第一章 雨上がりの街で(3)
「あれ」
店を出たところで、萌子はふと気付いて空を見上げた。
「雨、止んでる」
いつの間にか、雨はすっかり上がっていた。時間を巻き戻したように、辺りはほんのりと明るさを取り戻している。
「あ、よかった」
萌子と並んで嬉しそうに空を見上げる『絵描きさん』を、彼女は不思議な気持ちで眺めた。
雨上がりのせいか、商店街は異様なほど閑散としていた。ひんやりとした空気の中を、二人は並んで歩き出した。
「それにしても驚いたなぁ」
困ったような照れ笑いを浮かべて、彼は大げさに肩をすくめて見せた。そういう仕草が、全然板についていない。
「君が僕の未来の教え子だったなんてね」
「びっくりしたのは私の方ですよ」
萌子も自然と笑顔になってそう言い返した。
萌子が通う福山女子高校では、今まで美術を教えていた女教師が産休を取ることになっていた。確か明日、離任式があるはずだ。
問題はその後釜となる臨時講師だった。
それが大学を出たての若い男だと聞き込んで来たのは、確かその手の話に異常なほど執念を燃やす今野晴美だった。
「そりゃ確かにウチの学校には、じじいとヒステリックばばあしかいないけどさ」
未確認情報のうわさ話で無邪気に盛り上がるクラスメイトを、幼馴染みの薫は半ば馬鹿にしたようにそう評した。
「だからってみんなそんなに飢えた目をすることないじゃないの。どうせそういう期待をする時に限って、乳離れ出来てない軟弱なマザコンか、お笑い芸人みたいな顔っていう落ちがつくもんよ」
「しょうがないでしょ。みんな薫みたいに、いつでもとっかえひっかえって訳にはいかないんだから」
いつになく辛辣な親友の口調を萌子が窘めると、薫はぷぅっと頬を膨らまして、
「あたしだって、別にいつでもとっかえひっかえって訳じゃないわよ」
萌子も、他のクラスメイトみたいに興味津々というほどではなかったけれど、それでも薫みたいにあからさまに彼女たちを馬鹿にしていた訳ではなく、一応は楽しみにしていた。
なにしろ福女には、『若い』という形容詞を使用しても許される男性教師は皆無だったのだから。
「ええと。澤崎さんは2年生だったよね」
ためらいを含んだ口調で、彼は萌子にそう問い掛けた。
「ええ」
「そっか。僕は主に2年生を教えることになっているんだ。じゃあ授業でも一緒だね」
「そうなんですか」
そうなんだ。萌子は素直な気持ちでそう自分に問い返した。ふわっとした喜びが胸の中に広がる。彼女の中で、何だかとても楽しくなるような予感が芽生えた。
まだドキドキしている。まるで、その早い脈拍のままで心臓が落ち着いてしまったみたいだった。
「僕はね、教員の免許は持ってるけどちゃんと教壇に立ったことはないんだ。けど」
彼はちらりと萌子を見やって微笑むと、
「こんな所で自分の生徒と出会えるなんて思わなかった。君のいるクラスの時は、きっと心強いね。よろしく」
そう言って右手を差し出した。
それは邪心のない笑顔に思えた。気障なお世辞でも、生徒の気を引こうとするおべんちゃらでもなく、きっと本心からそう言っているのだろうと思わせる、どこか子供じみて見えるほど無邪気な笑顔だった。萌子は少しためらってから、右手を差し出して彼の手を握り返した。
(薫が見たら何て言うかなぁ。成長し損なったガキ、とでも言うかしら)
クラスのみんなが興味を持っていた人物に一足先に出会うことが出来て、萌子は何だかとても得したような気分になっていた。
二人は人気のない商店街を素通りすると、車通りの激しい国道2号線沿いの歩道に出た。
雨上がりの道を、何かに急かされるように車が二人を追い越して行く。そのたびに、路肩に細かい水飛沫が上がった。
「僕は、尾道に来るのがとても楽しみだったんです」
騒音に負けないように『絵描きさん』は声のトーンを上げてそう言った。
「絵の題材にするんですか?」
彼が後生大事に抱える薄汚れた例のバッグに視線を送りながら、萌子はそう問い返す。その物々しい画材は、ただ美術を教えるためだけの物とはとても思えなかった。
「ああ、これですか」
