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第一章 雨上がりの街で(2)


 カウ・ベルの乾いた音色。裾の滴を払う仕草。

 まだその時は何も意識していなかったはずなのに、それらの記憶は不思議なくらい、ずっと後まで萌子の脳裏に焼き付いたままだった。

 入って来たのは若い男だった。萌子が来た時よりも更に雨足が強くなったらしい。その男は薄い浅葱色のジャケットやスラックスに付いた滴をしきりと払った。左手に持った紺色の傘から、雨の滴が床にぽたぽたと落ちる。

 その傘の紺色と上着の浅黄色を見て、萌子はドキッとした。

 あの防波堤の前で佇んでいた男だった。手にした傘と上着の色に確かに見覚えがある。

 彼のスラックスの裾は、すっかり濡れそぼっていた。

 (あれから今まで、ずっと海を見てたのかしら?)

 萌子が『ひこうき雲』に入ってから、もうかれこれ2、30分は経っている。不意に、萌子の脳裏にあの寂しげな後ろ姿が蘇った。

 萌子のそんな不躾な視線にはちっとも気付かない様子で、彼はしばらく体中を払う仕草をしてから顔を上げると、

 「すいません。ブレンド一つ下さい」

 と告げて、入り口に一番近い4人掛けのテーブルに腰を下ろした。

 品の良い、正確な標準語だった。

 「ブレンド一個、ね」

 千絵が意味深げにそう復唱して、カウンターの中でくるりと背を向ける。

 萌子は盗み見るようにそっと斜め後ろを振り返った。

 彼は、雨に煙る窓の外をじっと見ていた。防波堤のそばに佇む姿と同じで、萌子にはその背中が何かを拒絶しているように感じられた。

 コトン、と乾いた音がした。

 萌子は首を元に戻してきょとんとなった。彼女の目の前に、新しい冷やタンとおしぼりが置いてある。

 「?」

 「あんたもね、もし請求書を出されたくなかったら少し働きなさい。ほら、お客さんの所にお冷やとおしぼり持って行って」

 千絵のとんでもない言いがかりに、萌子は呆れたように目を丸くした。

 「……まさか、こんな時のために餌付けされていたとは思わなかったわ」

 「ほらほら、ぐずぐず言ってないで早く早く」

 「ったく人使いが荒いんだから」

 萌子はぶつぶつ言いながらも渋々立ち上がった。

 千絵が面白半分でやっているのは判っていた。こういうところがちっとも大人になり切れていないのだ。時々、どっちが年下なのか判らなくなる。

 「……今度から、来るたびに時給を請求してやる」

 「何か言った?」

 「いえいえ」

 男の座ったテーブルの前に立つと、萌子は軽い緊張を覚えながら、

 「いらっしゃいませ」

 とわざと明るい声を出した。そうしてテーブルの上に冷やタンとおしぼりを静かに置くと、上目遣いで覗き見るように客の顔を見た。

 (20歳……22ぐらいかな)

 綺麗な顔をしている。そう思ってから萌子は、自分の抱いた印象に思わず赤面した。

 端正な、優しげな面差しだった。男にしてはいくらか色白なその横顔は、男らしさよりもどこか頼りなげな雰囲気を醸し出している。

 不意に胸の鼓動が早くなった。それは、今まで心臓が動いてなかったのかと思うくらい、唐突な出来事だった。

 (え?)

 どくどく、と心臓が不規則に暴れている。萌子は焦りを覚えて、視線を落とした。

 客の足元に荷物が二つ見えた。紺色のスポーツバッグと麻の手提げ袋。

 特に、手提げ袋は萌子の目を引いた。

 というのも、元は白かったと思われるその袋は、今は新品だった頃を想像することが困難なほど絵の具か何かで抽象画のように色付けされ、更に長い年月をかけて薄汚れ、ところどころ擦り切れてさえいたのである。

 それを彼は、後生大事に抱えて店に入って来た。

 ずいぶんと使い込んでいるなあ、と思いながら萌子は覗き込むようにヒョイと首を伸ばした。思った通りそこには、これまた薄汚れた絵の具箱らしき白い箱や筆といった画材が、無造作に放り込んであった。

 萌子には、それらが画材だと一目で見分けがついた。

 (絵を描く人なのかな)

