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第七章 2枚の絵(4)

 キシッ、キシッ。

 岸壁と船を結ぶ舫いの軋む音が聞えて来る。

 晴れた日の尾道水道は、限りなく穏やかだった。元々『潮待ちの港』として発展した街だ。古くから風除け・風待ちの港であった尾道は、真冬でもその穏やかな表情を崩そうとしない。

 防波堤の際に立って、萌子は全身で日の光を浴びるように大きく伸びをした。彼女を包み込んだその光は、山を包み、街を包み、水面に煌めいた。

 春はまだ遠い。けれどもこうして陽射しの中にいると、花の季節がすぐそこまで来ているような錯覚に陥る。

 幸せだから、だろうか。萌子はそう自分に問うた。

 久志との距離がそうすぐに変わるとは思えなかった。それが、彼が奥手だからなのか、彼なりのけじめなのか、萌子には判らなかったけれど。

 (半年過ぎても、貴方って手も握らない……)

 古い歌の一節を思い出して、萌子は可笑しくなった。

 きっと彼は、半年どころか1年過ぎても手も握らないに違いない。

 (3度目のデートまでにキスしなきゃ、その先はない……だっけ?)

 雑誌の片隅で見たそんな迷信も思い出して、萌子は半ば真剣に今日は何回目のデートだったかしら、と数え始めた。

 もどかしい気持ちが、萌子の中に全くない訳ではない。女の子らしい夢や未来を心に描くこともある。でも、それらが萌子の心に焦りを植え付けるようなことはなかった。

 違うのだ、と思う。久志とのあいだには、そんな世俗では表しきれない繋がりがあるのだと、萌子はそう信じていた。初めて、本当に好きになった人。それは、人とは少し違った恋なのだと、彼女はそう感じていた。

 (三寒四温)

 お互いに不器用で、どこかぎこちない恋。だから、ゆっくりと暖めていけば良いのだと思う。そうすれば、寒暖を乗り越えていつか花咲く春を迎えるように、どんな恋よりも美しい花を咲かせられるような、萌子はそんな予感がしていた。

 (でもさ。とりあえず『好き』ぐらい、言ってくれてもいいのに、ね)

 自分の臆病さは棚に上げて、萌子がそんな不満を脳裏に走らせた時、遠くの路地から大きな荷物を抱えた久志がもっさりと姿を現した。

 「重いよ。これ」

 姿を現してから幾分経ってようやく萌子の元に辿り着いた久志は、開口一番そう嘆いてみせた。

 「結構、大きいんだ」 

 久志が抱えて来た絵は、想像していたものより遥かに大きかった。もう少し小さい―スケッチブック程度のものを思い描いていた萌子は、俄かにその中身への期待を膨らませた。

 「うん。結構大作」

 滅多に言わない、戯けた台詞を口にした久志は、

 「良い絵、だよ」

 ポツリと本音を漏らした。

 「ホント? 楽しみだな」

 萌子は本当に楽しみにしていた。それは自分と久志の仲を縁付けた彼の父親の存在に、いつしか親近感を覚えていたからかもしれない。

 「さ、入ろう」

 穏やかな笑みを浮かべて頷き合った二人は、山小屋のような分厚いきつね色のドアを押した。そしてその途端、二人できょとんと目を丸くしてしまった。

 「いいとこに来た!」

 カウンターの向こうから、千絵の悲鳴に近い歓待の声が挙がる。

 「千絵ちゃん、どうしたの? これ……」

 萌子が呆れたように尋ねると、返事の代わりにエプロンが飛んで来た。

 「こんな時に限って、美代ちゃん休みなのよ」

 『ひこうき雲』の店内は満席だった。いくら休日の昼時だからといっても、こんなに客が入ることは滅多にないことだった。萌子は、この店の席が全て埋まっているところを初めて見たような気がした。

