第七章 2枚の絵(6)
山小屋のような分厚いきつね色のドアを押すと、千絵ご自慢のスイス製のカウ・ベルが、カランカランと小気味良い音を立てた。
「いらっしゃい」
カウンターの向こうから、千絵の朗らかな声が聞こえて来る。
いつもと変わらぬ光景のはずだった。ただ一つ、萌子が今日ここに『呼び出されて』来たのだということを除けば。
千絵が萌子に電話をかけて来たのは、昨夜のことだった。千絵から電話がかかって来るなんて、記憶にないくらい久しぶりのことだった。いや、もしかしたら彼女から萌子宛ての電話なんて、生まれて初めてのことかもしれない。
「明日、ヒマ?」
「うん」
「帰り、うちの店に寄れないかな?」
話したいことがある。千絵の口から出たその言葉に、萌子は全く心当たりがなかった。
「一人で来てね」
そんな隠密めいた台詞と千絵のトーンの低さが、萌子は小骨が喉に引っかかったみたいに1日中気になって仕方がなかった。
『一人で』と言われたら、薫を誘うことも出来ない。放課後、萌子は美術室にちょっとだけ顔を出すと、久志に声を掛けることもせずにそさくさと福女を後にして来た。
「ごめんね、呼び出したりして」
そう謝る千絵の様子は、電話口の声と違って普段と変わりがないように見えた。
(強いて言えば、素直に謝るとこがヘンかしら)
心の中で面白くもない冗談を思い浮かべながら、萌子はカウンターの左から3番目の席に腰を降ろした。それから、周囲を見渡すように顔を上げる。
壁にはまだ、モナの肖像画が掛かっていた。
(やっぱり、気に入らなかったのかしら)
久志がここを訪れてから、もう10日ほど経っていた。あの時素描した絵を、彼は今美術部の時間帯にせっせと仕上げている。
相変わらず巧みな久志の指遣いによって描き出される、彼の作品にしてはいささか凡庸な風景画を、美術部員たちは首を傾げて見守っていた。
「これ、どこの店なんですか?」
そんな―特に秋月はづきあたりの詰問にも、久志は笑って答えようとはしなかった。
バレそうでバレない。そんなぎりぎりの綱渡りを、彼は楽しんでいるんじゃないだろうか。最近の久志の言動を見ていると、時々そんな風に思うことがある。
その絵を依頼した代わりに、千絵が飾ることを約束したはずの絵は、まだ店内のどこにも飾られていなかった。
確かに、久志の絵のように一目見て『プロだ』と感じさせるような出来ではなかったけれど、久志の父の絵も店の中に飾るのに見劣りするようなものではなかったと思う。その迫力ある筆遣いに、萌子は何かしらの感銘を受けたくらいだ。
その絵を見た刹那の、千絵の表情がどうしても思い起こされる。絵を見つめたまま、長いあいだ黙り込んでしまった彼女の、その脳裏に過ぎったものは何だったのだろうか。
「立花先生は、どうしてる?」
一人で来いと言ったくせに、千絵はそんなことを尋ねて来る。
「どうしてるって……今日は美術室に置き去りにして来た」
姪っ子のそんな気が置けない台詞に、千絵は思わず苦笑を浮かべた。
「いつも一緒に帰ってるの?」
「ううん。今は止めてるの。誰が見てるか、判らないし」
「そう……」
微妙な間があった。千絵は少し逡巡した後で、
「萌ちゃんは、あの人とつき合っているの?」
あまりにストレートな問い掛けに、萌子は声も出せずに目を瞬いた。
「もう、いたしちゃった?」
「そんな……」
千絵の明け透けな台詞に、萌子は首筋まで一気に赤くなった。彼女のそんなシャイな反応の真贋を見極めようとするかのように、千絵の目つきが鋭くなる。
「そんなんじゃ、ない……」
(何をいきなり)
と思いながら、萌子はポツリとそう答えて恥らうように俯いた。
「ただ、一緒に遊びに行ったりしてるだけ……」
「そっか」
安堵とは違う、けどそれに良く似た大きなため息を、千絵は一つ吐いた。
「あんたはネンネだもんね」
諌めているのか、それともけし掛けているのか。とにかく、こんな風に久志のことで千絵から問い詰められるとは、夢にも思わなかった。萌子は不安に揺らぐ瞳で千絵を見つめた。
「もし間に合うのならつき合うの止めなさい。あの人とは」
「そんな!」
いきなり心臓をわしづかみにされたみたいに、萌子は胸が詰まった。顔面から血の気が引いて、見る見る青ざめていく。
