第七章 2枚の絵(3)
「あれ?」
ホームに姿を現した久志を見て、萌子はちょっと目を丸くした。
「追いついちまった」
ばつの悪そうな表情を浮かべて、久志はぽりぽりと頭を掻く。
今日は特に、久志と待ち合わせる予定はなかった。萌子は福山の街で買うものがあったから、先に美術室を後にしたのだ。
「ま、いっか。たまには」
久志はすぐに子供みたいな顔になって、そう小さく笑った。
「ここで無視してると、かえって変ですよ」
少し離れたところに福女の制服姿が見える。萌子は、教師と生徒としておかしくない距離を心掛けて、久志の横に立った。
朝から冷たい雨が降り続く土曜日だった。午後に入って少し雨足は弱まったけれど、ホームの端に立って軒先によく目を凝らすと細かい雨の粒が見えた。雪になるほどではないが、やはり少し寒い。
「先生、今日はずいぶん帰るの早いんだ」
「うん」
久志は視線を落としてそう頷くと、
「なんか今日は気乗りがしなくてね」
それに、君もいなかったから。そんな台詞が続きそうな口調だったけれど、もちろんそれは萌子の空耳だった。
久志の視線や仕草に、時々人よりも多くの好意を感じることがある。その感覚はすでに確信に近いレベルだったけれど、それを実証出来る事実はまだ何一つなかった。
結局また、
(だいたいつき合ってるって言うのかなぁ、これ)
という疑問符だけが、萌子の頭の中に取り残された。
確かめてみればいい、のかもしれない。それはもう、そんなに不安を覚えることではない。けれども生来の臆病さと怠惰な性格が、萌子を何となく億劫がらせていた。
福山駅のホームを離れるとすぐに、車窓を雨の滴が幾筋も流れ始めた。滲んだガラスの向こうで、過ぎ去る福山の街は白く霞んで見える。
こんな霧雨に濡れそぼつ風景を、前にも1度見たことがある。そう思った刹那、萌子の脳裏に尾道水道を見つめる紺色の傘と浅黄色のジャケットの後姿が蘇った。
「先生」
「ん?」
乗客がまばらに腰掛ける7人掛けのシートに、久志と並んで座った萌子は、少し斜めを向いて久志の横顔を見つめた。
「先生と初めて会った日のこと、覚えてる?」
「……君に、不動産屋さんまで案内してもらった日のこと?」
「そう」
「そりゃもちろん。そういえば」
久志は斜向かいの車窓を見つめて、
「あの日も、こんな雨の日だったね」
「……うん」
久志に倣って正面の窓を見ながら萌子は、
「今日、『ひこうき雲』に行ってみない?」
「ひこうきぐも?」
「あの時の喫茶店の名前なの、それ」
「……あの、君の叔母さんがやっているお店?」
「『おばさん』なんて言ったら、一生口きいてもらえなくなりますよ」
「?」
「あの人、『千絵ちゃん』って呼んであげないと、もの凄くふてくされるの」
萌子のそんな台詞に、久志は少し目を丸くしてから可笑しそうに笑った。
尾道駅に着いても、雨は一向に止む気配がなかった。駅舎の軒先から少し体を乗り出すようにして雨足を確かめた萌子は、手にしていた赤い傘を広げようとした。
「あっ!」
突然、背後で久志がそう大きな声を出す。
「え? どうしたの?」
「傘、忘れた……」
「どこに?」
そう問い返しながら萌子は、久志がシートの手すりに傘を掛けるシーンを思い起こしていた。
「もしかして、電車の中?」
「うん……」
久志は打ちひしがれたように俯くと、
「参ったなぁ。また、コンビニで買わなきゃ」
不意に、愛おしさが胸の内を駆け巡った。
買い物を忘れた子供みたいにしょんぼりとした久志を見て、萌子は何故か微笑みかけたくなるような感情を抱いた。
「先生」
「ん?」
「傘なら、ありますよ」
そう言って萌子は、赤い傘を開いてそっと差し掛けた。
「『ひこうき雲』に行けば、何か貸してもらえるだろうし」
「でも……」
久志はそう躊躇して、辺りを見回す仕草をしてみせる。
「大丈夫。傘に隠れていれば顔なんか見えないから」
久志は試すような視線で萌子を見た。萌子はしなやかな笑みを返してみせた。
「そっか。大丈夫、かな」
「うん。大丈夫」
「よし、じゃ」
久志の顔に悪戯っぽい笑みが宿った。
「相合傘、やっちゃおうか」
あの日、鞄を頭に乗せて小走りに駆け抜けた路地を、萌子は傘の下で久志に寄り添うように歩いた。くすんだ、心なしか寂れた感じのする人気ない狭い路地を進むと、やがて急に視界が開けて海沿いの道に行き当たる。
(そういえば……)
そういえばあの時、久志はここから何を眺めていたのだろう。
それは、彼と出会って最初に抱いた疑問だった。出逢うきっかけだったのに、萌子は今までその疑問をすっかり忘れていた。
「先生」
「何だい?」