 その想像に、萌子はまた胸を不規則に揺さぶられた。戸惑いに似た動揺を覚える。

 「ありがとう」

 しばらくのあいだ、萌子はちょっとぼんやりとしていたらしい。不意にそう声を掛けられて、彼女はびくっとして顔を上げた。

 いつの間にか彼は、目を落としていたガイドブックから顔を上げて萌子の方を見ていた。優しく微笑む鳶色の瞳と萌子の視線が出会った。

 萌子はどぎまぎして、ぴょこんと頭を下げると慌ててカウンターに戻った。

 「おかえり」

 きっと一部始終を見ていたに違いない。心底嬉しそうに千絵が笑顔でそう迎えた。

 「奴、何者?」

 「何者って、旅行してるんでしょ」

 さり気なさを気取った語尾が震える。

 「あの小汚いバッグ、何入ってた?」

 「何って……」

 「あんた、覗き込んでたじゃない」

 「……ホント、目敏いんだから」

 萌子はそう言うと、小さく深呼吸した。

 「絵の具ケース」

 「え? 絵の具?」

 「それと筆とか。絵描きさん、かもしれない」

 「ふ〜ん。絵描き、ねえ」

 興味津々、といった感じで千絵が萌子の背後を舐めるように軽く眺めた。

 「美男子な放浪画家、ねぇ」

 途端に萌子は吹き出した。

 「千絵ちゃん。それはあなたの好みってだけでしょ。それに今時『放浪画家』って……」

 「あら」

 いたって真面目な顔で、千絵がこう言葉を紡いだ。

 「尾道は、昔から多くの文人や画家に愛された街よ。志賀直哉が過ごし林芙美子が故郷と懐かしんだ所よ。いいじゃない、現代の無名の放浪画家が尾道を訪れたって」

 萌子が呆れ顔で、

 「千絵ちゃん。ところで『ブレンド』は?」

 そう忠告すると、千絵はポン、と手を叩いて、

 「あらいけない」

 とカウンターの奧へと歩いて行った。

 (放浪画家、ねえ)

 萌子はもう一度そっと振り返った。

 彼はガイドブックを右手で開いたまま、また窓の外の街を見つめていた。その姿は確かに、何かしらの事情を背負う『放浪画家』に見えなくもない。

 (美男子な……)

 千絵のもう一つの台詞を思い返して、萌子は少し頬を赤らめた。

 「はい。おまたせ」

 コトン、と音を立てて千絵が萌子の前に湯気の立つコーヒーカップを置いた。

 「当然、これもあたしが運ぶ訳ね」

 「もちろん」

 千絵がにっこりと微笑む。

 (絶対時給を請求してやる)

 萌子のそんな心の呟きに気付くはずもない千絵は、無邪気な顔で萌子の耳元に口を寄せてこうのたまった。

 「コーヒー持ってったら、ちょっと話し掛けてみなよ」

 「ええ!? やだよ、そんなの」

 何を言い出すの、といった風に萌子が千絵を軽く睨む。ところが千絵はちっとも応えていない様子で、

 「いいじゃない。これが出会いのチャンスかもしれないわよ。流浪の天才画家と尾道の少女の恋、なんて素敵じゃない」

 「千絵ちゃん」

 幼子を叱る母親のように萌子は千絵を睨んだ。

 「こんなところでナンパしてどうするのよ」

 ところが千絵はどこ吹く風で、

 「いつまでもそんなだから、薫ちゃんにどんどん差を広げられるのよ」

 こんなところで親友の名を持ち出されるとは思わなかった。萌子は肩をすくめて、

 「薫がやってるのは、ナンパじゃなくて慈善事業らしいわよ」

 そう切り返すと、付き合ってられないとばかりにコーヒーソーサを持って立ち上がった。

 萌子がテーブルに近付くと、『天才画家』さんはまたガイドブックに目を落としていた。

 千絵のことをすっかり馬鹿にしていたのに、萌子は彼の前に来て急にうろたえた。

 (これが出会いのチャンス……あかん。あたしゃ何を考えてるんだろ)

