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第八章 風花(3)

 「萌子は、先生にチョコとかあげるん?」

 晴美にさり気なくそう訊ねられた瞬間、萌子は心臓が裏返りそうになった。

 2月13日、月曜日。街は、また華やかな雰囲気を取り戻していた。クリスマス・イブ、三が日、そしてセント・バレンタイン。年を追うごとに、冬が華やかな季節になっていくように思う。イルミネーションなんて、萌子が子供の頃は年末にしか灯っていなかったのに、今は冬の間中、街を鮮やかに彩っている。

 デパートの入り口はまるで縁日だった。淡いピンク色にコーディネートされたフロアには、さまざまなワゴンやショーウィンドウに囲まれた洋菓子店が顔を並べる。そこに、チョコレートに群がる蟻のように『女の子』が密集していた。圧倒的に現役の『女の子』が多いけれど、どちらかといえば少数派のOGの方が威勢良い。

 「全く、みんなどこに投資しようっていうのかしらね」

 呆れ返ったように呟く薫には、チョコを選ぼうという気はさらさらないみたいだった。

 「……顧問が男の先生のとこは、みんなでチョコあげたりしてるみたいよ」

 「そう、なんだ……」

 美術部は去年まで女性教師が顧問だったから、そういう風習はさっぱりなかった。たぶん美術部の女子部員は、誰もそんなことを思いつきもしないのではないかと萌子は思った。

 (『先生』になら、あげてもいいんだ)

 萌子は心の中で、自嘲気味な笑みを浮かべる。心をかすめる、苦い想い。

 結局、手作りは諦めてしまった。今、そうやって心を込めても久志はきっと戸惑うばかりだろう。そんな風に彼の心の重荷にはなりたくなかった。

 (でもね、今さら何もないっていうのも……)

 「こんなにみんな売り場に群がってるけど、8割方はきっと『義理』なのよね」

 薫が小馬鹿にしたようにそう鼻を鳴らす。

 「この中で、ホントに好きな人にあげる娘なんて、どれくらいいるのかね」

 「あら」

 この中でただ一人、すでに『本命』チョコを買い込んでいる恭子が、手にした小さな手提げの紙袋をゆさゆささせながら、

 「好きな人がいたって、つき合っちゃえばバレンタインなんて半分義理みたいなもんよ」

 「醒めてるわねぇ」

 と薫が思わず苦笑しながら、

 「どおりで、選ぶのがえらく早い訳だ」

 「そんなこと言ってるあんたらこそ、ここに用事はあるの?」

 買い物につき合って、と言い出したのは恭子の方だ。それなのに、彼女はそんな身勝手な言い草をして仲間の顔を見渡した。

 「あたしはね、お兄ちゃんにあげるの」

 晴美の何気ない台詞に、萌子の心臓はまたピクリと跳ね上がる。

 「そういや晴美は、毎年律儀にチョコあげてるわねぇ」

 「だってねぇ、可哀想じゃない? きっとウチの兄貴が貰えるチョコ、この1個だけよ」

 「……あんたの兄貴、そんなにブサイクだっけ?」

 初めから兄だと判っていれば。

 こんな風に笑いながらチョコを選ぶ自分を、萌子はそっと思い描いてみた。

 「……お兄さんがいるってさ」

 「え?」

 「どういう気分なのかな」

 萌子の突発的な台詞に、それぞれ兄を持つ晴美と恭子は思わず首を傾げた。その向こうで、薫が萌子に向かって冷ややかな視線を投げる。

 「どうって……」

 「うざったいだけよ、兄妹なんて」

 恭子はちょっとうんざりした声を出して、

 「バレンタインだってね、チョコ寄越せチョコ寄越せって。『友達と数競ってるから』何て言っててさ。『お前にはプライドないんかいっ!』って怒鳴りつけちゃった」

 「そっかなぁ」

 冷徹な恭子とは対照的に、晴美は小さく首を傾げて、

 「あたしはそんなにお兄ちゃん嫌いじゃないなぁ。たまに遊びにも行くし」

 「あんたはブラコンだからね。だからちっとも彼氏が出来ないのよ」

 「んなことないわよ。失礼しちゃうわね」

 晴美はそういってプクッと頬を膨らませた。そんな風にすると、元からの丸顔がますます丸く見える。

 「そんなこと言って、お兄ちゃんに彼女が出来たら『キーッ』となるんだから」

 恭子はそう晴美のことをからかった。

 (彼女が出来たら……)

 突然、不整脈みたいに脈拍が乱れ飛んだ。心臓がバクバク言っている。

 あれから何度も、頭の中で未来を描いた。けれども萌子はその絵の中に、久志のそばに立つ自分の姿を描くことは出来なかった。

 今はいい。ただ、隣に立てなくなるだけだから。

 でも……。

 (その隣に、違う誰かが立ってしまったら……)

