第九章 2つのベクトル(1)
窓の外で、微かに風が囁いた。
喫茶店『ノエル』の店内には、いつもと変わらぬ落ち着いた雰囲気が漂っている。あの日と同じ窓辺の席に座り、萌子は少し見上げるような形で街の風景を眺めていた。
風のない、穏やかな冬晴れの日だった。このところ、またこんな瀬戸内らしい冬の日が続いている。
あの日、絨毯のように艶やかな色をつけていた木々は、もうすっかり葉を落とし裸木となっていた。けれどもそこに寂しさはなく、冬の青空を背に立つ姿は凛々しくさえある。
冬には冬の、美しい光景がある。その場にいなければ、感じることの出来ない美しさが。
「ごめん、待った?」
そう声を掛けられるまで、萌子は久志が店に入って来たことにちっとも気づかなかった。ビクッとして顔を上げると、弱々しい久志の笑い顔がそこにあった。
「ううん。そうでもない……」
一瞬視線を合わせた後で、萌子は思わず目を逸らす。
(なんで、あんなことしちゃったんだろ)
バレンタインの日、正気に戻った萌子は突き飛ばすように久志から離れた。何も言えずに、頬を紅潮させて、発作的に美術準備室を飛び出した。
二人きりで逢うのは、それ以来だった。
この4日間、萌子は久志の顔をまともに見られなかった。授業中でも部活動中でも、出来る限り久志の目を見ないようにしていた。『ちゃんと妹になる』と言っておきながら、やっぱり萌子は意気地なしだった。
『明日の午後、逢えないか?』
久志がそんなメールを送って来たのは、金曜の夜のことである。兄妹だと知ってから、久志からのメールは減っていた。それは彼からの、1週間ぶりのメールだった。
萌子と対面の席に腰を下ろしながら、久志はきょろきょろと店内を見回した。
この店には、福女の生徒もよく訪れる。確かに『密会』には少し相応しくない場所だ。
この店を指定したのは、萌子の方だった。人に見られる危険性を知った上で、彼女はあえてここを選んだ。
彼女は少し意地になっていたのだ。本当の兄妹なら、別に逢っていても不思議じゃないじゃないか、と。
二人が兄妹であることを知られる方がよっぽどマズイことは、もちろん良く判っているつもりだった。
店内に福女の制服姿は見当たらない。少し安堵した様子でメニュー表を手にした久志は、
「おすすめは、何?」
「え?」
ずいぶんと軽やかな口調だった。重苦しい気分にどっぷりと浸かっていた萌子は、戸惑ったように久志を見やる。
何故だろう。今日の久志は、何だかやけに清々しく見えた。何かを吹っ切ったような、さっぱりとした表情をしている。
(何を、吹っ切ったんだろ)
兄と妹である、ということだろうか。
久志が彼らしい表情を取り戻すごとに、萌子は久志との距離がどんどん離れていくような気がしていた。
「萌ちゃんはさ」
お腹が空いたと言う久志に萌子が付き合う形で、二人は萌子お勧めのベーグルサンドセットを注文した。ベーグルを頬張りながら萌子が久志を見ると、
「父さんの顔、覚えてる?」
萌子は思わず、頬張ったベーグルをそのまま飲み込みそうになった。何も言えないまま、びっくりした目でしばらく久志の顔を見つめていた彼女は、やがて口の中のものを咀嚼しながら力なく首を横に振った。
「……小さい頃だったから、あんまりよく覚えていないの」
「そっか……」
そう小さく頷いた久志は、しばらくじっと考え込む仕草を見せてから、
「父さんの写真、見てみたい?」
「え?」
食べかけのベーグルを口に運ぶのも忘れて、萌子は目を見開いたまま久志を見つめた。
一瞬、何を言っているのか判らなかった。久志が自分の父親の写真を持っていても何の不思議もないことに、しばらくのあいだ気づかなかった。
「家から持って来たんだ。一番最近の、といっても僕が中学の時のだから、もう10年位前の写真だけど」
父の行方。何度知りたいと願っただろう。幸せな日々の暮らしの中で、それでも萌子の胸の中で消えることのなかった小さなしこり。
ずっと知りたいと思っていたはずなのだ。逢えないのなら、せめてその顔だけでも見てみたい、と。それなのに、萌子は首を縦に振ることがどうしても出来なかった。
イエスともノーとも言えず、ただ自分を凝視する少女を、久志は少し辛そうな目で見つめていた。そしてその視線を逸らさぬまま、もう一度こう尋ねた。
「父さんに、逢ってみたい?」
衝撃は、しばらく間を置いてからやって来た。
(え?)
