第六章 キャンドルナイト(7)
昨夜の吹雪は、舞い疲れたように夜半過ぎに上がった。明け方まで淡く街を染めた雪も、萌子が家を出る頃には跡形もなく消え去っていた。
クリスマスは、前日と打って変わって鮮やかな冬晴れの空が広がった。窓の外には、瀬戸内の冬特有の眩い陽射しが満ちあふれている。
車窓から海が見えなくなる頃まで、体をよじらせてじっと窓の外を見ていた萌子は、ふっと一息吐いて態勢を元に戻した。
手にしていたペットボトルの蓋を開けようとして、思わず手を滑らせる。
「あっ」
萌子の手から滑ったペットボトルは、ころころと勢い良く車両の反対側まで転がって行った。斜向かいに座っていた初老の男性がそれを拾い上げる。
「……すみません」
萌子は恥らうように小さな声で謝ってペットボトルを受け取った。そして急いで自分の席に戻ると、小さくなりながらペットボトルのお茶を呷った。
今朝から万事この調子だった。とにかく物が手につかない。朝食の席でお茶碗を2度落とし、醤油の瓶を倒した。
昨夜は思ったより良く眠れた。人は、至福の時は眠れるものだと知った。
それなのに、目覚めて今日の予定を思い出した途端に、体調が一変した。
脈が速い。手先が痺れる。頭はボーとしたまま何の思考も入って来られない。
こんな時でなければ、すぐさま病院行きの症状だ。
久志とは1度、二人きりで過ごしたことがある。あの時、路地を一つ曲がるたびに覚えたワクワクした気持ちとはずいぶんとかけ離れた緊張感を、萌子は今感じていた。
こうなることを望んでいたはずなのに。萌子は宝くじで一等を引き当てたみたいに、すっかりてんてこ舞いになって、気持ちの余裕がなくなりかけていた。
11時より少し前に福山に着いた。改札を抜ければ、登城口はすぐそこだ。萌子は時計に目をやって、ちょっと早いかな、と思った。
(でも、何でお城の公園なんだろ)
その疑問は、二の丸広場に出てすぐに解けた。
コンコースを抜けて石垣と山陽本線の高架に挟まれた道を少し広島方面へ戻ると、やがて細い傾斜道が見えて来る。その坂道を登って、門をくぐると比較的広い広場に出た。
聳え立つ天守の前庭、といった趣の二の丸広場は、いくつかの現存や再建された建物が点在し、芝地を囲むように砂利道がくねくねと設けられている。
思ったよりも人影は少なかった。観光客や散歩を楽しむ初老の仲間たち、親子連れ。そこに、萌子たちと同世代の姿は皆無だった。
萌子は2度ほどこの広場を訪れたことがある。いずれも桜舞う季節で、1度目は子供の頃に母の手に曳かれて、2度目は福山女子高校に入学したての頃、下校途中に薫と歩いた。
それ以外に、ここに足を踏み入れたことはなかった。たとえ毎日のようにそのそばを通っていても。桜の花でも咲いていなければ、あまり足を向けるところではないかもしれない。
待ち合わせた11時にはまだ間があった。久志からの連絡もまだない。萌子は手近なベンチに腰を下ろした。
確かにここなら穴場だ。クラスメイトに見つかることもほとんどないだろう。
黒沢に疑われたように、久志と同じ傘の下に入ることがどれほど危ういかということを、萌子も十分に理解していた。尾道でならともかく、この福山の街や学校で親密な雰囲気を見られたりしたら、取り返しのつかないことになるかもしれないということも。
理解はしていたけれど、それがどれほどのことなのか想像はつかなかった。
そもそも、まともに異性とつき合ったことすらないのだ。教師とつき合うということがどんなもので、それがどれくらい辛いことなのか、比べる材料を持ち合わせていないから比較しようがない。
(だいたい、つき合ってるって言うのかなぁ、これ)
すっかり舞い上がったまま、萌子は結局また久志から肝心な言葉を聞きそびれたような気がしていた。もちろん、こうしてプライベートで逢ってくれることは果てしもなく嬉しいことなのだけれど。
(先生は、あたしのこと……)
どう思ってるんだろ。心の中で久志に対するわだかまりが反復しかけた刹那、手にしていた携帯が激しく震えた。
「着いてる?」
携帯越しに聴こえる久志の声は、とても不思議な感じがした。そんなさりげない非日常が、萌子の心をまた悪戯に掻き立てる。
「うん。ベンチに座ってる」
「ごめんごめん。今行くから」
待ち合わせた時刻まであと2、3分ある。別に遅れた訳でもないのにそうやって謝ってみせるところに、彼の人の良さが滲み出ていた。
久志は本当にすぐに現れた。律儀に門の手前から電話をして来たらしい。