まさか千絵からそんな忠告を受けるとは、思ってもみなかった。
きっとどこかで、
(千絵は反対しないはず)
という甘い読みがあったのだ。千絵ならば、この理不尽な後ろめたさを判ってくれるはずだ、と。
久志が萌子の教師でなければ、ここまで来ることはなかっただろう。あの雨の日、三田村不動産に案内して、そこで二人の描く線は離れ離れになってしまったかもしれない。
ただ好きというだけじゃない、どこか運命めいたこの巡り会いを、せめて千絵にだけはありきたりな常識で判断して欲しくなかった。実際、後ろめたさは感じている。だから余計に反発したくなるのだ。
「そんなに……」
「え?」
「そんなに悪いことしてるの? 私たち……」
千絵はしばらくのあいだ、萌子の言う『悪いこと』の意味をじっと考えていた。その意味に気づいてからも、彼女はじっと萌子の顔を見つめ続けていた。優しい、慈愛に満ちたまなざしで。
「それは、あなたたちが『教師と生徒』だってこと?」
「……うん」
「そんなことで、あたしが責める訳ないじゃない」
「……え?」
意外な台詞だった。萌子は濡らしかけた瞳をキョトンとさせて、千絵の顔を見やった。
「あなた、お父さんの顔を覚えている?」
「……お父さんの?」
萌子の呟きに、千絵が小さく頷く。
矢継ぎ早な場面転換を求められて、萌子は意識が上手くついて行かなかった。千絵にそう問われた時、萌子の中にはまだ久志に対する熱情が燻っていて、千絵が言う『お父さん』が一体誰のことなのか、一瞬思いつかなかった。
それくらい、今日の千絵の発想は情緒不安定だった。
「……お父さんって、あたしの?」
「そう。あまりに小さくて、覚えていない?」
「……ううん」
萌子はちょっと自信無げに、それでも確かに首を横に振った。
いつでも最初に思い出すのは、あの夕暮れの踏切だった。大きくなるに連れて記憶の底に沈殿しそうになっていた、でも最近またよく揺り起こされる思い出。
他に父の思い出がない訳ではない。おぼろげだけれど、その面影も覚えている。けれどもそれ以外の、例えば父が何を生業にしていたとか、そういった細かいことは一切覚えていない。
と言うより、知らないのだ。そんなことを教わるには、萌子はまだ幼過ぎた。
でも、その名前と生年月日だけは知っている。
小学生の頃に引き出しから偶然見つけた、とっくに期限の切れた健康保険証。澤崎の姓が付いた、萌子の知らない男性の名前がそこにはあった。
それにしても、千絵は何故そんなことを言い出したのだろうか。その真意が掴めぬまま、萌子はカウンターの向こうに立つ千絵の顔をじっと見据えた。
「姉さん―あなたのお母さんとお父さんがどこで出会ったのか、聴いたことある?」
萌子は思いっきり頭を振った。
父がいなくなったあの夜以来、萌子は母の前で父のことを1度も口に出したことがなかった。それ以前にも、父や母にそんなことを尋ねた記憶はない。そんなことを教わるのにも、萌子はまだ幼過ぎた。
「そっか」
千絵は納得したように小さく頷いて、
「あんたまだ、小さかったもんね。えっと……」
「4歳の時よ」
「え?」
「お父さんが出てっちゃったの、あたしが4歳の時」
「そっか」
千絵は感慨深げな表情で、
「結婚して2年後にあんたが生まれて、その前に4年この街で過ごしてるから……」
そう指折り数えてから、少し意外そうな顔をして、
「あの人、この街に10年もいたんだ」
それはまるで、目撃した有名人のプライベートをしたり顔で話すような口調だった。あるいは志賀直哉や林芙美子といった、尾道を訪れたことのある著名人を自分の親戚のみたく語るような。
「あんな、風のように去って行ってしまった人なのにね」
ノスタルジー。
千絵の顔に一瞬現われた優しげな表情に、萌子はふとここで久志の父の絵の話をした時のことを思い出した。
「あなた、お父さんのこと、知りたい?」
千絵は、そう言って萌子の瞳を覗き込んだ。
この13年間、ホントは堪らなく聞きたかったその台詞を聞いて、萌子は思わず体を強張らせる。
「……千絵ちゃんは、知ってるの?」
萌子はそう絞り出すように声を漏らした。千絵は柔らかく微笑んで小さく頷きながら、
「彼がこの街にいた、10年間のことならね」
「?」
