第九章 2つのベクトル(2)
行き交う人波に、萌子はしばらく圧倒されていた。
大阪随一の繁華街は、息苦しいほどの人混みだった。それが休日のせいなのか、それとも普段と変わらぬ賑わいなのか萌子には判らなかったけれど、とにかく尾道に生まれ育った人間にはあまり見慣れぬ光景だった。
大都会の雑踏など慣れっこのはずの久志も、しばし唖然としながら立ち尽くして、
「人混みの中で聴く関西弁は、結構きついね」
と苦笑した。
「ご飯、食べてから行こっか」
新大阪から在来線に乗り換え、梅田に着いたのはもうお昼近かった。土地勘のない二人は、デパートのレストラン街にあるお好み焼き屋に入った。
早くも混雑し始めた店内でカウンターの隅に追いやられた二人は、交わす言葉もなく鉄板の上の鮮やかな手つきをぼんやりと見ていた。
これから目指す場所は、南海電鉄で何駅か行った先にある。番地が判っているだけだから、目的の家を探すのに手間取る可能性もある。ここであらかじめ腹ごしらえをしていくのは、決して間違いではない。
それでも萌子には、久志が二の足を踏んでいるように見えて仕方がなかった。
ためらっているのは久志だけではない。萌子もまた、同じだった。
心の片隅で大きくなることもなくまた消え去ってしまうこともなく、当たり前のような感情としていつも居座り続けていた思い。母の気持ちを憚って決して口にすることはなかったけれど、萌子はずっと父に逢いたいと思っていた。たとえ逢えなくても、せめて父が家を出て行った理由だけは知りたいと、切に願っていた。
皮肉なことに、久志と出逢い彼が兄だと判ったことで、萌子はその願いを叶えてしまった。
父は、自分に息子が生まれたことを知らなかった。記憶を取り戻しても帰るつもりのなかった東京に、父はその事実を知って戻った。
父は、久志のことを選んだのだ。萌子や母を捨てて。
久志のことを恨もうなんて思わない。ただ、そこにある事実が哀しかった。
父と再会しても、そこに喜びがあるようには思えない。ただ、哀しい事実をなぞるだけだ。
(それでも、お父さんに逢いたい?)
そう自問しながら、萌子は久志の横顔をそっと盗み見た。
久志は何をためらっているのだろう。どこか思い詰めたようなその横顔を見て、萌子は不思議な気分になった。
久しぶりに父親と逢うことに緊張しているのだろうか。それとも、少しは萌子の憂いに気づいているのだろうか。……
二人が阿倍野駅に辿り着いたのは、午後の2時を少し回った頃だった。
大阪もこの辺りまで来ると、都会の喧騒はすっかり無縁のものになる。雑居ビルとアパートが立ち並ぶ街は、奇妙に静かだった。
そんな無機質な街角で、萌子はとても落ち着かない気分を味わっていた。
乗り継いで来た南海電鉄の車内で、二人はずっと押し黙ったままだった。高層建築から軒の低い街並みへと変わりゆく車窓の景色を眺めながら、それぞれの思考に入り込んでいた。
何故、今父に逢わなければいけないのだろう。
萌子はずっとそのことを考えていた。これが運命なのだろうか。このタイミングで、父の行方と久志の存在を知ることが。
だとしたら、なんて虚しい。
もう少し早く、もう少し違った順序で。それだけで、二人はもっと幸福に出逢うことが出来たかもしれないのに。
重苦しい気持ちまま阿倍野駅に降り立った萌子の心に、俄かに別の重苦しさが襲い掛かって来たのは、鄙びた改札口を通り抜けた後だった。
駅前に建つ住居表示板と手元のメモをしばらく見比べてから、久志は小さな声で、
「こっちだ」
と言って歩き出した。
「判りそう?」
「まぁ、大体は。おじさんも、駅からはそんなに離れていないって言ってたし」
無機質な街並みは、どこも同じように見えた。ただでさえ方向に疎い萌子は、2、3度路地を曲がっただけで呆気なく帰る方角を見失った。