 週末の昼間、千絵は一人手伝いを雇っていた。それが保科美代子だった。近所に住む中学生だ。雇う、といっても子供の小遣い稼ぎ程度の話で、普段はのんびりおしゃべりをしてわずかばかりのお駄賃を渡して帰すことも多かった。

 「美代ちゃんと同じ時給じゃ、働かないわよ」

 慌てふためいている千絵の顔が可笑しくて、萌子はそう一言釘を刺してからエプロンに袖を通した。

 「ごめんね。この辺に座って待っててくれる?」

 簡易のパイプ椅子を引っ張り出して来て久志に勧めながら、萌子はそう軽く頭を下げた。

 「うん。気にしなくていいよ」

 こんな時でも、久志は穏やかな表情を崩すことがなかった。軽く微笑んでから、

 「ウェイトレス姿、得と拝見致します」

 「もぅ、莫迦」

 久志の余計な一言が萌子を悪戯に緊張させた。萌子は立ち働いている間中、ずっと久志の視線が気になって仕方がなかった。そんな萌子を、久志は飽きもせずただ微笑んだままずっと見つめていた。

 「ごめんねぇ。お腹空いたでしょう」

 一息ついた様子で千絵が久志にそう声を掛けたのは、午後1時を優に越えた頃だった。カウンター席に移り、ブレンドの入ったコーヒーカップを片手にきょろきょろと店内を見回していた久志に向かって千絵は、

 「食べたいもの、何でもリクエストして」

 「しょうが焼き定食」

 カウンターに戻った萌子が、横からそう宣言した。

 「あんたにはまだ訊いてないわよ」

 「もう。じゃあ、先生早く決めて。あたしお腹の皮が背中に引っついちゃう」

 「大丈夫よ。そのあいだに立派な脂肪が入ってるでしょ」

 萌子と千絵の軽快な『叔母・姪漫才』に笑顔を浮かべながら久志は、

 「じゃ、同じもので良いですよ」

 千絵がキッチンに向かうあいだ、萌子はようやく落ち着きを取り戻して、久志の隣に座って自分で入れた紅茶を美味しそうに啜った。

 「せんせい」

 「ん?」

 「見たいな」

 「え?」

 「先生の、お父さんの絵」

 そう声を掛けた刹那、久志はすっと緊張を走らせた。真意を慮るように萌子の瞳をじっと見つめる。見つめられて心臓が破裂しそうになりながら、萌子は何気なく微笑み返した。

 「なんか、プレッシャー感じるな。自分の絵でもないのに」

 そう呟きながら、久志は壁に立て掛けてあった袋から額縁に入った絵を取り出した。

 「うわぁ」

 萌子は思わず感嘆の声を上げた。

 予期せぬ迫力だった。静かな尾道水道の先に建つ造船所のクレーン。その光景が今にも浮き上がって迫り来るような、それはそんな立体感あふれる油絵だった。

 萌子の反応に心なしか面映そうな顔をした久志は、

 「油絵とは、思わなかった?」

 「うん」

 「親父はね、結構器用だったんだ。油絵も水彩画もこなしてね」

 久志はそう言った後で、何かとてつもない発見をしたように目を輝かせて、

 「なぁ。君のお母さんの絵と、同じ角度からの絵だと思わないか?」

 「え?」

 「これは近景、あれは遠景の違いはあるけどさ」

 久志にそう言われるまで、萌子は全く気づかなかった。母の絵がどこから描かれたかなんて、考えてみたこともなかったから。

 萌子は、グリーンヒルホテル尾道に飾られたあの絵を、母が実際に描いている場面を見たことがなかった。ホテルから絵を依頼されたのは確か萌子が中学生の時だったが、その時玲子は古い絵を1枚出して来て、それをホテルに提供したのだ。

 いくら忙しくても、そんな風に仕事をごまかすような、母はそんな人ではない。だから萌子は、その絵が母にとって何か思い入れのある作品なのだろうと、勝手にそう思っていた。