「あなたのお父さんはね」
そして彼女は、萌子が想像も出来なかった言葉を口にした。
「この街に来た時、記憶を失くしていたの」
柔らかな陽が射す。
それはまるで、ヴァージン・ロードのように光り輝いて見えた。今確かに開けた、新しい門出を祝福するように。
昭和46年3月。
玲子は大阪の街を歩いていた。風はまだ冷たく、沿道の桜もまだ蕾を付ける気配すらない。それでも射す陽は確実に暖かさを感じさせ、何より彼女の弾む気持ちが間違いなく春を告げていた。
今日は大阪美術大学美術部の合格発表の日だった。
玲子はすでに地元の短大に合格していたけれど、それはただ『この先も人生が続く』というのと同義語で、彼女にとってこの日が本当の合否を決める日だった。
(受かった……)
掲示板に自分の番号を見た時の気持ちは、嬉しいというよりもホッとした気分だった。あれだけ両親の反対を押し切って受験したのだ。意地もあったし、気持ちの上で崖っぷちに立っていたのも事実だった。
『お金がないから』
そのたった一言で玲子は、中学校はもちろん高校も地元の公立校を選ばせられた。
それもこれも、長女ゆえの不自由さである。8歳離れた妹は今、中学受験専門の学習塾に通っている。
いつでも我慢するのは長女の役目。そんな玲子にとって、大阪の美大を受けることは人生初の『わがまま』だったのだ。猛反対の末に両親が出した条件は、
『浪人は許さない』
というものだった。
絵を描き続けたい。そう思い始めたのはいつのことだろうか。大人しく優等生だった玲子が、常に胸の中にしまい続けていた思い。確かに絵が上手で、中学・高校と美術部に在籍し幾度も賞を取ったことはあったけれど、引っ込み思案な彼女がそんな大それた夢を抱き続けていたことなんて、本人が口にするまで周囲はちっとも気づかなかった。
この受験に失敗すれば。夢見た未来は、そこで敢えなく潰えてしまう。
希望を切り開くか、それともただの人生を粛々と過ごすか。少し大げさかもしれないけれど、玲子はこの受験に一生を賭けたような気分で挑んでいたのだった。
だからこの時、彼女が少々浮かれ気味だったことは否めない。
大阪の街は、驚くくらい人も車も往来が激しかった。喧騒が、のんびり屋の玲子をあっという間に飲み込んでいく。ずっと尾道で生まれ育った玲子にとって、そのスピードの速さは戸惑いを覚えさせるのに十分なものだった。
この街で、これから4年間を過ごすのだ。たった一人で。親元から離れることはもちろん、生まれ故郷を離れることも玲子には初めての経験になる。
見知らぬものへの不安と高揚感が悪戯に気持ちを煽って、玲子は知らず知らずの内に浮き足立っていた。
(それにしても……)
とにかく人の歩みが忙しない。雑踏の流れについていこうとして、玲子はつい早足になった。
信号が変わりかけても、横断歩道を渡る人波は絶えることがなかった。つられて玲子が走り出そうとした瞬間、信号が赤に変わった。
(あっ……)
歩道の端で、玲子はたたらを踏むように立ち止まった。バランスを崩して、手にしたビニール袋が道路の方にすっ飛んでいく。
「あっ!」
そう声を上げたのは玲子ではなかった。
「パステルブラシ……」
そのビニール袋の中身は、さっき寄り道した画材店で購入したパステルブラシだった。以前からどうしても欲しいと思っていた、持ち手が竹製の珍しいものだ。多少なりともこの世界に携わっていなければ答えられないその台詞を口にして、玲子の隣にいたその男性はチラッと視線を投げて寄越した。
澄んだ瞳だった。玲子より少し年上―20代中頃だろうか。
笑った、ように見えた。彼は玲子に向かって曖昧に表情を崩してから、横断歩道へ足を踏み出した。
そこからはスローモーションのようだった。ビニール袋を拾い上げようと腰を屈める彼の姿。右折しようと、少し危険なスピードで横断歩道に突っ込んで来る車。
後は何も覚えていない。急ブレーキの音だけが玲子の耳に取り残された。
「記憶喪失って、不思議なものでね」
手慰みに食器を片づけながら千絵は話し続ける。
「全てを忘れてしまう訳じゃないのよ。もちろん、そういう場合もあるけれどね。お医者さんが言うには、記憶をしまって置く引き出しが何らかの衝撃で開かなくなる……」