萌子の視線に気付いて、『絵描きさん』は気恥ずかしそうに弱々しい笑みを浮かべた。
「こんな仰々しい道具を抱えて、さぞかしたいそうな絵を描くと思ってるでしょ」
そうやって照れている姿は、何だかやたらと初々しくてやっぱり教師には見えない。
「ホントは大学でもずっと描いて来て、卒業してからも結構有名な先生に付いて勉強していたんだけど、半年経ってもちっともモノにならなくてね。そういつまでもぶらぶらしている訳にいかなくなって、それでコネで福山の高校の臨時教師を紹介してもらったという訳なんです。つまり」
話の内容の割に彼はちっとも落ち込んだ様子を見せずに、むしろ茶目っ気たっぷりに片目をつぶって、
「画家の落ちこぼれ、と言うか成り損ない、という訳」
「でも」
後ろから追い越して行く車の巻き上げる風に、軽くスカートを押さえながら萌子は、
「絵を仕事にするって、そう簡単にいかないものでしょ?」
「? まあそうだけど……」
萌子の訳知り顔に、『絵描きさん』はちらっと不審げな表情を浮かべる。萌子はためらいがちに、
「あ、あの、私も美術部なんです」
「へえ、そうなんだ」
彼はちょっぴり嬉しそうに、
「じゃあ、僕の後輩だ」
と、屈託のない笑顔を見せた。
「君も、将来はそっちの方へ?」
「いえ。そうじゃなくて……」
母の職業を名乗る時、萌子はいつもちょっとだけ恥ずかしいような、それでいて誇らしいような、二律背反な気持ちになる。
「うちの母も、イラストレーターをやってるから……」
「へえ」
萌子の台詞に彼は想像以上に驚いた様子で、
「凄いなあ」
「あ、でも大したことないんです」
彼のそんな反応に萌子は余計慌てた様子で、
「タウン雑誌の小さな仕事をいくつかこなしているだけですから」
本当は、彼女が母の仕事を『大したことない』などと思ったことは、今までただの一度もなかった。
確かに、今萌子たちが暮らしている西土堂の家は祖父から譲り受けた物だし、萌子の学費も中小企業とはいえ社長だった祖父が遺してくれたお金を充てていたから、よその母子家庭よりもずいぶんと楽な暮らしをしているのかもしれない。
それでも二人の日々の暮らしを支えているのが、玲子のイラストレーターとしての腕であることは紛れもない事実だった。
そうやってこれまで自分を育ててくれた母に萌子はとても感謝していたし、それに一人のイラストレーターとしても深く尊敬していた。
自分が将来母と同じ道を進むかどうかは、今の萌子には判らない。けれども、同じ絵を志す身としてただ純粋に、母の描く優しいタッチのイラストが彼女は大好きだった。
「そんなことないよ」
萌子の台詞に少し反発するように、強く思いを込めるような口調で立花はそう首を横に振った。
「人に認められるものを創り出すことに、仕事の大小なんか関係ない。この世にたった一人でも、自分の創り出したものを認めてくれる人がいるとしたら、それだけで凄いことだと思うよ」
萌子に言い聞かせているようでいて、その視線は萌子の存在を捕らえてはいなかった。遙か遠くを見つめるように目を細めて、彼はそう言葉を繋いだ。
「僕が尾道に来てみたかったのは、昔父が少しのあいだこの街に住んでいたからなんだ」
「お父さんが、ですか?」
夕闇に沈んでいく『絵描きさん』の横顔に、一瞬物憂げな影がよぎるのを萌子は見逃さなかった。その瞬間、彼女の脳裏を夕暮れの線路の向こうに去る父の後ろ姿がかすめた。
「僕が生まれる直後のことでね。だから小学校に上がって少しするまで、僕は親父の顔を知らなかったんだ」
「そうなんですか……」
萌子は少し驚いていた。小学校に上がる前までの父の記憶しかない自分と、小学校に上がった後からの父親の記憶しかない彼。二人がこうして肩を並べて歩いていることが、萌子にはとても不思議な偶然のような気がした。
(けど、ウチみたいにお父さんがいなくなっちゃった訳じゃないし……)
「単身赴任、ですか」
「まあ家族が一緒じゃないから、単身赴任みたいなもんだけど……」