 胸が、切り刻まれるように痛んだ。

 萌子は、ワゴンに山積みになったチョコレートの箱を一つ、手に取った。

 「なに? 萌子も誰にあげるの?」

 「うちの親父に、よね?」

 萌子の代わりに薫がそう答えて、ニシシッと笑う。

 「何で萌ちゃんが、薫のお父さんにチョコあげなきゃいけないのよ」

 「だって、あたしがあげたら柄でもないでしょ。萌子はね、毎年寂しいパパのために代役を果たしてくれてるの。ね?」

 すまし顔で薫がそう言い放つと、萌子は微かな笑顔を返して見せた。

 『柄でもない』

 薫はそう言って、きっと龍太にもチョコを贈ったりしないのだろう。強がりかもしれないけれど、今の萌子には彼女の姿がやけに清々しく見えた。



 久志の動く気配は、すぐに判った。

 キャンバスに向かっていても、萌子の指はほとんど動いていなかった。感知網を張り巡らすように、五感をフル活用して久志の仕草を探っていたのだ。萌子のサーチシステムに久志が引っ掛かったのは、部活動が始まって小一時間経った頃だった。

 久志の後を追うようにして教室を出た萌子は、すぐ隣の美術準備室の扉に手を掛けている久志を見つけて、一瞬躊躇した。

 「……先生」

 『バレンタイン』なんて言っても、女子高じゃあんまりそわそわした雰囲気にはならない。それは毎年のことだった。やっぱり贈る相手が実在しないと、興味も半減してしまうらしい。

 女子高ならば男性教師みんながもてそうに思えるけど、今の福女の中でその対象となるのは、せいぜい久志くらいである。

 だから萌子は、久志のそばがもっと騒がしくなるのかと思っていたのだけれど、今日1日彼の周りは案外静かだった。

 部活が始まってすぐに、秋月はづきがいそいそと久志に紙袋を差し出して、その場にいた部員全員がどん引きしたりはしたけれど。

 「どうした?」

 タイミング良く顔を出した萌子に、久志は一瞬怪訝そうな顔をした。

 「あの、話が……」

 萌子がそう言うと、久志は少しだけ頬を強張らせた。どうしたのだろう。そう訝しく思ってから、彼女はその表情の硬さの意味に気づいた。

 月曜日に1日だけ休みを取り、連休を使って東京へ向かった久志は、夕べ尾道に戻って来たはずだった。彼が戻って来てから、二人がまともに顔を合わせるのはこれが初めてである。

 別に東京での話なんて聞きたくない。強がり半分に萌子はそう思った。

 里心が付いた、というのとはちょっと違うかもしれない。けれども、このところの久志の言動に、萌子は似たような想いを抱いていた。父親が尾道でどんな暮らしをしていたか。その端緒が明らかになった途端、久志の動きが活発になって来たような気がする。

 『親でないと判らないことだったんだけどね。母にはもう訊くことは出来ないし、父とはきっともう2度と会うことはないから』

 あの日、夕暮れの校舎で久志が言った、

 『気になること』

 それはきっと、尾道での父親の暮らしだったのだ。それを確かめてしまえば、この街にいる理由など本当はもうないのかもしれない。

 またぽつんと宇宙に放り出されてしまったような気がした。今度こそ、一人ぼっちで。

 「こっちに入りな」

 表情を硬くしたまま、久志はそう言って萌子を美術準備室に誘った。

 萌子を部屋の中に入れて扉を閉めた久志は何を思ったのか、わずかにためらってから扉に鍵を掛けた。

 慎重で臆病者の久志にしては珍しい行動だ。萌子は一瞬ビックリしたが、ふと思い直して、

 (でも、他のみんなには知られたくないし、かえって好都合かも)

 男の人と密室に籠るという発想は、彼女の頭には全く浮かばなかった。

 全てを閉ざしてしまうと、準備室の中は不思議なくらい静かになった。隣の部屋ではしゃいでいるはずの、仲間たちの声も聞こえて来ない。

 その静けさが、耳に痛かった。自分の心臓の音がはっきりと聞こえて来るような気がする。

 「週末、東京に行って来た」

 二人してしばらく黙り込んだ後、ぶっきらぼうな口調で久志はポツリとそう言葉を漏らした。

 「ん……」

 萌子は不機嫌そうにそう小さく頷く。

 本当は、何かを問い尋ねて欲しかったのかもしれない。けれども萌子は小さな唸り声を上げたきり、何も言えずに黙り込んでしまった。彼女は問い尋ねる気もなかったし、そもそも何を尋ねてよいのかも判っていなかった。

 まるでなさぬ仲のように、萌子と久志はしばらくのあいだ互いに口をつぐんだまま視線を逸らしていた。

 「和雄おじさんに訊いて来たよ。父さんが尾道で暮らしていたことや、他にもいろいろと……」

 「そう……」

 会話が続かない。互いに思うことが、全く噛み合っていなかった。久志は二人の父のことを、萌子はこれからの二人のことを考えている。

 「そうだ」

 わざとらしい、と自分でも思いながら、萌子は話題を切り替えるようにそう手を叩いた。

 「先生、今日何個もらった?」

 「え?」

 「もう、とぼけちゃって。さっき1個もらってたじゃない」

 その一言で、はづきに言い寄られたシーンを久志はようやく思い出したらしい。彼は苦虫を潰したような表情になって、

 「あぁ。5、6個もらったかな」

 「へぇ、そんなに?」

 「全部、義理だよ」

 「秋月さんのは、義理じゃないんじゃないですか?」

 萌子がそう冷やかすと、久志はますます苦い表情になって、

 「……手渡されたのなんか、あれだけだよ。後は職員室の机の上にポンポン放り出されていたし」

 久志の困惑した表情に萌子はわずかな笑みを浮かべた後、すっと表情を硬くして、

 「……先生からも、もらったの?」

 「1個だけ、な」

 「……黒沢先生から?」

 (何で泣きそうな声になるんだろ)