「それが、事故のせい?」
「そう。彼の場合、外傷は右足の骨折だけだったんだけど、目を覚ました時に自分の下の名前と生年月日しか思い出せなかったの」
「じゃあ、それ以外の引き出しが……」
「開かなくなっちゃったって訳。彼は免許証とか定期とか、身元が判るものを何も持っていなくてね。鞄には着替えが入っていたし、話す言葉も標準語で―そうそう、自分の身元が判んなくなっちゃっても、不思議と物の名前とかは覚えてるのね。とにかく地元の人間じゃない、ということだけは判ったんだけど……」
千絵は、萌子の目の前に置かれたカップに2杯目のコーヒーを注いだ。いつしか、また店の中は二人きりになっていた。
初めて聞く話に、萌子は少し興奮していた。おぼろげだった父の輪郭が、記憶の中で次第とはっきりとして来るような気さえする。
「姉さんは凄く責任を感じててね。父さん―あんたのおじいちゃんに頼み込んで彼の入院費を出してもらって。社会人になったら少しずつ返すって約束でね。それから早々に大阪で一人暮らしを始めて、毎日のように病院に通い詰めて」
そして千絵は戯けたように小さく笑って、
「陳腐なお話だけどね。そうやって二人は結ばれちゃったの。ウチの親は大らかって言うか、いい加減って言うか、退院しても記憶の戻らない彼を自分がやっていた会社に無理矢理雇い入れたの。記憶を失くした人はね、特例で新たに戸籍を作ることも出来るの。それで、澤崎姓で戸籍と住民票を作ってね。そうして、彼は尾道で暮らし始めたの」
「ママとは?」
「大阪と尾道で遠距離恋愛。4年間、よく続いたわよね。毎週のように大阪から鈍行で帰って来てたのよ、あなたのママは」
そこで千絵は少し間を置いた。萌子のカップに注いだコーヒーの残りを新しいカップに注ぎ、自分の目の前に置く。
「出会いは偶然だったけど、二人には必然的に惹かれあうものがあったのよね」
「?」
「二人ともね、絵を描くのが好きだったの」
「絵?」
心が、不意に乱れた。
絵を描くのが好きな父親。
そんな話、無論初めて聞いた。
「この街にいた10年間、彼はずっと絵を描き続けていたわ。真面目で誠実で仕事熱心で、姉さんのこともとても大切にしていたけれど、きっとそれ以外の時間はひたすら絵を描き続けてたんじゃないかってくらい、たくさんの絵を」
楽しい想い出を懐古するように、千絵は一瞬目を細めて、
「休みの日に、二人でスケッチに出かける姿を良く見かけたわ。絵に向き合ってるとね、二人ともホント幸せそうだった」
すっと、萌子の心に暖かい何かが忍び込んで来る。
幸せだったんだ。見ることが叶わなかった父と母の姿を、萌子はそっと思い浮かべてみた。
「わたしはてっきり、記憶喪失なんて凄く辛い思いをするものだと思ってたけど、あなたのお父さんはね、何か憑き物が落ちたみたいにさっぱりしていて」
そうして。そう言いさして、千絵は萌子を静かに見つめた。
「姉さんは大学を卒業してすぐに彼と暮らし始めて。次の年にあなたを身籠って。あなたが生まれて4歳まで……」
千絵は、懐かしさを噛み締めるような穏やかな表情で話し続けた。
「姉さんは、確かに幸せそうだった。相手の素性が判らないとか、そういうことはあまり関係なかったみたい。今目の前にいるその人を信じて、そう信じた自分を信じて。彼も、その信頼に違わぬ優しく誠実な人だった。姉さんを、確かに愛してた。10年のあいだ、姉さんはもちろんあたしたち家族もとても幸福だったの。二人が信じ合っていることが、良く判っていたから」
「じゃあ、なんでお父さんは」
その一言を聞いた途端、千絵の顔に哀しげな陰りが射した。
(知っているんだ、千絵ちゃんはその訳を)
息切れを起こしそうな激しい動悸が、不意に萌子の胸を襲った。あの4歳の夜から、ずっと封印し続けていた疑問。あれから、1度も口にすることのなかった思い。
「……夢から目覚めたんだと思う」
「え?」
「思い出したのよ、自分の記憶を。自分の帰るべき場所を」
夢と現実。
萌子は、幼い頃に抱いた疑問をふと思い出した。眠っているあいだに見る夢。その夢の中に出て来た風景や動物や人たちは、こうやって起きているあいだはどこに隠れてしまっているのだろう。