彼はそう薄く笑みを浮かべた。言葉の軽々しさとは逆に、その表情はこれ以上触れられたくないという拒絶が漂っている。萌子はそれ以上詮索することをためらって、思わず口をつぐんだ。
二人の間に、しばし沈黙が訪れた。
萌子たちはやがて、線路の下をくぐるように設けられた小さなトンネルの前に立った。
人一人やっとすれ違えるような小さな坑道で、入り口の脇に『天寧寺・宝土寺』と書かれた、尾道の町中でよく見られる薄茶色の石の案内柱が立っている。
萌子は黙ってそのトンネルをくぐり抜けた。『絵描きさん』がその後に続く。
トンネルの向こうには細い石段が待っていた。辺りはもう半分闇に包まれていて、街灯の白い明かりが徐々に目立ち始める、そんな時刻になっている。
萌子は立花を従えてその坂道を登った。闇に沈み込んでしまいそうな路地を曲がった、尾道市文学公園のほど近くに、石畳に明かりがこぼれる一画があった。
それが、三田村不動産だった。
三田村不動産は、向かい合った狭い路地に似つかわしい小さな構えの店だった。入ってすぐにあるカウンターの向こうには、いつも三田村と事務のおばさんの姿しかない。
狭い入り口から萌子が顔を出すと、三田村は人の良さそうな笑顔を浮かべたが、後から入って来た立花の姿を見て不審そうに萌子と彼の顔を見比べた。
「おじさん。お客さん連れて来たよ」
「あの、東京の松崎の紹介で来た者なんですけど……」
「松崎さん? ああ、じゃあ貴方が立花さんかい? こりゃ奇遇だねぇ」
萌子と立花の組み合わせに、三田村は心底驚いた様子で目を見開いた。
「ま、そっちにおかけなさい」
それから三田村は何だか嬉しそうに、二人に入り口の脇のソファーに座るよう勧めた。
二人がそこで待っていると、ちょっと小太りな事務のおばさんがお茶を運んで来る。
「どうぞ」
相手を和ませる落ち着いた笑顔だった。見知らぬ場所で少し緊張気味だった『絵描きさん』の表情が、その一言で和らいだ。
「いやあ、それにしてもびっくりしたなあ」
両手に山ほど書類を抱えて、ほどなく三田村が二人の前に姿を現した。
「今日の夕方に来るって訊いてたから、準備はしてたんですけどね」
何が嬉しいのか、三田村はにこにこしながら二人を交互に見やった。
「萌ちゃん、どこで立花さんと会ったんだい?」
「えっとね、『ひこうき雲』で。ここまでの道を教えて欲しいって言われたから、ついでにここまで道案内して来たの」
「そう。それはご苦労だったね」
萌子のことを小さい頃から知っている三田村は、小学生のお使いを褒めるような口調で彼女の労をねぎらった。それからとっておきの話でもするような口調で、
「萌ちゃん。この人ね、今度君の学校に赴任する先生なんだよ」
「うん、聴いた。みんな若い先生が来るって期待してたもん」
萌子のこの台詞に、立花は急に真っ赤になって慌てて湯飲みに手を伸ばした。
「萌ちゃん、先生を苛めちゃ駄目だよ。ほら、困ってるじゃないか」
立花の教師らしくない反応が可笑しかったのか、三田村は苦笑いを浮かべながら萌子をたしなめた。
「いや、そんな期待に添えるかどうか……」
立花が生真面目にそう答える。
「ハハッ。先生、最近の女子高生は手強いですからな。舐められんよう気をつけないと」
三田村はそう笑ってから急に目を細めて、
「先生にあの部屋に住んでもらうのも、何かの縁ですかな」
「あの部屋って?」
萌子がそう小首を傾げると、三田村はあれっと言うような表情で、
「萌ちゃんには断っておいたはずだよ。君たちのあの部屋を貸すって」
「ああ、そう言えばそうだったっけ」
そう言えば先月、三田村から電話でそんなことを言われたような気がする。しばらくあの部屋を使わなくなっていたから、あまり文句の言える立場ではないのだが、それでもその時はちょっぴり寂しいような理不尽さを感じたことを、萌子は思い出した。
「あの、何かあるんですか。僕が借りることに」
「あ、いやそんなことはないんです。ただ先生に住んでもらう部屋っていうのが、小さい頃にこの子がずっと遊び場に使っていたもんでね」
