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第八章 風花(2)

 寒い日が続く。

 見上げた、真っ青な空に心を奪われながら、萌子はそう思った。

 節分を過ぎても、春とは名のみばかりの日々が続いていた。このところ、雨どころか曇り空さえ訪れていない。山の向こうの雪便りをよそに、ここ数日この辺りは山陽地方独特の穏やかな冬晴れの日ばかりだった。

 穏やか、と言ってもやはり朝の寒さは身に堪える。

 「さむっ」

 相変わらず寒がりな薫が首をすくめるのを横目で見て笑いながら、萌子は自分のマフラーを巻き直した。

 「萌子さぁ」

 「ん?」

 「ピンクのマフラー、するの止めたの?」

 「え?」

 慌てたように小さく傾げた萌子の首には、去年まで使っていたグレーのマフラーが巻きついている。

 元々、萌子はマフラーを巻くのが苦手だった。首元のごわごわした感触が嫌で、毎年寒さが深くなるこの時期にしか着けることはなかった。

 「萌子が珍しくずっとマフラー巻いてるからさ」

 薫は横目で探るような目つきをして、

 「あれ、立花ちゃんからのプレゼントでしょ?」

 「え?」

 いまさらそんな純情ぶっても。そう思う端から、萌子は顔が真っ赤になった。そんな親友の稚拙な反応を、薫は冷ややかに見つめて、

 「あんたら、また何かあった?」

 萌子がそのマフラーを外したのは、久志と福山城に登った次の日からだった。

 けじめをつけるとか、そんな大げさなつもりはなかった。ただこのマフラーは、彼を想う一人の女の子として受け取ったのだと、そう思いたかっただけだった。

 『先生とあたしは、半分だけ血が繋がってるの』

 張り詰めた空気にいたたまれなくなって、萌子がそう追い討ちをかけるように言葉を継いでも、久志はしばらくのあいだ能面のように表情を崩さなかった。

 あの時、あたしは何を期待していたんだろう。

 彼の驚愕した顔? それとも絶望した顔? それとも……。

 じれったいほどの時間を掛けて、久志はやがてゆっくりと表情を動かした。

 苦笑い、だった。

 萌子は思わず目を疑った。驚き過ぎて気がふれたのかと思った。

 『そっか』

 久志が感情のこもらない、抑揚のない声でそう呟いた。久志が何を考えているのか判らなくて、萌子は黙ったまま久志を見つめた。

 『寒くないかい? そろそろ、いこっか』

 そうして久志は、いつもの優しい台詞を取り戻した。それきり、彼の本心を質す機会を萌子は失ってしまった。

 『……出逢わなければ、良かったのかも』

 真っ直ぐな言葉を投げ掛ける勇気がなくて、でもモヤモヤした気持ちに耐えられなくて、萌子はついあまのじゃくな一言を口にしてしまった。その刹那、苦しそうに歪めたその顔つきだけが、萌子が知り得た彼の本心だった。

 あれから1週間。案外何も変わらない日々が続いていた。妹だと告げた瞬間は、全てを失うくらいの覚悟をしていたのに。

 変わったことなんて、萌子の首筋のマフラーくらいだ。

 放課後の部活動も、週末のデートも、当たり前のようにあった。当たり前のように過ぎていく毎日が、呆気なく感じられる。その呆気なさが恐くて、この前の日曜日は薫を誘って三人で映画を見た。

 このまま、二人のあいだには何もなかったことになってしまうのだろうか。

 久志が何を考えているのか、萌子には良く判らなかった。そのことに触れようとしないのは、萌子と同じ臆病者だからなのかもしれない。それにしても、彼の萌子に対する態度は変化がなさ過ぎた。

 萌子がピンクのマフラーを巻かなくなったのを、彼も気づいているはずだった。もしかしたら久志はそれを、妹分に贈るような軽い気持ちで手渡したのだろうか。

 それならば、きっと何も変わらない。最初から、兄と妹ならば。

 イブの夕暮れ、美術室で味わった穏やかな気持ち。亀老山展望台で、萌子の手を握り締めた久志の手の温もり。一つずつ確信に変わり始めていたこの恋の行方が、夏の逃げ水のようにするりと逃げていく。

 「デートにはつき合わされるし、ねぇ」

 「ごめん。迷惑だった?」

 「全然」

 心細げな顔をする親友を覗き込むように、薫は笑顔を浮かべて、

 「どうせ暇人だしね。せっかく無罪放免になった龍太も、全然誘いに乗って来んし」

 「……」

 「ほらほら。冗談なんだから、そんな顔しないの」

 萌子の久志への想いを知っているのは、今のところ千絵と薫だけだった。そして薫だけが、萌子と久志の本当の繋がりを知らない。

 この1週間、薫の前で何度真実が口を突いて出かかっただろう。メールに頼ろうとしたこともある。けれども、結局萌子に送信ボタンを押す勇気はなかった。

 薫なら、話せば判ってくれるだろう。少しは気持ちを楽にしてくれるかもしれない。そんな誘惑が萌子の胸を何度もかすめた。でも、あまりに複雑な身内話を、親友とはいえ赤の他人に話すのはさすがに気が引けた。

