第七章 2枚の絵(5)
目の前に停まった銀色のクーペに、萌子はわずかに顔を顰めた。
そこは国道から少し山側へ入った道路だった。車がすれ違うには十分な道幅があったけれど、決して広い道ではない。路上駐車など、やはり迷惑な場所だった。
尾道は坂の街である。海の手も山の手も、車が快適に走れる場所は限られている。それなのに、最近は車で訪れる観光客が増えた。駐車場を備えている場所も少ないから、必然的に路上駐車も増える。
この近くにはロープウェイの登山口駅や、招き猫美術館などの観光名所がある。車の持ち主は、ここに車を停めて散策するつもりなのかもしれない。
萌子がそう考えて少し不機嫌な顔になりかけた時、助手席側のウィンドウがスルスルと開いた。
「お譲ちゃん、乗って行かへん?」
関西弁と広島弁をごちゃ混ぜにしたような、おかしなイントネーションだった。絶対に地元の人間じゃ使わない言い回しだ。
(なに? いったい……)
得体の知れない不快さを覚えながら、萌子はおそるおそる車の中を覗き込む。
「……せんせい!?」
その正体に気づいた途端、萌子は本気で吹き出してしまった。
サングラスを少し下げて、あの鳶色の瞳が悪戯っぽく微笑んでいた。
「どお? いい車だろ?」
「先生」
「ん?」
「メチャクチャ、似合ってないです」
銀色のマツダRX7もサングラスも、まるで似合っていない。そのアンバランスさがあまりに可笑しくて、萌子は思わず嬉しそうに笑って助手席に滑り込んだ。
『ガレットゥーリ・コモンのワッフルを買って、店の前で待ってて』
久志がそんなことを言い出したのは、昨日の土曜日のことだった。
それが当たり前のように、萌子も日曜日には彼と逢うつもりでいたけれど、久志のその台詞はちょっと意外だった。
『尾道で逢うの?』
よく考えると、先週の日曜日も尾道で過ごしたのだ。千絵の店の中では、顔見知りに会う可能性なんてもちろんないけれど。
少しずつ、感覚が麻痺して来ているのかもしれない。お互いに。
久志と二人でいても、誰も見咎めるものはいなかった。それは、たとえ萌子がどんなに愛しい想いを募らせていても、傍目から見ればただ教師と親しくしているようにしか見えないからだ。平日の学校の行き帰りなら、きっとそんな風にしか見えないだろう。少し淋しい事実だけれど。
けれども、休日にこうして二人で逢うのは、もっと慎重にならなければいけないのかもしれない。たとえ尾道でなら、学校関係者に目撃される確率は高くないとしても。
(でも、ベッチャー祭りの時は見られてたし、ね)
黒沢が二人の仲を疑ったのは、あの祭りの日に萌子たちの姿を見たからだと、久志は言っていた。
あの頃、二人の仲は決してやましいものではなかったはずだ。それでも、二人を見てそんな風に勘ぐる人もいる。
(もっと、気をつけなきゃ)
でも、気持ちの良い晴れた日に、ワッフルを持って千光寺山に登るのも悪くないかもしれない。今朝玄関を出る時、萌子はそんな風に華やいだ気分を抑え切れなかった。
『ガレットゥーリ・コモン』は、喫茶店『こもん』のテイクアウト用店舗として、『こもん』から路地一つ分離れたところに建てられた店だった。『こもん』は、ロープウェイの登山口駅近くに建つ、尾道好きには良く知られたワッフル専門の喫茶店である。
ここで人気のワッフルを買って、尾道の街を歩く。自分で思い描いた今日のデートコースが現実のものになると、萌子はすっかり信じ切っていた。
「どうしたの? この車」
似合ってない、と言われてすっかりしょげ返っている久志に向かって、萌子はにっこりと微笑んだ。そうやって感情を露わにする久志の姿は、また一歩その存在に近づいたような気分にさせる。
「借りて来たんだ。君と、しまなみ街道でもドライブしようかと思って」
「え?」
「……電車で行けるような距離じゃ、人目が気になるだろ?」
ちゃんと考えていてくれたんだ。久志のそんな細やかな気遣いが、萌子の胸にそっと染み込んで来る。優しい、と思った。その刹那、喜びが体の奥底から湧き上がって来た。
「全部、お任せ?」
「ん?」
「行くとこ、先生に任せちゃっていいの?」
「もちろん」
とても嬉しそうに、久志が大きく頷く。
「じゃ、ガイドにお任せ」
そう言って萌子は、助手席に深々と座り直した。