どこも似たように寂れた街を、二人は黙々と歩いた。見知らぬ土地への不安、行く先の見えない不安、辿り着いたその先にある不安。鉛が乗っかったように、萌子の心はずんずんと重たくなっていく。
「……っかしいなぁ」
電柱に貼られた番地の表示を見て、久志が小首を傾げた。
「……先生、もしかして本当に迷ってます?」
「番地は合ってるはずなのに、肝心のアパートが建ってないんだよ」
二人が尋ねようとしている女性はここ阿倍野が出身地で、離婚して郷里に戻った後は実家へは戻らずに近くのアパートを借りて住んでいるという話だった。二人はそのアパートを探しているのだ。
萌子でも判るくらい、久志は何度も同じ街区を行き来した。徒労が不安に拍車を掛ける。いい加減焦りが見えて来たところで、とうとう久志は近くにあった不動産屋に飛び込んだ。
ずり落ちそうに眼鏡を掛けた初老の男性にその住所とアパート名を告げると、彼はしばらく物珍しそうに久志と萌子の顔を交互に見やった。
「ずいぶんと奇遇やな」
「え?」
久志が不思議そうな顔をすると、初老の男性はにやりと笑って、
「そのアパート、ウチが仲介していた物件なんや」
「え……」
「もっとも、今はもうないけどな」
「……もう、ない?」
「ああ」
男性は久志の肩越しに、店の斜向かいにある空き地を指して、
「あそこに建ってたんだ。もう2〜3年前に取り壊されたけどな」
その店に場所を尋ねに行ったのは、実に僥倖だった。
店員の男性のつてで、当時のアパートの大家のことが判った。夕方その大家を尋ねると、応対した女性は当時の店子のことをよく覚えていた。大家が店子の顔を見知るくらい、小さなアパートだったらしい。
「摩耶さんのご両親のことは、元から良く知ってたのよ」
当時の店子の一人を訪ねて来たことを正直に話すと、大家の妻だというふくよかで大らかそうなその中年の女性は、わざわざ二人を茶の間に上げて応対してくれた。
「摩耶さんの家はね、近くで雑貨屋を営んでいたんやわ。摩耶さんが大きくなる頃には、もう店はたたんでたんやけどね」
お喋り好きそうなその女性は、小一時間近く二人に話し続けた。摩耶が美大に進むために東京へ行ったこと。彼女がそのまま東京で結婚し、両親は二人ぼっちで雑貨屋だった家に住み続けていたこと。役に立ちそうな話もあったけれど、大半は萌子たちにとってどうでも良い話だった。
「離婚して大阪に戻って来て、親御さんと一緒に住むのは、やっぱ気が引けたんかね。摩耶さん、アパートで一人暮らしを始めたんよ。ウチとは顔見知りやったから、あのアパートを借りてもらってね」
「で、今はどこに?」
気負った口調の久志をいなすように、彼女は静かに首を振って、
「判らないわ。ご両親から継いだ土地を処分して、そのお金でどこかに引越したんやと思うんやけど」
「え?」
「亡くなったのよ、彼女のご両親。5年くらい前に。だから、きっと大阪にいるのが辛かったんじゃないかしら」
その家を去るほんの間際に、久志は父親の写真を見せた。
「……見たことない顔やわ」
何故か悲しげな顔をして、彼女は首を横に振った。
「基本的にあのアパートは単身向けで、原則として同居は認めてなかったからねぇ」
大家の家を発つ頃には、辺りはもうすっかり暮れていた。ネオンが煌びやかさを増す、木枯らしが吹き抜ける道を、二人は肩をすぼめて駅へと急いだ。
時折街灯に浮かび上がる久志の横顔には、苦渋の色が滲んでいた。半日歩き回り、やっと辿り着いた答えに、すっかり疲れ切っている様子だった。
萌子も疲れ切っていた。でも、久志と違って心の奥底でホッとしていたのも事実だった。
ずっと透明なガラスに封印して来た思い。父と会えれば、自分の中でどこか欠けている部分が埋まるなんて、何で考えたのだろう。
今はもう、そんな願いは過去のものだった。どんな事実も、萌子の胸に開いた穴を埋めることなど出来はしない。
無知で無邪気だったあの頃が、ふと愛おしく思えた。