。
(先生は、何を思っているんだろう)
自分が実の妹だと告げた瞬間から、萌子は久志の心が全く読めなくなってしまった。確かに感じていたぬくもりも、夢でも見ていたかのように消えてしまった。
(いっそのこと、本当に夢だったなら)
でも、確かにそれに触れた記憶はこの胸の中にある。
萌子は思わず手で顔を覆った。
(先生のこともお父さんのことも、みんな夢だったら良かったのに……)
薫が澤崎家を訪ねて来たのは、正午を少しだけ回った頃だった。
「あれ? 萌子一人?」
勝手知ったる、とばかりに家の中に上がり込んだ薫は、家の中の雰囲気を感じ取って萌子の方を振り返った。
「うん。旅行の準備で出掛けてる……」
「そっか。玲子ちゃん、明日から上海か」
薫はそんな、いかにも羨ましげな声を上げて部屋の中を見回す。
「薫……」
「ん?」
萌子のしょぼくれた声に振り返った薫は、萌子の様子を見てびっくりしたように、
「あんた、どうしたん?」
いつの間にか、涙があふれて止まらなくなっていた。薫の顔を見ることが出来ずに、萌子は俯き加減のまましゃっくりをして、
「先生が、立花先生がいなくなっちゃう……」
泣きじゃくる親友の姿を、薫はしばらくのあいだ黙ったまま見つめていた。それから、何も訊かずにそっと頭を撫でた。
薫の顔を見た瞬間、萌子の中で張り詰めていた気持ちが一気に緩んだ。苦しさ、哀しみ、不安。さまざまな思いが一挙に吹き出して来て、堪えていたものが堰を切ったようにあふれ出す。
無理強いすることなく、薫は萌子が泣き止むのをじっと待った。そして萌子の嗚咽がだんだん収まり始めた頃、彼女はそっと、
「お昼、もう食べた?」
なおもしゃくり上げながら、萌子は小さく首を横に振った。
「じゃあ、ラーメンでも食べに行こうか」
そうして薫は、萌子を雨上がりの街へと連れ出した。
表に出ると、しっとりと冷たい雨上がりの空気が頬を包んだ。二人は坂道を下り、商店街へと足を運んだ。
薫は久志のことにほとんど触れようとしなかった。ただ、『つたふじ』の入り口に並んでいるあいだに、たった一言、
「立花ちゃん、いついなくなっちゃうの?」
そう尋ねただけだった。
「4月になったら。晴美が教えてくれたの。立花先生、東京に呼び戻されているんだって」
視線を逸らし、遠い目をしながら萌子は力なくこう呟く。
「先生、今日東京に行ってるの」
「……そっか」
スープを口にすると、不思議なくらい気持ちが落ち着いた。急に空腹感を思い出したように萌子は無心でラーメンを啜った。そんな彼女の隣で薫は、これまた何もなかったように黙ってラーメンを啜った。
「海、見に行こっか」
ラーメンを片づけると、薫はそう言って萌子を港に誘った。
埠頭の上の古びた長椅子に腰掛けて、二人はボーっと海を眺めた。
尾道水道は今日も穏やかだった。わずかに差し込み始めた陽の光が、水面にキラキラと反射している。萌子は一瞬、春の匂いを嗅いだような気がした。
「遠距離は、無理?」
水面を見つめたまま、唐突に薫がそう切り出した。
「え?」
「東京と尾道じゃ、続かなさそう?」
(そっか)
薫は本当のことを知らない。それを知らなければ、萌子の痛みも判るはずがない。
萌子は黙って薫を見つめた。
苦しい、と思った。一人で抱え続けることがこんなに苦しいなんて。一人で抱えることには、慣れていたはずなのに。
「薫」
「ん?」
「あたしたちね、そんな仲じゃないの」
「え?」
萌子は小さく微笑んだ。疲れ切った、諦めの笑顔で。
「遠距離恋愛とか、そんなこと言える立場じゃないの。だってあたしたち、実の兄妹だから」
「なにそれ」