浄土寺の境内の脇道を上がった所に、そのアパートは崖にへばり付くように建っている。正面の道路と繋がっているのは二階部分で、一階は崖の中腹に沿うようになっている、坂の街らしくちょっと変わった造りのアパートだった。
大抵の住人が便利な二階部分への入居を望み、なおかつ駅からちょっと離れた立地条件もあって、そのアパートの一階の三部屋が全て埋まることは今までなかった。特に真ん中の102号室は、萌子が小さい頃からずっと空き部屋になっていた。
きっかけは、萌子がこの店に遊びに来た時にその部屋の鍵の在処を知って、それをこっそり持ち出して薫と遊んだことで、その時は二人ともこっぴどく叱られたのだが、その内にその部屋は二人の公認の遊び場になった。
まだ子供の二人のために、三田村は危険なガス栓は開けずに水道だけは通るようにした。小学校の時は放課後すぐに、中学に入ってそれぞれ弓道部と美術部に通うようになっても、お互いの部活の後で二人は毎日のようにその部屋で落ち合った。
二人の持ち込んだ遊び道具以外は何もない部屋で、二人は買い込んで来たお菓子や飲み物を囲んでいつまでもお喋りをした。毎日、尾道の街に夕日が沈むまで。
三田村がわざとその物件を客に紹介するのを手控えていたことや、玲子や薫の親たちが三田村に部屋の使用料をいくらか払っていたのを知ったのは、萌子たちが中学三年になってからのことだった。
「先生から、尾道が一望出来る部屋って言われてな。すぐにあの部屋を思いついたんや。福山の高校に通うようになってから、二人ともあんまりあの部屋に寄りつかなくなったし、もうそろそろええかなって思うてな」
確かに地元の中学に通うのと福山まで通学しているのでは、ずいぶんと帰宅時間が違う。それに薫はすっかり弓道部に入れ揚げていたし、萌子は萌子で『ひこうき雲』という、もう一つの隠れ家を見つけてしまっていた。
「何か悪いことをしたみたいですね」
立花がすまなそうに表情を曇らせたのを見て、萌子は慌てた。
「いえ、そんなことないですよ。もう私たちはほとんど使っていなかったんだし……」
それに……。
そう言いさして、萌子は次の台詞を飲み込んだ。
あなたのような人に入ってもらえるなら。そんなの、今日会ったばかりの人に告げる台詞ではない。
中途半端な会話で気まずい間が出来た。それを振り払うように三田村は、
「さあ、それじゃ萌ちゃんたちのとっておきの景色に、先生を案内しようじゃないか」
そう言って萌子の肩をポン、と叩いた。
「おかえり」
萌子が玄関で靴を脱いでいると、奧からエプロンを掛けた玲子が歩いて来た。
「あれ、もう『宿題』は終わったの?」
萌子がからかうようにそう訊くと、玲子は澄まし顔で、
「ええ。あなたのお仕事と違ってね」
とやり返した。
母は自分の仕事のほとんどを自宅で行っている。だから追い込みの時は、家事に手を出すことはまずない。それは全て萌子の役割となるのが暗黙の了解となっていた。
「遅かったじゃない。また千絵の所に入り浸ってたの?」
「ううん、違うの。『ひこうき雲』に来たお客さんがね、三田村のおじさんの所のお客さんだったの。だからね、三田村不動産まで道案内してあげたの」
「ふ〜ん」
「その人ね、今度福女に臨時講師で来るみたいなの」
「あら、それは奇遇ね」
玲子はそうちょっと驚いた顔をした後で、
「早く着替えてらっしゃい。もうすぐご飯出来るわよ」
そう告げて萌子に背を向けかけたが、突然思いついたように振り向いた。
「ねえ、萌ちゃん?」
「ん? 何?」
「あんた、今日何か良いことあったの?」
「え?」
いきなり心の中を見透かされたようで、萌子は訳もなく狼狽えた。
「何で?」
「いや、何かいつもより頬の辺りが緩んでるような気がしたから……。あなたもお肌の曲がり角かしら」
「失礼ね! そっちこそ老眼じゃないの?」
萌子はそう笑って玲子を睨むと、玄関のすぐ脇にある階段をどたばたと登った。
そして自分の部屋に入ると、まるで体を鞄と一緒に放り出すようにベッドに寝転がった。
(立花……立花、何て言うんだろう、あの先生)
ぼんやりと天井を見ながら、萌子はそんなこと思った。