表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
41/53

第九章 2つのベクトル(3)

 「ただいま」

 萌子は、誰もいるはずがない家の奥へそう声を掛けた。

 学校から帰ると、玄関に鍵が掛かっていた。今日は母の外出予定など聞いていない。萌子は首を傾げながら家に入ると、リビングのテーブルの上に置手紙を見つけた。

 『高嶺さんのところに打ち合わせに行って来ます。夜ご飯、よろしく♪』

 高峰とは、尾道在住の女性画家のことだ。彼女を含めた数人と、来週玲子は研修を兼ねた海外旅行に行く予定になっていた。

 大方、その打ち合わせにでも出掛けたのだろう。萌子は冷蔵庫の中身を思い浮かべ、今晩の献立を頭の中で組み立てながら2階へ上ろうとして、ふとテーブルの上にある茶封筒に気づいた。

 (なんだろ?)

 表に『尾道市役所』の名前が見える、口の開いた封筒だった。何の気なしに萌子は中身を引っ張り出した。

 「戸籍謄本?……」

 それは玲子の戸籍謄本と住民票だった。萌子はすぐにピンと来た。

 「ママったら、また間違えてる……」

 おそらく、期限の切れたパスポートを再取得するために取って来たのだろう。パスポートには住民票だけでいいみたいだよと、6年前も同じ指摘をした覚えがある。

 『こんなこと、小学生に教わっちゃねぇ』

 その時、玲子はそう言って大笑いしたものだ。そんなおっちょこちょいなところは、ちっとも変わってない。

 (そうだ、あの時初めて……)

 萌子はその時に、初めて『戸籍』というものを見たのだった。

 ふと思いついて、萌子はその戸籍謄本を持って自分の部屋へと上がった。

 いつものように鞄をベッドの上に放り出すと、南向きの窓を開ける。

 今日は幾分春めいた陽気の1日だった。風もなく、穏やかな午後の陽射しに包まれた尾道の街並みは、心なしか霞んで見えた。

 季節は確かに移ろい始めている。変わらぬものなど何もないのだ。時の流れも、人の心も。

 しばらく故郷の街並みを眺めてから、萌子はベッドに放り投げていた先刻の茶封筒を手に取った。

 玲子の生年月日や本籍といった情報の下に、萌子の名前がある。

 『私生児』

 自分の名前の欄の脇に書かれたその三文字を、萌子はじっと見つめた。

 自分の戸籍に父親の名前がないことを知ったのは、小学校5年生の時だった。やはりパスポートをとるために母がもらって来た戸籍謄本を見た時だった。

 無論その時は、『私生児』の意味など全く判らなかった。ただ、その言い知れぬ秘密めいた言葉の響きが、母へ問い尋ねることをためらわせた。

 必死に辞書をひっくり返しても、小学5年生にその言葉の意味は容易には理解出来なかった。その言葉がどういう意味を持つのかをはっきりと理解したのは、高校生になった頃ぐらいかもしれない。

 未婚の母。萌子はそのことをずっと疑問に思っていた。でも、今ならそれも何となく理解出来るような気がする。

 (私はお父さんと血が繋がっていないんだ、戸籍上は……)

 ならば、久志とも赤の他人なのだ。戸籍上は。結婚だって、出来る。

 「ぷっ」

 そこまで考えてから、萌子は思わず吹き出した。

 そんな風に強い信念を持って生きられたら、どんなに楽だっただろう。全てを肯定的に捕らえ、やみくもに突き進むことが出来たなら。

 あるいは、もっと強く自分を断じ、全てを受け入れる心を持てたなら。

 受け容れるでもなく、跳ねつけるでもなく。つくづく自分は中途半端な人間だと思う。

 たとえば二人が、幼い頃から兄妹として育てられていたらどうだっただろう。たとえば二人が、初めから兄妹として引き合わされていたら。真実をありのままに受け容れられただろうか。

 萌子は今でも、久志が『兄』だという事実を実感することが出来ないでいた。ほんの少し、時の流れが悪戯に違えた運命に翻弄されて、事実を事実として受け容れることが出来なくなっていた。