「よし」
力強くギアをローに入れてから、久志はちょっと訝しげに前方を見据えて、
「ところでここ、どうやったら国道に戻れるんだ?」
久志の運転するRX7は、国道2号線を上り浄土寺の麓を通り抜けた。そして市街地の外れから国道を逸れて、尾道大橋へと向かう。
萌子は、ハンドルを握る久志の横顔をそっと盗み見た。
不意にときめきを覚え、うろたえた。
よく考えてみると、萌子が車の助手席に乗った経験はほんの数えるほどしかなかった。母の玲子は免許を持っていないし、千絵も免許は持っているが車は持っていない。
男性の運転する車の助手席なんて、もちろん生まれて初めての経験だった。
前方を見据える久志の横顔は、意外なほど凛々しかった。優しくて少し頼りなげ。そんな萌子が惹かれた素顔とは正反対の男らしい側面が、また悪戯に萌子の胸を掻き乱す。
「どうした?」
萌子の視線に気づいた久志が、少し照れ臭そうにそう尋ねる。
「なんでもない」
慌てた素振りを見せて、萌子は両手をポンっと膝に置いて前を向いた。
車は緩やかな坂道を快いスピードで登っていく。フロントガラスの向こうに、びっくりするくらい鮮やかな蒼が広がった。
「……でも、意外だったな」
「何が?」
「先生が、スポーツカー選んで来るなんて」
「そうか?」
視線を前に向けたまま、久志はこそばゆそうに鼻の下を擦って、
「実家に置いてあるのと、同じ型なんだ。この車」
「ふ〜ん」
「学生の頃は結構乗り回してたからな。湘南とかも、よく行ったし」
久志はそう言って、萌子が名前しか知らない海岸の名前を挙げてみせた。
(じゃあ、ここにいる先生は、私の知らない先生なんだ)
唐突に、そんな考えが萌子の心を捕らえる。
薄いサングラスを掛け、革ジャンを羽織ってスポーツタイプのハンドルを握る男性。
未知なる者へのときめきは、不意に不安へと姿を変えた。
(その時、誰がこの席に座っていたのだろう)
萌子は、赴任初日に冷や汗をかきながら彼女の存在を否定していた久志の姿を思い出した。その言葉を鵜呑みにした訳ではないけれど、たとえば久志が東京に彼女を残して来ているとか、萌子は今までそんな発想を1度も抱いたことがなかった。
3ヶ月前には、その存在すら知らなかった人。
当たり前なのだ、彼のことを何も知らないのは。生まれてから17年間、二人はまるで違う道を歩いて来たのだから。
「ま、任しておいて。これでも結構運転は上手い方だから」
久志の戯けた口調に、萌子は少し複雑そうに曖昧な笑みを漏らした。
因島を素通りし、二人を乗せたクーペは生口橋を渡ったところで西瀬戸自動車道を下りた。一般道に出ると、久志は生口島の西側へと車を向ける。
「もう少しだから」
「……え?」
「本日の、美術部の校外活動第1弾」
「?」
風景が一変した。
麗らかな陽に照らされた、穏やかな街並みを銀のクーペは進んだ。時折垣間見える瀬戸内海が、ガラスを散りばめたように輝いている。
「さあ、着いた」
道が海岸線から離れて緩やかにカーブし始める手前で、久志は急に車を停めた。そして、海岸の方を指差す。
「降りてみようか」
「……うん」
海岸沿いに広がる芝地の真ん中に、それはあった。
「これ、なに?」
奇抜なオブジェを前にして萌子がそう尋ねると、久志は小さく片頬を歪ませて、
「『地殻』」
「え?」
「そういう題名の野外彫刻なんだ」
「ふ〜ん」
納得したのかしないのか、いまいちはっきりしない口調で萌子はそう頷くと、その野外彫刻に目をやった。
青く塗られた太い管に、白御影石が寄り添うように立て掛けられている。その向こうには醒めるような青空が広がっていた。
「この町が開催した『せとだビエンナーレ』っていうコンペがあってね。そこで受賞した作品が、この島のあちこちに設置されているんだって」
「へえ。そんなの、知らなかった」
しまなみ街道が開通してから、島の活性化に繋げようと新しい美術館が開かれたりテーマパークがオープンしたりしていることは、萌子も知っていた。でも、生口島のそんな試みは今まで聞いたことがなかった。
「たまには他の美術品に触れてみるのも、刺激になっていいだろ?」
久志はそう似合いもしない教師ぶった口調になってから、
「こういうオブジェがいくつも集まっている浜があるんだ。行ってみようよ」