「彼がいなくなる半年ぐらい前から、少し様子がおかしかったの。後から思えば、だけれど。急に物思いに耽ったり、時々苦しげな表情を見せたり」
現実を思い出してしまったら、夢の中の登場人物は全て嘘になってしまうのだろうか。
「わたしはね、いつか醒める夢なんじゃないかなって、ずっと思ってたの」
「え?」
「二人が幸せそうに見えるたびにね、何故か違和感を覚えたの。本当はここにいるはずのない人。そう、思っていたからかもしれない。こうしているあいだにも砂時計の砂は減り続けていて、いつか全ての砂が下に落ちてしまうように夢から醒める日が来るのかもしれない、って」
千絵は大きなため息を吐いた。それから、萌子の瞳をそっと見返す。
「彼はやっぱり、夢から醒めてしまったのね」
「え?」
萌子が首を傾げると、千絵はそれには答えずにカウンターの下に隠していた小さなキャンバスを取り出した。
「これね、彼があたしのことを描いてくれた肖像画なの」
キャンバスの中で、20歳の千絵が笑っていた。肖像画には不釣合いな、彼女らしい快活な笑顔で。
「ここを見て」
千絵はそう言って、キャンバスの右下隅を指差した。
「……サイン?」
それは、少し崩した感じで書かれた署名だった。素人でも、こういうことをする画家は多い。萌子は自分の作品に、ひらがなの『も』をデザイン化したような署名を使っている。
「久しい、っていう字?」
萌子が眉間にしわを寄せながらそう訊ねると、千絵は小さく頷いてからそのキャンパスを持ち上げて、
「こっちに来て」
と萌子をカウンターの裏に呼び寄せた。
「千絵ちゃん、これって……」
カウンターの奥に置いてあった平たい包みを千絵が開けると、そこには久志から預かったあの油絵があった。
「これとこれ、よく見比べてみて」
千絵は二つのキャンバスを重ねるようにして置くと、それぞれの右下隅にあるサインが比較出来るように並べる。
ズキン、と胸が痛んだ。
「同じ署名なのよ、これ」
「……」
「あたし、この絵が描かれるのを見たことがあるの。あなたのお父さんの手で」
(何を……)
「知り合いの画商に見てもらったわ。この絵、間違いなく同じ人の手によるものだって」
千絵は、何を言いたいのだろう。
意識がぼんやりと遠ざかっていく。萌子の脳が、これ以上思考し続けることを拒否しようとしている。
それなのに、千絵の声は何故かはっきりと萌子の頭の中に響いた。
まるで時を刻む鐘のように。
「萌ちゃん。これはね、どちらもあなたのお父さんが描いたものなのよ」
土堂小学校の門を階段の上に仰ぎ見ながら、その脇の小路を入って行くと、一見突き当りに見える曲がり角のところに澤崎家はある。
月明かりに照らし出された我が家を、萌子はしばらくのあいだ眺めていた。
萌子の家は青いトタンの三角屋根が可愛らしい、洒落た洋館だった。路地からはやや奥まっていてその造りは判り辛いが、坂の下から見ると山の中腹にへばりつくように建っていて、とても目立つ。
子供の頃から、萌子の家を訪れる友だちはみな彼女を羨ましがった。
『可愛いお家に住んでるね』
と。
彼女の生家は、外観だけでなく内装もとても凝っていて、こじんまりとしたまるでお伽話に出て来そうな家だった。
ここは元々死んだ祖父が所有していた土地で、古い民家が建っていたのだという。萌子の父と母が一緒になった時に、それを壊して祖父が二人のためにこの家を建てた……。
そんなことも、萌子は今日初めて知った。
萌子は良く覚えていないけれど、この可愛らしい家の中に確かに記憶されているのだ。父と母と、そして萌子の三人が暮らした4年間が。
(こんなところで……)
もう、忘れかけていた想いだった。このまま忘れ去ってしまっても、萌子が生きていく上で何一つ支障はなかっただろう疑問。それでも、萌子の心の片隅で大きくなることもなくまた消え去ってしまうこともなく、当たり前のような感情としていつも居座り続けていた想い。
夕暮れの踏切で消えた父の姿。ずっと知りたいと思っていた、その背中の行方。その欠片を今、萌子は掴みかけていた。
こんな哀しい事実と引き換えに。
本能的に知ることを拒絶しかけた萌子の心の中に、情け容赦なく踏み込んで来た千絵のその台詞を、萌子はもう一度思い返した。
『あなたと立花先生は、半分血を分けた兄妹なのよ』