 消すことの出来ない想いと、本当を知った刹那自らの心に抱いてしまった禁忌。進むことも引くことも出来ずに、萌子はずっと濁流の中に取り残されたような気持ちになっていた。

 それでも、少しずつ心は変わり始めている。

 この1週間、萌子は放課後美術部に寄らずにまっすぐ帰宅していた。そしてスケッチブックを手にすると、いくつかあるお気に入りのスポットを毎日スケッチして歩いていた。

 3学期の初めに久志に紹介された、『全国街並み絵画コンペ』に出展する絵のテーマ探しのためだった。久志にも、しばらく部活動には顔を出せないことを伝えてある。

 大阪を訪れて以降、萌子は猛烈に尾道の街を描きたい欲望に駆られていた。

 この街で久志と過ごす日々に、決して後悔しないように。それを、幸せだと思えるように。大好きな街角を描写しながら、萌子はそんな祈るような気持ちを筆先に込めていた。

 諦め、と言ってしまえばそれまでだ。でも、だとしたら私はいったい何を諦めたというのだろう。

 萌子の心の中は、もっと穏やかな気持ちでいっぱいだった。この街に生き、この街で共に過ごせる幸せを感じ、もっとたくさんこの街を描きたい。

 それは、片恋が琥珀色の想い出に変わるより、もっと柔らかな想いだった。

 早くそんな時が来れば、と思う。別の想いでまた好きになれたら、と思う。

 そう。嫌いになど、なれるはずもないのだから。



 「ちょっと、萌子。あんた聞いた?」

 朝、教室に入る直前の廊下で、萌子はそう声を掛けられた。

 晴美の口調は相変わらずだった。いったい彼女は、どこからこんなに情報を仕入れて来るのだろうか。萌子は振り向く前から苦笑いを浮かべていた。

 「なによ。今度は何を仕込んで……」

 戯けた調子で晴美を振り返った萌子は、つい口をつぐんだ。友人の顔は、いつになく真剣だった。

 「あんた、ホントに聞いてないの?」

 不意に、心がさんざめいた。

 ホームルーム前の廊下に広がる喧騒は、極限まで大きくなっている。その中で萌子と晴美の間だけが、オブラートに包まれたように静かだった。見たことのない、晴美の真面目くさった目を見つめながら、萌子は機械的に口を動かした。

 「なにを?」

 萌子の言葉を聞いた途端、晴美は酷く哀しげな表情を浮かべた。ほんの少し顔をしかめて、一時萌子の顔を凝視する。

 そして次の瞬間、彼女の声は異邦人のテレパシーのように、萌子の心に直接響いた。

 「立花ちゃん、4月になったら東京に帰っちゃうんだって」



 結局あたしは、いったい彼の何なのだろう。

 キャンバスに向かう久志の姿をぼんやりと見つめながら、萌子はそんなことを思っていた。

 放課後、部活に顔を出した久志の様子は、いつもとまるで変わりがなかった。この頃の彼はまるで生徒の一人のように部員のあいだに溶け込み、すっかり部室をアトリエ代わりにして創作に励んでいる。その口からは、教師を辞める話などとても聞けそうになかった。

 『なんかね、立花ちゃんの絵の先生が、東京に戻って来いって言ってるんだって。こんな田舎にいたら、腕が錆びるって』

 晴美が教師たちの会話を立ち聞きして来たという話をどこまで信じて良いのか、萌子には判らなかった。

 ここにずっと留まっていてはいけない人。そんなことは判っているつもりだった。この街にいることが心のリハビリなのだとしたら、その目的は十分に果たしていることも。ここに留まれば、確実に腕が錆びることも。

 (実の兄妹なら)

 萌子は思った。兄妹なら、遠く離れて暮らすことを真っ先に相談されても良いのではないだろうか。もし萌子のことを大切に愛おしく想うなら、そんな大事なことは一番に伝えなければならないのではないだろうか。