そう告げて、ジャンバーの襟を立てるようにして車に急いだ。萌子も、久志に貰ったあのピンクのマフラーを巻き直して後に続いた。冬の海岸は、日中でもやはり少し寒い。
生口島の中心街を抜けて、車は南の海岸沿いの道へ出た。穏やかな海を右手に、柔らかな陽の中を走る。
「サンセット・ビーチだ」
不意におぼろげな記憶が蘇って、萌子は小さくそう叫んだ。
「え?」
「この先に、そういう名前の砂浜があるの」
昔、千絵に連れられてこの浜に海水浴に来たことがある。そう、何故か千絵と薫と、そして龍太と一緒だった……。
そう思い出した刹那、ノスタルジーと感傷がいっぺんに入り込んで来て、萌子は切ない気持ちに流されそうになった。
ほんの少しの後悔と、ほんの少しの罪悪感。
「じゃあ、きっとその浜だ」
つい寡黙になった少女の様子に気づくことなく、久志はそうポツリと呟いた。
『うつろひ』
そう題されたオブジェは、石垣を積み上げた防波堤の上で風に揺れていた。一列に並んだ5本の柱の天辺に、緩くワイヤーが渡されている。風に吹かれ、あたかも青空に線を描くように、それらはゆらゆらと宙を漂っていた。
風に、雨に、陽の光に。さまざまな自然の事象に左右されて表情を変えるその芸術品に、萌子はひどく興味を覚えた。
絵画は、その断片を切り取ることでしか想いを表すことが出来ない。その一瞬の切なさを、どれだけキャンパスに表せるかどうかに懸かっている。だからこんな風に、作者の手を離れてからも自由気ままに表現し続けられるものを、萌子は正直羨ましく思った。
ふと振り返ると、久志が間の抜けた表情でオブジェを見つめていた。萌子は少し可笑しく思ってから、
(先生は、何を思って見つめてるんだろう)
それは、愛しい者への関心ではなく、ただ志を同じくする者への純粋な興味だった。
やがてそのオブジェから離れると、二人は砂浜を歩き始めた。
「綺麗なビーチだなぁ」
白い砂浜を見つめて、久志が意外そうな声を上げる。
緩やかな弧を描いて、砂浜が1キロほど続いている。遠浅の海はあくまでも穏やかだった。
「瀬戸内海って、あんまり泳げるイメージじゃなかったんだけどな」
「え? 何で?」
「いや、あんまり綺麗なイメージがなかったから……」
「そんなことないですよ。失礼ですね」
萌子は笑いながら、そう頬を膨らましてみせた。
尾道には泳げるようなところはないが、向島へ渡れば小さな海水浴場がいくつか点在する。萌子だってこれでも海の子なのだ。中学生くらいまでは、みんなでよくバスに乗って海水浴に出掛けた。
「この辺の海は、とっても穏やかなの」
昔、1度だけ夏に日本海へ出掛けたことがある。見たこともないような大きな波に、萌子は思わず足が竦んだことを思い出した。
「だから、とっても泳ぎ易いんですよ」
「そうなんだ……」
人だかりの風景でも思い浮かべたのだろうか。久志は少し遠い目をしてから、
「今度、夏に来ようか」
「え?」
萌子はドキッとして久志を見やった。相変わらず穏やかな顔で久志がそっと微笑む。
幼い頃に見た夕焼けが、唐突に蘇った。夏の夕暮れに見た、『サンセット・ビーチ』の名にふさわしい荘厳な茜色の空を。
あの夏を、久志と過ごす……。
「先生の、えっち」
「……え?」
「どうせ、水着姿いっぱいの砂浜でも思い浮かべてたんでしょ?」
萌子の茶化すような言葉に、久志は情けないような呆れ顔になって、
「ちょっと待った。何でそういうことになっちゃうんだよ」
「知〜らないっ」
萌子はそう笑いながら舌を出すと、駐車場に向かって走り出した。
多々羅大橋を渡り大三島へ入ると、久志はまず萌子を大山祗神社へと誘った。
「凄〜い!」
境内を覆い尽す楠木を見上げて、萌子は思わずため息を漏らした。昼なお仄暗い境内は、まるでいにしえの空気がそのまま息づいているようだ。
「萌ちゃんは」
とても満足げな瞳で、久志がそう語り掛ける。
「きっと、感受性がとても強いんだろうね」
「え?」
「何を見ても、いつもそうやってすぐに目を輝かせる」
その言葉の響きは、嬉しいようでどこかこそばゆかった。萌子は恥ずかしそうに俯いた。
久志は自分のことをちゃんと見ていてくれる。それはどんな甘い囁きよりも、萌子の心を幸福で満たした。