たっぷりと30秒以上黙った後で薫が発した言葉は、どこか嫌悪感に満ちたものだった。萌子は一瞬、自分が毛嫌いされたのかと勘違いしたけれど、それは違った。
「意味判んないよ、それ」
そりゃそうよね、と萌子は思った。思ったけれど、だからと言って気の利いた説明が浮かぶ訳でもない。答えあぐねた末に、萌子はこの言葉を選んだ。
「あたしのいなくなったお父さんはね、本当は先生のお父さんだったの」
「……どういう意味?」
珍しく顔を強張らせながら、薫がそう問い返した。
時につっかえ、時に言葉に詰まりながら、萌子は懸命に説明した。久志が生まれた時、彼の父はいなかったこと。萌子が4歳の時に、彼の父が帰って来たこと。二人の父が、一時記憶喪失だったこと。
萌子のたどたどしい説明を、薫は小難しい顔をして聞き入っていた。萌子が話し終わっても、まるで見えない通訳の声に耳を傾けているかのように、しばらくのあいだ黙って目を閉じたままでいた。
「……しかしまぁ」
「え?」
「あんたはホントに、漫画みたいな人生を歩んでいるわねぇ」
あの、天使のような微笑みだった。やがて、たっぷりと笑顔を浮かべた薫を見て、萌子は少し安心したように照れた笑みを浮かべた。
「じゃあ、結局お父さんの行方は今も判らないんだ」
薫の問いに、萌子はコクリと頷く。
「お父さんから直接聞かなきゃ、信じられない?」
「そんなことは……」
萌子は足元のコンクリートに目を落として、
「お父さんが描いた絵が、一番の証拠だし」
「……そっか」
長いあいだ、薫は黙って考え込んだ。その隣で萌子は、思ったより穏やかな気持ちで彼女の言葉を待った。
やがて、潮の香りを吸い込むように薫は大きく伸びをした。
「好きになっちゃいけないと判っていても……ね」
「え?」
穏やかなまなざしで、薫が萌子を見やる。
「好きって思ったら、そんな花火みたいにパッとは消えてくれないわよね」
「……うん。そうだね」
萌子はそう深く頷いた。
「でもね」
「ん?」
「萌子の気持ちはともかく」
薫は憂鬱そうなため息を吐きながら、
「誰から見てもね、やっぱり二人は兄妹でいなきゃいけないと思うよ」
「……うん」
「こんな常識ぶったこと、言いたくないけどさ。きっと立花ちゃんも同じことを考えているんじゃないかな」
「……」
「萌子のこと、大切に思うなら、さ」
「そう、かもしれない」
薫の言うことは、全てが至極まともなことだった。当たり前のことが、薫の声を通すと砂に染み込む水のように萌子の心に溶け込んで来る。なぜだろう。彼女の前では、萌子は不思議と素直になれるような気がしていた。
萌子だって、そんなことはとっくに判っているのだ。運命には誰も逆らえないということを。
久志の優しい人柄も、きっと変わりはないのだろう。ただ、運命に逆らえないだけなのだ。
「立花ちゃんの未来を、祈る気持ちにはなれない?」
「え?」
薫の諭すような口調に、萌子は顔を上げて彼女を見やった。
「彼が東京に帰るのは、その腕に見込みがあるからなんでしょ?」
「……うん」
「立花ちゃんが萌子のそばでずっと暮らして、彼がそうやって尾道で埋もれていっても、萌子は幸せになれるの?」
「それは……」
本当なら出逢っているはずのない人。こんなところで燻っていてはいけない人。萌子はそれも、よく判っているつもりだった。彼の夢を、邪魔してはいけない。
「あたしなら、龍太の夢を応援するよ」
「え?」
薫は優しく微笑んでいる。柔らかく美しいその笑みを見て、萌子はしかしその瞬間彼女のことを、『強い』と感じた。
強がりなのかもしれない。それでも萌子は、そんな風に強がれる薫のことが正直羨ましかった。
「……壊したくない」
「え?」
「先生の夢は、叶って欲しいと思うの」