 「もしかしたら、同じ場所から描いたのかなって思って」

 同じ場所から。もしかしたら、同じ時に。そんな妄想は、萌子に久志との運命をまた強く感じさせた。

 「はい、お待たせ」

 千絵がカウンターを回り込んで来て、萌子たちの背後からしょうが焼きとライスの皿を差し出した。それらは当然のように、まず久志の前に置かれた。

 「千絵ちゃん、どう?」

 萌子はそう言って、久志とのあいだに置いて眺めていた額縁をくるりと千絵の方へ向けた。

 「へぇ。なかなか素敵じゃない」

 そう言って目を細めた千絵は、次の瞬間何かを思い起こしたように小さく首を傾げた。そして一瞬目を見開くと、そのままピキリと凝り固まってしまった。

 「……どうしたの?」

 感動した、にしてはあまりに長いあいだ黙り込んでしまった叔母に、萌子は不審げにそう声を掛ける。

 「……ううん。なんでもない」

 「なんでもないって……」

 萌子の問い掛けにも応じようとせずに、千絵は悪い夢でも振り払うかのように頭を大きく2度、3度と横に振った。それから無理やり気を取り直すような口調で、

 「萌ちゃんの分、今持って来るからね」

 萌子は思わず久志と顔を見合わせた。久志もさすがにその穏やかな顔つきを崩して、怪訝そうに眉間にしわを寄せた。

 今日はそれが目的の大半だったはずなのに、萌子たちが食事に手を付け始めても千絵はその絵について触れようとはしなかった。他愛もない話題を振り撒いて可笑しそうに笑うその姿に、話を逸らそうとしている気持ちがかえって見え隠れしていた。

 ぎこちなく、気詰まりな時間が過ぎた。食事を終え、千絵がもう一杯入れてくれたコーヒーを飲み干すと、久志は何もなかったように、

 「じゃ、そろそろ始めますね」

 と言って、スケッチブックを取り出した。

 萌子たちが忙しなく立ち働いていたあいだに、彼は描く絵の構図を定めていたらしい。店の奥、作り付けの棚に向かうようにして、久志は手馴れた感じで筆を動かし始めた。

 久志がスケッチする様子を萌子が呆けたようにぼんやりと注視していると、その背後に千絵が立った。てっきり食器を片づけるのだと思って、半身をずらした萌子の耳元で、

 「さっきの絵、ちょっと見せて」

 千絵はそう囁いた。

 「……その絵に、何かあるの?」

 千絵の絵に向けたまなざしは、傍から見ても尋常なものではなかった。睨みつけるような視線で見つめながら物思いに耽る姿は、どう見ても『絵を吟味』しているようには見えない。

 萌子の質問を全く無視して、千絵は顔を上げると今度は久志の顔を睨みつけ出した。じっと視線を送りながら、やはり何かを思い出そうとしている。

 「千絵ちゃん?」

 萌子が不安げにそう声を掛けると、千絵はようやく姪っ子の方を向いて、

 「昔ね、見たことがあるような気がするの」

 「?」

 「……この絵を」

 最初、全く意味が判らなかった。千絵ちゃんは何を言ってるんだろ。心の中で思わず肩をすくめたくなるような気分になった後で、萌子は唐突に閃いた。

 (もしかして千絵ちゃん……)

 千絵は、久志の父を知っていたのではないだろうか。この絵が描かれた場所はこの店の真ん前だ。これだけの絵が、1日2日で完成したとも思えない。長いあいだ同じ場所に通い詰めれば顔見知りも出来るだろうし、もしかしたらこの店に息抜きに訪れたかもしれない……。

 (バカバカバカ)

 そこまで推理してから、萌子は思わず自分の頭を叩きそうになった。

 そんなことがあるはずがないのだ。

 久志の父がこの街にいた頃、千絵はまだ10代後半だったはずだ。それにこの店が開店したのは、萌子が中学2年生の時のことなのだから。


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