神社にお参りした後、二人は近くにある大三島美術館に立ち寄った。それから港に降りて昼食をとり、市街地から少し離れたところにある『ところミュージアム』へ向かった。
野外彫刻と美術館巡りなんて、地味なデートかもしれない。街中を抜けて、またのどかな風景に戻ったフロントガラスの向こうを見つめながら、しかし萌子はとても充たされた気持ちになっていた。
好きな人と、同じ価値観を分かち合う。それはこの上なく幸せなことなのかもしれなかった。久志と出逢えた幸運。それは時が経つに連れて、萌子の中でより確かなものになっていく。
『ところミュージアム』は、ちょっと変わった現代彫刻美術館だった。
うらぶれた岬の外れに、その一風変わった建物は忽然と姿を現した。横から見ると、大きな毛虫が緩やかな斜面にへばりついているように見える。
「これも、展示品の一つなのかな?」
入り口の自動ドアのガラスに、ポップアート風の人の顔が描かれていた。左手が男性、右手が女性。自動ドアが閉まると、二人が接吻しているように見える。
萌子と久志は思わず顔を見合わせた。自然と笑みが浮かんで来る。玉手箱を開ける前のような気分。不思議と、面白いことが待っていそうな気がした。
予感は的中した。
入り口で出迎えてくれたポリネシアチック(?)な立体作品を手始めに、美術館の中では奇怪なアートが次々と二人の前に現われた。まだ真新しい館内は程よく清潔で、明るく開放的な感じがする。
「凄い。全部木で出来たキオスク、だって」
その一角に足を踏み入れると、途端に久志は子供のような歓声を上げた。
それは、精密に出来た駅の売店だった。全て木片で作り上げられたものだが、とにかく作業が細かい。手前で売られている新聞から吊るされて陳列されているティッシュ、雑誌からガムまでが精巧に再現されている。
「見て見て。こっちに公衆電話まであるよ」
裏に回り込んだ萌子も、興奮したように無邪気な声を上げた。
「凄いなぁ。大変そうだけど、ちょっとやってみたいなぁ」
おもちゃを覗き込む子供のように忙しなく顔を動かす久志を見て、萌子は可笑しくなった。
(先生だって、そうやってすぐに目を輝かせるじゃない)
「でも、さ」
萌子は少し考え込むようにそう呟いた。
「『キオスク』って何の名前?」
「え?」
不思議なことを聴いた、というように久志がきょとんとした目で萌子を見る。
「これ、駅の売店でしょ?」
「うん。だからキオスクって……そっか」
一人で納得したように、久志は突然笑い出した。
「なによ。一人で判ったような顔して」
萌子がそう拗ねると、久志はさも可笑しそうに、
「ごめんごめん。関東じゃ、駅の売店のことを『キオスク』って言うんだよ」
「……へえ」
「今度、東京に来たら見せてあげるよ」
「え?」
萌子はドキッとした顔で、久志を振り返った。
「でもなぁ、東京でも最近はキオスクが減ってるからなぁ」
久志は、自分の吐いた台詞の意味に全く気づいていなかった。さんざめく萌子の心に勘づく素振りも見せずに、そう苦笑してみせる。萌子は、自分だけドギマギしているのが何だか馬鹿らしくなりながら、それでも細動する胸の震えを止められずにいた。
館内最後の展示物は、建物の一番奥で唐突に開けたテラスからの眺望だった。
「ふわぁ」
西日を受けて、海がキラキラと揺らめいていた。斜面に突き出すように建てられたそのテラスからは、瀬戸内海の多島美が望める。あふれんばかりの陽の光を浴びたそれは、冬とは思えぬ柔らかな光景だった。
「きれい……」
二人はしばらく、呑まれたように言葉を失くして、ただ佇んでいた。
「こういうものを見ると……」
「え?」
「やっぱり、絵を描きたくなるね」
久志の言葉に、萌子は深く頷いた。
知らず知らずの内に、その風景を切り取って頭の中に描いている自分がいた。どんなに憧れても、自分が感じたものを表現する手段はモニュメントでも文章でもなくやはり絵なのだと、こういう瞬間に強く思う。
久志も、この景色を見て同じ思いを抱いたのだろうか。
(それならば、嬉しい……)
「もっと……」
「え?」
振り向いた萌子に、微笑みかけるようなまなざしを向けて、久志はこう言った。
「もっと描きたくなるようなところに、連れて行ってあげる」