 千絵が後ろから見ている。そう思って萌子は、小さく頭を振って平常心を取り戻そうとした。

 「お待たせしました」

 努めて元気よく、萌子はそう言ってコーヒーカップをテーブルの上に差し出した。

 「ありがとう」

 穏やかな笑みで萌子を見上げて、彼はそう言った。それから少し遠慮がちな口調で、

 「あの、ちょっと訊きたいことがあるんだけど、いいですか?」

 と尋ねた。

 「え?」

 萌子は思わず声がひっくり返った。何だかんだ言っても、やっぱりどこかで彼を意識していたのだ。

 「な、何ですか?」

 無理矢理引きつった笑顔を浮かべた萌子を見て、彼は申し訳なさそうな口調になりながら、

 「いや、ちょっと道を訊きたかったんだけれど……」

 「どこまでのですか?」

 「うん。三田村不動産という所なんだけど」

 「三田村不動産?」

 訳もなく舞い上がって、まるで全校集会で壇上に上がったみたいに顔を火照らしていた萌子は、聞き慣れた名前を耳にするとホッとして急に平静を取り戻した。

 「三田村不動産なら判ります。ここから歩いて15分くらいの所ですよ」

 知ってるも何も、その不動産屋は母の古い知人がやっている店なのだ。その店の店主は、萌子からしてみれば近所のおじさんのような存在だった。

 「そう」

 その台詞を聴いて、彼は安心したようにホッと息を吐いた。

 「そしたら、そこまでの道順を教えてくれますか?」

 「いいですよ。あ、でも……」

 萌子も緊張がほぐれたように小さな笑みを浮かべながら頷きかけて、ふと思い出したように躊躇した。

 「何か?」

 「いえ。教えるのはいいんですけど、でも上手く教えられるかな?」

 尾道は坂の街である。JR山陽本線と国道2号線に隔てられるようにして、街は海の手と山の手に分かれている。海の手は商業区域で、山の手は住宅が多い。

 しかし三田村不動産が店を構えているのは、山の手の方である。

 比較的区画が整理されている海の手と違って、山の手はそれこそ迷路のように道が入り組んでいる。三田村不動産もそんな入り組んだ路地の途中にあり、坂の下には小さな看板が一つあるだけだから、初めて訪れる人にその所在を伝えるのは確かに困難な作業だった。

 それにしても次に萌子が発した台詞は、彼女自身どこからそんな考えが飛び出して来たのか想像もつかないものであった。

 「あの、じゃあそこまで一緒に行きましょうか?」

 「え?」

 何でこんなことを言い出したのか萌子自身びっくりしたのだが、もっとびっくりしたのは『絵描きさん』の方だった。彼は目を丸くして、

 「え、いやそれはいくら何でも悪いから……」

 とさすがに遠慮しかかった。

 「いえ。あの、どうせ帰り道だから……」

 急き立てられるように口を突いたこの言い訳は、ほんの少し嘘だった。

 確かに彼女の家は同じ山の手にあるが、萌子は三田村不動産の前を通らなくても家に帰ることが出来る。

 それにしても何でこんなことを言い出したのか。何だかとても取り返しのつかないことをしたような気がして、萌子は急にモゾモゾするような居心地の悪さを覚えた。

 ところが、『絵描きさん』は疑うということを知らない素直な性格らしく、萌子の台詞にちょっとだけ安心した様子で、

 「そうですか。それじゃお言葉に甘えさせてもらおうかな」

 と言って笑顔になった。

 それは爽やかな笑みだった。力強さではなく、気弱さとその裏返しの優しさを滲ませた、柔らかな微笑だった。

 「よろしくお願いします」

 そう丁寧な挨拶を返されて、萌子は慌てたように、

 「あ、いえ、そんな」

 と訳の分からぬ答え方をすると、またぴょこんと頭を下げてぱたぱたとカウンターに戻った。

 「どうしたん?」

 カウンターから一部始終を見ていた千絵が、不思議そうにそう尋ねる。

 「何でもあらへん」

 「何でもあらへんってあんた、茹で蛸みたいに顔が真っ赤やない」

 千絵はそう言って萌子の顔を覗き込んだ。

 「だから何でもあらへんって」

 「あの人と、何を喋ってたの?」

 「ん?」

 萌子は思わず返事をためらった。何を言っても、全部言い訳に聞こえてしまいそうな気がした。

 「えっとね。あの人、三田村のおじさんのとこに用事があるらしいのよ」

 「へえ。じゃあここに引っ越して来るのかしらね」

 「さあ。そこまでは訊かなかったけど……」

 「で?」

 「……それでね。帰りにそこまで道案内してあげることにしたの。ほら、あそこって道順が説明しづらいじゃない。だったら一緒に行ってあげた方が手っ取り早いかなって。まあ、家に帰るのにもそんなに遠回りじゃないしさ」