 「薫はさ」

 「ん?」

 「お兄ちゃんが欲しいと思ったこと、ある?」

 萌子の突拍子もない質問に、薫は面食らった顔をしながら、

 「……弟とか妹が欲しいと思ったことはあるけどねぇ。お兄ちゃんは、物理的に不可能じゃないの? いまさらママに『生め』って言う訳にもいかないし」

 薫らしい論理的なものの考え方に、萌子は思わず笑ってしまった。

 そう、本当は可笑しな話なのだ。後から兄が出来るなんて。



 「せんせい?」

 萌子がそう声をかけると、久志は突然我に返ったように視線を戻した。

 「どうしたの? ぼんやりして」

 「うん。いや、何でも」

 いつも通り、久志は穏やかな笑みを浮かべてみせる。けど、その笑みを思い出すまでの中途半端な間が、かえってぎこちない印象を萌子に与えた。

 このところ多い。萌子はそう思った。

 最近の久志は、薄ぼんやりとしていることが多かった。授業中でもそうでなくても、物思いに耽っているような表情をしょっちゅう浮かべている。こうやって二人でいる時も、中途半端に会話が途切れることが多かった。

 何も変わらない。そう思ってみても、やはり少しずつ何かが狂って来ているのだ。

 何を考えているのだろう。その心の内が読めない分、萌子の胸の内の不安は増した。言葉にされるのが恐いくせに、何も言ってくれないと心細くなる。

 戸惑っているの?

 諦めようとしてるの?

 それとも……。

 「あの、さ」

 「はい?」

 「僕さ、1度東京に戻ろうと思うんだ」

 久志の口からそう言葉が漏れた瞬間、萌子はつい彼が里心を起こしたのかと勘違いした。

 金曜の夕暮れ。天満屋の2階にある『アフタヌーン ティ』は、程よいざわめきに包まれていた。何か良い出来事を期待するような、温和な表情の人々。誰もが自分たちの空間に夢中で、部活を早めに切り上げ密会する教師と生徒を見咎める素振りもない。

 幻想のような気だるい空間。耳にした言葉は、風のように儚げだった。

 「叔父さんに、会って来ようと思ってるんだ」

 「おじさん?」

 「うん。ホントは父さんの従兄弟だから、おじさんって呼ぶのは可笑しいんだけど……」

 一息吐くように、久志はわざと下手な笑い顔を浮かべてから、

 「おじさん―和雄さんっていうんだけど―和雄さんは、行方不明になっていた親父を捜し出して来た人なんだ」

 「え……」

 弾かれたように萌子は視線を上げた。久志は、萌子の視線に気づいて弱々しく微笑んだ。

 どこを見て笑っているのか判らない、弛緩した笑み。あの千光寺山で見せた、気弱な顔と同じ表情だった。けれどもあの時のように、彼の胸の内を知りそれに共鳴することは、出来なかった。

 「和雄さんはね、僕の先輩でもあり、父さんの後輩でもあるんだ」

 「?」

 「和雄さんは僕の出た大学の先輩なんだ。同じように画家を目指していた時期があってね。親父とは従兄弟同士でもあるけれど、同じアトリエに通っていた同士でもあるんだ」

 「ふ〜ん」

 「大阪の知人のところで、おじさんは父さんの描いた絵を見かけたんだ、本当に偶然。絵のタッチと、右隅に書かれていたサインに気づいてね。そこから、その絵の出所を辿って父さんを見つけ出した」

 淡々とした口調だった。そんな久志の横顔に、萌子は何の感情も見出すことが出来ない。

 「高校生の時、おじさんから直接教えてもらったんだ。父さんをどうやって見つけたのかを。でも、その時にそんな話は一つも出なかった。父さんが尾道でどんな暮らしをしていたか、なんて」

 「……」

 「きっと、違うんだ」

 「え?」

 ハッとするほど、醒めた顔つきだった。久志は、今まで見せたことのない嘲った表情を浮かべて、

 「おじさんや母さんや僕の家族が話してくれたことは、きっと何か違うんだ。何か、大切なことが欠けている……」

 「……」

 そこで、会話が途切れた。

 久志はその鳶色の瞳で、萌子のことをじっと見つめた。萌子は射竦められたように、身動きが取れなくなった。

 こんな哀れむような瞳、見たことがない。今まで覚えたことのないような不安が、彼女の胸を包み込んだ。

 一人ぼっち。

 そんな言葉が、萌子の頭をかすめた。

 二人が共鳴するもの。それは父を失くした記憶のはずだった。何が違って、何が真実なのかは判らない。けれどもその何かを知ることで、久志は記憶を失ったという事実を払拭しようとしている。萌子は、そんな気がしてならなかった。

 (また、置いてきぼりだ)

 一人ぽつんと、宇宙に放り出されたみたいな気持ち。

 知らなければ良かったのかもしれない。久志への想いをはっきりと自覚した時と、同じ気持ちを萌子は抱いた。知らなければ、幸せだったかもしれない。久志との血の繋がりも、久志への想いも、久志の存在そのものも。

 萌子はその見えない『何か』を知った先に、幸せな行く末をどうしても描くことが出来なかった。


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