「先生あの時、ここから何を眺めていたの?」
「え?」
「あの、『ひこうき雲』に入って来る前に……」
「見てたのか」
驚くというよりはむしろ『恥ずかしいところを見られた』といった風に、久志は照れ笑いを浮かべて頭を掻いた。
「店に入る前に見かけたんです。雨の中でずっと立っているのがとても気になって。それに」
萌子はシニカルな笑みを浮かべて、
「凄い色のバッグを持っていたし」
萌子の皮肉が通じたらしい。久志は思わず苦笑いを浮かべてから、
「そっか。凄い偶然だったんだね」
と感心した素振りを見せた。
そう。凄い偶然だったのだ。あの時久志が『ひこうき雲』の扉を選んだことは。運命、と言い換えても良いかもしれない。萌子はそう思った。
「あそこから」
あの時眺めていた方向を、久志はチラッと見やって、
「描かれた絵を見たことがあるんだ」
「ふ〜ん」
「静かに揺れる海と、高々と伸びるクレーンと」
久志はそこから見える眺望をそう言葉でなぞらえてみせて、
「尾道へ来たら、最初に行こうと決めてたんだ。そしたら、着いた途端に雨に降られて」
久志は情けない笑みを浮かべて、
「あまりに寒くて、どこかに避難しようと思って見回したらあの店が目に入って。ホント、凄い偶然だよね」
あの日、二人が別々に押し開けた『ひこうき雲』の扉は、相変わらず重たげだった。カウ・ベルがカランカランと小気味良い音を立てる。
萌子に続いて入って来た久志の姿を認めた千絵は、
「いらっしゃ……」
と言いさしてから、慌てたように声色を作り直した。
「いらっしゃいませ」
「こんにちは、千絵ちゃん」
そのトーンの高さの違いが可笑しくて、萌子はクスクス笑いながら、
「立花先生だよ」
「?」
「ほら、前に来たことあるじゃん。『絵描きさん』よ……」
そう言われて、千絵はすっかり黙り込んでしまった。彼女の中でカチカチとスパコンが作動する音が聞こえて来るような気がした。
千絵はまず久志の顔を認識しようと努めた。それはすぐに認識出来たらしい。彼女は小さく呟くように、
「あぁ、あの時の放浪画家……」
萌子の後ろで、緊張した面持ちのまま久志が小さく首を傾げた。自分にそんなあだ名が付いているなんて、もちろん知る由がない。
そこから千絵の解析能力がフル回転した。30秒も立たない内に彼女は全てを飲み込んだらしく、ほんの少し嘲るような笑みを浮かべて、
「なるほど。『とても好きな人』か」
「え?」
「いえいえ。さ、どうぞ。お好きな席へ」
言われるまでもなく、席は選び放題だった。雨のせいか、店内はまた一人も客がいない。
「千絵ちゃん。コーヒーの味、考えた直した方がいいんじゃない?」
「これ。客の前で何を言うの」
「だって、きっと先生この店で客の姿を見たことないよ」
ねぇ、と振り返った萌子は、石造のように固まっている久志を見つけた。
「せんせい?」
「え? あ、いや。で、では、失礼します」
誰に断っているのか、久志はギクシャクとした足取りで勝手にカウンター席に腰を降ろした。
「先生……?」
「もしかして、緊張してる?」
「あ、いや、君のご家族とお会いするというのは……」
「もしもし? これ、ただのおばさんよ?」
「ちょっと! 『ただの』ってなによ。『ただの』って」
千絵は萌子に向かってそう口を尖らせてから、久志に向かって優しく語り掛けるように(傍目にはニヤニヤと笑いかけているようにしか見えなかったが)、
「先生、それじゃ家庭訪問の時に困りますよ」
「いえ、私はあくまでも萌子さんの部活の顧問なので、家庭訪問はやらないんじゃないか、と思いますが……」
次の瞬間、萌子と千絵は思わず顔を見合わせてから、カウンターの内と外でいっせいに笑い転げた。
「そういえば」
千絵の入れてくれたアップル・ティを口にして、二人はようやく人心地がついた。真冬の雨に打たれて、思ったより体が冷えていたのだ。
「先生は、本当に画家さんなんですってね」
「はっ……」
少し落ち着いたとはいえ、久志は依然として律儀で堅苦しかった。そんな彼の様子を、千絵はむしろ楽しそうに眺めている。
「ま、画家の卵と言いますか、その、まだ受精もしていない卵子くらいのレベルで」
「ぶっ」
千絵はまた、俎板の前で思わず吹き出しそうになった。
久志は冗談を言ったつもりではないらしい。相変わらず生真面目そうな顔つきのまま、きょとんとした目をしてみせる。
「このまま、無精卵にならなければいいのですが」
萌子と千絵は腹を抱えて笑い出した。真面目に語っているところが、なお可笑しい。
「萌子。あんたの専属顧問、ホントにだいじょうぶ?」
萌子の耳元に顔を寄せて、千絵は久志にも聞こえるような声ではっきりとそう言った。