そうして、久志がこの日最後に萌子を誘ったのは、亀老山展望公園だった。
西瀬戸自動車道に戻り、二人を乗せた車は大三島橋を通って伯方島へ渡った。島をかすめるように通り過ぎると、すぐに伯方橋が見えて来る。
伯方橋を渡る頃には、もう夕暮れが辺りに迫りかけていた。少し風が出て来たようだ。右手からオレンジ色の夕日を浴びて、目の前の光景が左右に揺れた。
亀老山展望公園は、大島の南端に位置する標高307メートルの亀老山山頂にある。大島は芸予諸島の南端に位置し、そこを越えればもう四国である。
枯野を渡る風の音が、今にも聞こえて来そうだった。しまなみ街道を離れると、辺りは俄かに寂れた景色に変わった。雑木林に囲まれた、曲がりくねった山道を車は進んでいく。
さびしい。萌子は直感的にそう思った。美しく、幻想的で、それは断絶的な光景だった。
いつしか二人は黙り込んでいた。カーブが続くその悪路のせいか、久志はいつになく真剣な顔つきでよそ見すらしようとしない。木立の合間から射す飴色の夕日が、時折久志の頬を優しく染めた。
「さあ、着いた」
山道を15分ほど走ると、展望台下の駐車場に着いた。久志に促されるように車を降りた萌子は、不思議そうな面持ちで目の前の『建物』に目をやった。
「これが、展望台?」
「そう」
それは、萌子が思い描いていた櫓のような建物ではなかった。こんもりとした小山の真ん中に坑道のような裂け目が入っていて、その奥に階段が続いているのが見える。萌子はふと、昔どこかで見た古墳の入り口を思い出した。
「ここは、1回展望台を建ててから、また周囲に土を盛って木を植えてあるんだ。周囲の景色に溶け込むように、ね」
「へえ。そうなんだ」
感心したようにそう頷いてから、萌子はクスッと小さな笑いを漏らした。
「なに?」
「ううん。よく調べてあるなぁ、って思って」
「?」
「何か、あたしが観光客で先生が地元の人みたい」
きっとこの日のために、ガイドブックをひっくり返したりしたのだろう。久志のそんな姿を思い浮かべると、萌子は可笑しくもありまた胸が熱くもなった。
坑道の中は狭く、圧迫感さえ覚えた。見上げると、藍色に変わり始めた空が見える。
夜が近い。二人はせかされるように足を速めた。それはあたかも、宝の在り処へ急ぐ冒険家のようだ。
木造のデッキに上がった途端、猛烈な北風が襲い掛かって来て、萌子は思わず乱れ髪を手で抑えた。
「こっちだ」
回廊の先に見えるもう一つのデッキを指差して、久志が風音に負けないよう語気を強めた。
きっとその時、二人は予感していた。この先に見える光景を。
「……凄い」
展望台の端に立って、萌子はそう一言呟いた。それ以外の感情は、全て北風に飲み込まれてしまった。
来島海峡の向こうに、日は沈もうとしていた。麓から伸びた1本の線が島々を結び、四国へと続いている。
切ない夕暮れだった。夕日が海に幾重にもグラデーションを描き、島影は沈黙のままシルエットに変わる。そして海峡の向こうで、今治の街が淡く明かりを灯し始める。
「こんなところまで来たの、初めて」
生まれて初めて、萌子は四国の大地をこんなに間近で見た。
「ずっと、遠いところだと思っていたのに……」
けれどもそこには1本の橋があり、彼女の足元からその大地へと続いていた。ここから見る景色は、海も空も島々も、全てがどこまでも続いているように見えた。
「今日は、ここまでだ」
「……うん」
「でも……」
「え?」
萌子の隣に立ち、同じように来島大橋を見つめながら、久志はそっと萌子の手を握った。
その刹那、萌子は身じろぐことすら出来なかった。一拍の間を置いて、心臓が胸を突き破らんばかりに暴れ始める。
久志の掌は、柔らかく優しかった。その人柄を示すように、穏やかなぬくもりがそっと萌子の掌を包み込んだ。
(どうしよう)
狂おしいほどの想いが、体中を駆け巡っていた。こんなにも久志が好きなんだと、掌から伝わるそのぬくもりに今更ながら気づかされる。
離したくない。
生まれて初めて知る強欲な感情に、萌子は戸惑いを隠せずにいた。
「いつか……今度来る時は、あの海峡を渡ろう」
掌を弱く握り締めたまま、久志は視線を合わさずに固い口調でそう呟く。
「うん……」
萌子は小さくそう頷いて、手の震えを押し隠すように久志の手を強く握り返した。