泣きそうな声で、俯いてコンクリートを見つめたまま萌子はそう呟くように言った。
息を呑むほどの指使い。確かな技量に裏打ちされた、アイデア豊かなその作風。愛しい人の夢というだけでなく、純粋に一人の美術部員として、萌子は久志の絵がどんな評価を受けるのか、見てみたいと思っていた。その絵で世界へ羽ばたいて欲しいと、思っていた。
「でも、まだダメなの」
「どうして……」
「今はダメなの。このままじゃあたし、先生の妹にもなれない」
我がままなのかもしれない。それでも萌子は、このまま久志が東京に帰ってしまうことが堪らなく恐かった。
このまま、久志の心に何も残せないことが。
ベッドの上に放り出しておいた携帯が、突然震えだした。
少しずつ長くなり始めた日の入りの時刻も過ぎ、部屋の中は物の輪郭さえ掴めぬほどの薄闇が広がっている。机に向かい、明かりも点けずにぼんやりと佇んでいた萌子は、呆けたようにメールの着信を知らせる明かりの点滅を見やった。
「誰だろ……」
そう呟いて萌子は携帯を手に取る。
『久志携帯』
受信メール一覧の一番先頭に浮かんだ名前を見て、萌子は小さく目を見開いた。慌てて、メールボックスを開く。
『今、東京駅を出るところ。
お土産、何がいい?』
今時の23歳のメールにしてはやけに簡素なその文章を、萌子はしばらくのあいだじっと見つめていた。その内に携帯の画面が省エネモードになり、その文章は闇に沈んだ。
メールでその瞬間の思いを伝えるのは、案外難しいものなのかもしれない。ましてや久志は、その歳に似合わずメールの出し方が下手くそだった。
浮かれてる。メールボックスを開いた瞬間、萌子はそう思った。素っ気ないそのメールから、彼の偽らざる気持ちの一端が見え隠れしているように思えた。
(こんなに、苦しいのに)
萌子はとっさにメールの送信元の電話番号を呼び出し、発信ボタンを押した。
『……もしもし?』
駅特有のざわめきを縫って、久志の戸惑ったような声が聞えて来る。
「萌子です」
『うん。メール、見た?』
「……」
萌子は思わず黙り込んだ。携帯の電波を通して、東京のざわめきと尾道の静寂がしばらく行き交う。
「先生?」
『ん?』
「今日、どうして東京に行ったの?」
『え……』
久志が戸惑った声を上げる。そしてまた、携帯の向こうに喧しい沈黙が広がった。
「どうして、何も教えてくれないの」
『……』
「あたしはもう、先生のそばにいちゃいけないの?」
『そんなことは……』
やがて萌子は静かに泣き始めた。心も仕草も表情も、何も伝えてくれない携帯の電波に、萌子の涙声だけが伝わっていく。
『……ごめん』
萌子がひとしきり泣き止むのを待っていたように、久志は短くそう謝った。
『僕も、君のそばにいたい』
「……え?」
思いがけぬ台詞に虚を突かれて、萌子はつい間の抜けた声を出した。
『実はね、今度公募展に絵を出品することになったんだ』
「え?」
『詳しい話は帰ってからするけど……』
久志は一瞬ためらい、簡潔に伝える言葉を選び抜いて、
『僕の絵の先生は、もう帰って来いって言っている。公募展に出す絵を制作するならば、それなりの環境に身を置かなければ駄目だって。それとね』
彼の声の背後にアナウンスが流れ、慌しい気配が携帯に伝わった。久志の口調が俄かに忙しなくなる。
『もう一つ、絵の制作を依頼されてるんだ。かなり、大きな仕事だ』
一瞬垣間見えた望みが、蜃気楼のように崩れていく。
やっぱり彼は、ここにいてはいけない人なんだ。
『でも僕は、まだ東京には戻れない』
「……え?」
携帯が途切れる寸前、その言葉は幻聴のように萌子の耳に届いた。
『まだ、君を残しては行けないんだ』