 普段はあまり取り乱すことなどない姪っ子の、必死になって弁解する姿を冷ややかな目で見ていた千絵は、やがて笑いを堪えるようにして、

 「つまり」

 ぽつんと一言、こう言った。

 「きっかけが出来ちゃった訳ね」

 「やだなあ。そんなんじゃないわよ」

 しばらくのあいだ、彼はコーヒーを口元に運びながらガイドブックや何やら書類に目を通していた。気に掛ける素振りなどこれっぽっちもない、という振りをしながら、萌子は何度となく彼の方を振り返って見ていた。

 やがて大きな荷物を二つ抱えると、彼が入り口のレジの方へと歩み寄った。萌子は慌てて自分の鞄を掴んだ。

 「ごちそうさまでした」

 『絵描きさん』はその爽やかな笑顔を千絵にも振りまいた。彼の人懐っこそうな表情に千絵も気持ちがほぐれたらしい。お代を受け取りながら小さく笑みを浮かべて、

 「こちらに引っ越して来るんですか?」

と尋ねた。

 「ええ。それで住まいを紹介してくれることになっている不動産屋の場所を探してたんです。あ、そうだ」

 と彼は萌子の方を振り返って、

 「彼女が案内をしてくれるそうなんですが、お借りしてもよろしいでしょうか?」

 「どうぞどうぞ。別にあたしの持ち物じゃありませんから」

 そんな千絵の軽口に、彼は打ち解けたように笑って、

 「申し遅れました。私、立花と申します」

 「これはご丁寧にどうも。私は澤崎です。こっちは……」

 普段の言動からは想像もつかない保護者ぶりを発揮して、千絵は萌子の頭を軽く押した。

 「姪の萌子です」

 「ど、どうも……」

 萌子はどうしようもなく照れた様子で、ぺこんと頭を下げた。

 「姪御さんですか。てっきり妹さんかと思った」

 「まあ、ずいぶんとお上手なことを」

 千絵は恥じらうように笑顔を作ったが、立花は案外お世辞で言った訳ではないらしい。真面目な顔つきでこう続けた。

 「そんなことないです。お若く見えますよ」

 そんな彼の一直線な瞳を、千絵は少し眩しそうに見つめてからこう尋ねた。

 「そちらこそまだお若いのに、転勤なんですか?」

 すると今度は彼が照れ臭そうな笑みを浮かべて、

 「実は私、福山にある高校に赴任することになっているんです」

 「あら、そうなんですか」

 これには、そばで聴いていた萌子もびっくりした。千絵は萌子の方を見やって、

 「この娘も福山の高校に通っているんですよ」

 「へえ。そうなんですか」

 そう言って彼は萌子を直視した。萌子は何となく視線を逸らしながら、

 (先生って感じじゃないな)

 と瞬時に思っていた。

 その思いは千絵も同じだったらしい。

 「先生には見えませんでしたわ」

 千絵がそう正直な感想を述べると、彼は困ったように苦笑して、

 「美術の代打教師で、実は教壇に立つのは初めてなんです」

 その瞬間、萌子はドキッとした。無意識の内に、ぴくりと体が震える。

 そんな姪っ子の表情の変化には全く気付かずに、千絵は好奇心の強い声で尋ねた。

 「そうでしたの。それで、何ていう高校なんですか?」

 美術の代打教師、と聴いた瞬間から、萌子はどうにも胸騒ぎが止まらなくなっていた。そういえば、今度来る教師は若い男だとクラスの誰かが噂していたような気がする。

 「福山女子高校、ていうんですけどね」

 「あらまあ」

 千絵はびっくりしたように目をまん丸にして萌子を見た。彼女の手からこぼれた小銭が、カウンターの上でちゃりんちゃりんと転がった。


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