そんな揶揄にも、久志は気分を害した様子を見せなかった。ゆっくりと微笑む彼の穏やかさに、結局みんな参ってしまうのだ。千絵も毒気を抜かれたように、
「いえね。『画家』さんとして一つ、お願いがあるんですけどね」
と呟くようにそう言った。
「何ですか?」
「先生に、絵を描いてもらいたいんですの」
「絵、ですか?」
そう、と千絵は短く頷いて、
「このお店の絵を、ぜひ」
千絵のその台詞に、萌子と久志は同時に店内を見回した。
「うん。これだけ空いてりゃ、確かに描きやすい」
そう軽口を叩く姪っ子を、指先で軽く小突きながら千絵は、
「どうですか?」
久志はしばらく、その問いに答えようとしなかった。その目は、店内の構図を読み取っているようにも、ためらっているようにも見えた。
「……あの」
「はい?」
「私も一つ、お願いしてよろしいでしょうか」
「……」
久志の思いがけない台詞に、千絵は萌子と顔を見合わせた。
「何ですか?」
「このお店に、飾ってもらいたい絵があるんです」
「先生の絵?」
「いえ」
久志は一瞬、そう逡巡してみせてから、
「私の父の絵、なんです」
その瞬間、思いがけず萌子は胸を不規則に揺さぶられた。
久々に、久志の口から『父』という言葉を聞いた。たぶん、あの千光寺山で過ごした夕暮れ以来だろう。
まるで胎内にいる赤ん坊のように、自分の膝をぎゅっと抱きしめて背中を丸めた久志の姿が、唐突に目に浮かんだ。それから、駆け抜ける車輪の向こうで背を向ける自分の父の姿も。
久志への想いは、思えばそこから始まったのだ。ぽつんと宇宙に放り出されてしまったみたいな二人。彼となら、その寂しさを分かち合うことが出来る。久志と過ごす時間が多くなるに連れて、萌子はついそんな気持ちを忘れそうになっていた。
「お父さんの?」
「ええ。今はもう、行方も判らないのですが」
哀しみも憂いもなく、久志はただそう言って微笑む。あんなに情けなく思えた彼の笑顔が、その刹那不思議なくらい頼もしく見えた。
「そうなんですか……」
相槌の打ち方を忘れたみたいに、千絵は困ったように萌子を見た。萌子は千絵に向かって小さく一つ頷いてみせる。
その肯首をどう受け取ったのか、千絵は微かな笑みを浮かべて、
「お父さんも、絵描きさんだったんですか?」
「いえ。それこそ無精卵だったんですが」
久志はそう言って一人笑いを浮かべると、
「父は、一時この街に住んでいたことがあるんです」
「まあ、そうなんですか」
「ええ。それで、その時描いた風景画が家に残ってたんです。ちょうど」
久志はそう話しながら、背後を振り返るようにして、
「あの防波堤の辺りから描いた風景画が」
それで合点がいった。久志が何故、あそこからの風景を一番初めに見たがったのか。
「でも」
萌子はちらっと納得のいかない表情を浮かべて、
「あんまりあそこで絵を描いてる人、見たことないよね」
尾道は絵の街である。キャンバスやらスケッチブックやら、写生することに使えそうなものがそれこそそこら中に花開いている。海岸沿いの空き地から、名もない路地裏まで。
対岸の向島を描く人も多い。けれどもその場合、たいていは『ひこうき雲』の前よりもう少し桟橋寄りの場所でスケッチすることが多かった。
「そんなことないわよ」
幼子に優しく教え諭すように、千絵は静かに微笑んだ。
「昔、あの場所でスケッチしていた人がいたわ」
誰のことなんだろ。過ぎ去った恋を懐かしむようなノスタルジックな千絵の口調に、萌子は一瞬甘い想像を走らせた。
「でも、まさか、ね」
「え?」
「ううん。何でもないわよ」
何を訝しんだのか、一瞬眉をひそめた千絵はすぐに笑顔を取り戻して、
「見てみたいわ。その絵」
「そうですか。所詮素人に毛が生えた程度の出来だから、あんまり飾るのに相応しくないかもしれないけど……」
自分から言い出したくせに、久志は急に気弱になって父親の絵の出来にへりくだってみせる。
「そんなの構わないですよ。凡庸な名画の複製を飾るより、この街に縁がある人の絵が掛かっている方が、よっぽど良い」
千絵は、壁に掛かっているモナの肖像画を見ながら、そんな風に歓迎の言葉を述べた。
「その絵、先生の手元にあるんですか?」
「ええ」
久志は柔和な顔で頷いて、
「この街に来る時、押入れから捜し出して来ました。父が」
久志の口調も、どこかしら郷愁を感じさせるものに変わった。
「愛した街を、もっとよく知りたかったから」
「そうですか……」
久志の感傷が千絵にも伝わったのか、彼女はそうしみじみと頷いてから、彼女らしい性急な台詞を口にした。
「じゃあ、明日にもどうかしら」