 彼が尾道に現われてから5ヶ月。萌子は久志と少なからず関わり合いを持って来たと、そう自負していた。互いに通ずる想いがあったと、そう感じていた。

 所詮先生にとってわたしは、少し仲の良い生徒にしか過ぎなかったのだろか。

 千光寺山から見た景色。イブの教室。展望台から見た来島海峡。幾つもの夕暮れに感じた久志の気持ちが、霞を掴んだように掌で幻となってゆく。

 美術部の常連たちと笑顔を交わすその横顔が、不意に見知らぬ他人に見えた。

 時計の針が5時を回る直前に、萌子は美術室を後にした。部屋の中にはもう久志を含めた数人が残っているだけだった。

 昇降口を出た萌子は、その足を教職員用昇降口へと向ける。そしてドアの向こうに人影がないことを確かめると、入り口から身を隠すように外壁に寄りかかった。

 日が落ちてから、急に北風が強くなった。萌子はコートの襟を寄せながら、足早に消え去ろうとする夕景をぼんやりと見ていた。

 待ち伏せなんて、らしくない。萌子自身、そう思っていた。自分はもっと思慮深くて、臆病なウサギみたいな性格だと思っていたのだ。

 萌子が教室を後にした時、久志はもうキャンバスの片づけに入っていた。だからそろそろここに現われるはずだが、その前に他の教師が通らないという保障はどこにもない。どんな関係にしろ、生徒が教師を待ち伏せするような関係はあまり知られてはならないはずだった。

 久志が目の前から去っていく。それは片想いよりも、禁じられた想いを諦めるよりも、辛く苦しいことだった。諦めようとする想いも悟ろうとする気持ちも、これでは中途半端なまま宙に浮いてしまう。そんな焦燥感が萌子を悪戯に急き立て、見境を失くさせていた。

 こんなことをして。彼は何かを答えてくれるだろうか。

 その答えを、あたしはどう受け止めるのだろうか。

 久志は案外早く姿を現した。周囲に気遣うことなく歩み去ろうとするその背中に、萌子はそっと声を掛けた。

 「せんせい」

 振り返った久志は本当に驚いた様子で、

 「……どうした? 先に帰ったんじゃ」

 「せんせいを、待っていたの」

 「え?」

 萌子が何を考えているのか、彼には全く読めなかったらしい。久志はしばらくのあいだ戸惑ったように萌子を見つめていた。

 「……とりあえず、行こうか」

 ここじゃ何だから。誰かに言い聞かせるようにそう呟くと、久志は萌子を促すように歩き始めた。

 西の彼方に白っぽい夕焼けを残して、空は露草色から藍色そして紺と色を変え、だんだんと漆黒の闇に飲み込まれようとしている。

 二人の周囲はそれより早く、深い闇に包み込まれていた。時折街灯の下を通る際にその横顔が浮かび上がるだけで、もうお互いの表情はほとんど読み取れない。

 それが、幸いした。

 ほとんど交わす言葉もなく、二人はふくやま美術館と広島県立博物館の間に広がる緑の敷地を通り抜けた。目を合わすことが出来ない気まずさも、暗闇のせいにしてしまえばそれで済んだ。

 どうして問い掛けることが出来ないのだろう。あんなに思い詰めて、待ち伏せしたのに。萌子は、いざとなると何を尋ねれば良いのか判らなくなってしまった。何か言わなくちゃ。その言葉だけが思考回路をぐるぐると回り、気持ちばかりが空回りして焦燥感が体を縛り付ける。

 でも、一体何を訊けば良いのだろう?

 石垣の脇を通り抜け駅前の交差点に差し掛かると、周囲の明かりが増えた。赤信号で立ち止まると、萌子は久志と顔を見合わせた。

 何か言いたげな顔をしている、と萌子は思った。訊くのなら、今かもしれない。

 「……せんせい」

 「あのさ」

 萌子の精一杯の決意は、久志の台詞に呆気なく吹き飛ばされた。

 「僕、明日東京に行くんだ」

 「え?」

 「ちょっと、人と会わなければならなくてね」

 だから、明日は逢えない。そんなニュアンスを含んだ台詞だった。

 明日、逢えない。萌子はそんなことを訊きたい訳じゃなかった。けれども彼女はそれ以上台詞を重ねることが出来なかった。

 こんなの初めてだ。

 駅の改札をくぐり、ホームへ向かうエスカレーターに縦に並んで乗りながら、萌子はそう思った。

 久志とのあいだに、こんなに距離を感じるのは初めてだ、と。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