何を言ってるんだろう。戸惑いは、やがて驚愕に変わる。
(何か知ってるの? お父さんのことを……)
戸惑いと驚きと、疑念をない交ぜにした瞳で見つめる萌子に向かって、久志はしっかりと頷いた。
「父さんのこと、一緒に探しに行かないか?」
その瞬間、萌子は踏切の向こうに見た、寂しげでまっすぐな父の瞳を思い出した。
新幹線の車窓からの風景は、あっという間に通り過ぎていく。しかもトンネルが多いから、どこまでいっても細切れの風景でしかない。
放送時間を終えた深夜のテレビ画面のように真っ暗になった車窓から目を離して姿勢を戻すと、久志が可笑しそうに見ている。
「なに?」
「いや、初めて新幹線に乗った子供みたいだなって」
「……もうっ」
久志の的を射た指摘に、萌子は顔を赤らめながら頬を膨らませてみせた。
新幹線に乗るのはいつ以来だろう。久志が赴任して来る直前に行った修学旅行は、広島空港までバスで行って、それから九州まで飛行機で往復した。中学生の時は広島まで新幹線に乗ったけど、それは下り列車である。
上りの新幹線に乗るのは、結局小学生の頃に行った京都旅行以来だということに、萌子は気づいた。
母子家庭のせいか、萌子はあまり家族旅行をした覚えがなかった。その時は、祖母と三人で京都巡りをした。他に母や祖母と旅行をした記憶は1度か2度しかない。
彼女が大阪を訪れるのは、無論初めてのことだった。
『大阪に、父さんのことを知っている人がいるんだ』
『ノエル』の店内で、久志はそう言ったきりしばらく黙り込んでしまった。彼が何を逡巡しているのか判らなくて、萌子も合わせるように黙り込んだ。
どれくらい沈黙が続いただろう。久志は漏らすようにポツリとこう呟いた。
『父さんには、浮気相手がいたんだ』
久志の台詞は萌子を混乱させ、彼女はつい勘違いを引き起こした。
(母さんは浮気相手なんかじゃない)
確かに母は妻のいる人を愛したのかもしれない。けれどもそれは戸籍上の話だけで、父も母もただ純粋に互いを愛していたはずじゃないのか。勘違いしたまま、萌子は久志の台詞に反発した。
『……あたし、不倫の子なんかじゃないもん』
萌子の突っ張った口調に、久志はしばらく不可思議な顔をしてから突然吹き出して、
『君のお母さんのことじゃないよ』
『……え?』
萌子たちが今から会いに行くのは、その浮気相手だった。
久志が和雄に訊いて来た話によると、彼が芳久を見つけたのは知り合いの女性の家の玄関先でのことだったらしい。その女性は芳久や和雄が通ったアトリエの生徒の一人だった。大阪に引っ越した彼女を出張ついでに訪ねようとした和雄は、彼女の家から出て来た芳久と偶然に出くわした。
『その女性と父さんは、昔つき合っていたんだ』
そう告げる久志の口調は、苦々しかった。
彼女と芳久は、芳久が結婚する前に交際していたのだという。アトリエ仲間には秘密にしたまま。
彼女は既婚者だった。やがて道ならぬ恋に終止符を打ち芳久が結婚した後で、彼女は離婚して郷里の大阪に戻っていた。
以前の二人の関係を秘密裏に聞かされていた和雄は、失踪したはずの芳久が彼女の家から出て来たのを見て激しく詰め寄った。失踪騒ぎまで起こして昔の交際相手とよりを戻した。当然そう考えたのだ。
事故に遭って記憶を失い、恩人に助けられて尾道に住んでいる。芳久の言い訳はどうやら本当らしいと納得した和雄だったが、彼女とのことは疑いを解くことが出来なかった。記憶を取り戻しても東京に帰れないのは、彼女のせいではないか、と。
『そこで、僕の存在を話したらしいんだ』
芳久にとって、息子のことは青天の霹靂だったらしい。言葉を失う彼に向かって和雄はこう言ったのだという。
今戻って来れば、大阪でのことは誰にも話しません、と。
『和雄おじさんは帰京を強要しなかった。そして1週間もしない内に、父さんは東京に戻って来た』
芳久が再び失踪した時、和雄は思い余って芳久の妻の詩織に告げようとしたのだという。
『私には心当たりがありますって。でも、母さんはその話を聞こうとしなかったんだって』
もう十分です。詩織はそう言ったのだという。そう言われてしまえばそれ以上詮索する訳にもいかず、結局和雄は大阪へ探りを入れるのをやめてしまった。
『父さんがそこにいるかどうかは判らない。けどその女性に会えば、きっと判ることがあると思うんだ』
久志は何故、その女性に会いたいのだろう。
萌子には、父に逢える確率はそう高くないように思えた。確かに手がかりの1つかもしれないが、そこに父の行方の全てが詰まっているかのような期待感を、萌子は抱くことが出来なかった。
それに、父に逢って確かめられることなどもう何もないような気もしていた。
萌子が人知れず胸に抱えていた想い。その情熱は、哀しい事実を前にしてもう何の意味もなさなくなっている。
新幹線が再びトンネルの中に入る。萌子は視線を上げて久志を見た。その視線に気づいた久志が、弱く萌子を見返す。
それでも、二人は緊張していた。確かに低い確率だけれども、もしかしたら父に逢えるのかもしれないのだ。
久志にとっては7年ぶりの、萌子にとっては記憶の欠片との再会。二人に、確信と哀しみを分け与える父に。
福山―新大阪間、1時間16分。その行程は、長いようで短かった。