 自分の声がかすれたことに、萌子は自分で驚いていた。

 そんなこと、気にしている場合じゃない。もう済んだ話じゃないか。そう言い聞かせてみても、不意を突かれた萌子の心の揺れは、簡単には収まらなかった。久志の隣に誰かが立つ未来。そこに誰が立ってもおかしくないのだ。あたし以外、なら。

 萌子の不安を、久志はすぐに察したらしい。少し可笑しそうに微笑むと、

 「それも義理、だよ。男の先生全員に配ってたから」

 「そう、なんだ……」

 萌子は小さく安堵の息を吐くと、照れ臭そうな顔をして、

 「そんなにもらってちゃ、インパクト薄いかしら」

 「?」

 久志がゆっくりと首を傾げる。萌子は、制服のポケットからきらびやかな包みの箱を取り出して、

 「はい」

 「……チョコ?」

 半信半疑な久志に、萌子はちょっとだけ微笑んで、

 「ごめんね。手作りじゃないんだ」

 「そんなこと」

 久志は手渡された包みをしげしげと眺めると、

 「ありがとう。すんげー嬉しい」

 久志の反応は、ちょっとびっくりするくらいだった。心底喜びを噛み締めるように、満面の笑みを萌子に向けて来る。その笑顔が思いがけなく、萌子は戸惑った。

 「……えっと、そんなに驚いた?」

 「うん。大収穫だよ」

 「でも、去年まではもっとたんまり稼いでいたんじゃないの?」

 無理に戯けた仕草で萌子が横目で睨むように見つめると、久志は少し笑って、

 「まさか。去年なんて0勝投手だよ」

 と肩を竦めてみせてから、

 「量も凄いけどね。質も最高」

 「……え?」

 久志は、はにかむように視線を俯かせて、

 「君から、もらえたし」

 その瞬間、萌子は胸を刺す痛みに思わず目を瞑った。

 こんなに苦しいのは、あの時と一緒だ。久志に贈り物をする時は、いつも苦しい想いをしているような気がする。でもあのイブの夕べより、萌子の心は比較的落ち着いていた。落ち着いていて、そしてあの時よりも絶望感に満ち溢れていた。

 これが最後。今日で最後。

 昨日、天満屋の1階で2個目の包みを手にした瞬間、萌子はそう決意したのだ。

 (それなのに……)

 久志の邪気のない笑みを見つめながら、萌子は思っていた。

 もしかしたら、あたしたちは本当に心が通い合っていたのかもしれない。言葉になんてしなくても、あの手の温もりは確かに本当だった。言葉などなくても確かに感じられた、久志からのいたわりや慈しみ。その一つ一つが胸の中を駆け巡る。

 今日で終わるのなら。明日から失くさねばならない記憶ならば。せめて、言葉の欠片でも掴みたい。

 「意外だった?」

 萌子がそう問うと、久志は小さく首を傾げて、

 「え?」

 「わたしからは、もらえないと思ってた?」

 「いや……」

 萌子から視線を逸らして、久志は手短にあった消しゴムを指先で弄びながら、

 「……少しは期待していた、かな」

 その瞬間、萌子の中で何かが音を立てて崩れた。刹那の喜びに浸りながら、萌子は自分の中で張り詰めていたものが崩れ去るのを感じていた。

 その一言で十分だ。やっぱりあたしは幸せだったんだ。

 「妹からチョコを贈るなんて、やっぱヘンなのかな」

 「……え?」

 久志は、聞き慣れない言葉を耳にして少し目を見開いた。

 「来年からは、ちゃんと妹として贈るからね」

 いつしか萌子は涙声になっていた。伏せ目がちに俯いた、彼女の口から漏れるかすれ声を聞いて、久志は慌てたように歩み寄る。

 「せんせい、ごめんね」

 萌子はすっと視線を上げて、久志の顔を見つめた。その頬に、音もなく一筋の涙が流れる。

 「……何が?」

 「わたしね、ずっと先生が好きだった」

 「……」

 「いけないって、判ってるの。でもね……」

 気づかぬ内に萌子は久志の胸に縋りついていた。腕の中でむせび泣く少女に困惑した表情を浮かべながら、久志は遠慮がちに彼女の背中に腕を回した。

 「ごめんね。明日からは、ちゃんと妹になるから」

 涙があふれて、止まらなかった。溜めていた感情を押し出すように、萌子は泣きながら喋り続けた。

 「ごめん。だから今日までは、先生のこと好きでいさせて」


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