眩しい光の中で、彼のシルエットがだんだんと大きくなっていく。期待と緊張に、萌子の胸はどんどんと膨らんでいく。
「ごめんな」
「ううん」
久志を見上げながら萌子は、しばらく動き出すことが出来ずにいた。
あんなにも焦がれ続け、絶望し、一縷の望みを抱き続けた想い。願い続けた夢が今、幸福な現実となって確かに目の前にある。それが、俄かには信じ難い出来事のように思えた。
「待った?」
「ううん。少しだけ。ちょっと早く着き過ぎちゃったから」
そう軽く首を振って、萌子はスカートの裾を払うように立ち上がった。
「映画館、行く?」
「ん? いや……」
萌子の問い掛けに、久志は何故か逡巡してみせた。不思議そうに小首を傾げた萌子に向かって彼は、
「見ようと思った映画は、まだ時間があるんだ」
そう言い訳めいた台詞を一つ吐いてから、
「なぁ。あそこ、登ってみないか?」
そう振り返って、そそり立つ白亜の壁を指差した。
福山城の天守に登るのは、生まれて初めてのことだった。入館料に二百円も取られるということも、初めて知った。
そのことを久志に話すと、彼はうんうんと頷いて、
「まるで、海沿いに住む子供の夏休みみたいだね」
「?」
「親戚の田舎が海沿いにあってさ。毎年夏に泊り込みで海水浴に行ってたんだ。俺はそれこそ毎日泳いでたんだけどさ。そこに住む従妹が言うには、地元の子供は泳ごうと思えばいつでも泳げるから、逆に滅多には泳がないもんなんだって」
久志の話に適当に相槌を打ちながら、萌子の思考は全く別のところにあった。
そのたとえ話が的確なのか、萌子にはよく判らなかった。ただその話の中で、久志に従妹がいることを萌子が知らなかったという事実だけが、心の中でふるいに掛けられて残った。
人は、愛する人のことをどれくらいまで知っていればいいのだろう。あたしはまだ、彼のことを何も知らない。そう、誕生日さえも。
これから、彼のことをどれだけ知ることが出来るのだろう。全てを知りたい、と彼を欲する気持ちと、このまま盲目でいたい、と思う臆病な気持ちの狭間で、萌子の心は揺れ動いた。
「先生の誕生日っていつなの?」
受付にいたのは、覇気のない初老の男性だった。黙って彼に料金を払いリーフレットを受け取った二人は、蛍光灯からこぼれる橙色の明かりの中を足早に進んだ。
天守は御多分に洩れずコンクリート製で、中は展示室になっていた。往時の城内の模型や、当時使われた生活品や武器・鎧兜・書物などが、雑然とも整然ともとれる並べ方で展示してある。
とりあえず、そんなことくらいなら尋ねても良いのではないかと自分に言い聞かせて、萌子はそう質問を投げ掛けてみた。
「俺の?」
久志は幾分照れ臭そうな表情を浮かべて、
「ここに来る前に終わっちゃったんだ」
「何日だったの?」
「9月15日」
「わっ、敬老の日」
「そう。だから、昔から『年寄りの日』ってよく苛められた。『今日は労わってあげなきゃね』とか言われてね」
久志はそう言って軽やかに笑った。
「……そっか。そんな先になっちゃうんだ」
久志の台詞につられたように笑ってみせてから、ため息ほどの間をおいて萌子は少し残念そうな声を出した。
「バレンタインでも、渡し足りなかったクリスマスプレゼントでも構わないよ。プレゼントは1年中受付けてるから」
久志はそう戯けてみせてから、
「それに来年のその頃も、きっとここにいるからさ」
「……え?」
「実はね、臨時講師延長の話をもらってるんだ。来年の春以降も、引き続き福女で講師をやってくれないかって」
「そうなの?」
使い捨てカイロに触れた指先のように、萌子は心の芯がゆっくりと暖かくなってゆくのを感じていた。頭の片隅で、やはり不安に思っていたのだ。春になれば、彼が去ってしまうかもしれない、ということを。
「じゃあ来年も、講師を続けるの?」
嬉しさを堪えきれず、つい浮ついた口調になりかけながら萌子がそう尋ねると、久志ははにかんだ笑顔を見せて、
「本当は、断ろうかと思っていたんだ」
「え……」
「君と、元通りに戻れないなら、って」
霧が晴れて視界が広がるように、萌子の中の不安が一つまた一つ解消されて、不思議なくらい穏やかな気持ちが心を満たしてゆく。
何故だろう。昨日までは、あんなに俯いて過ごしていたのに。
最後に、中世から続く福山の営みを紹介するフロアを抜けて、二人は五層目へと上がった。
薄暗かった階下のフロアに比べると、最上階は明るく開放的だった。その落差の激しさに、二人は思わず、
「ほぅ」
とおかしなため息を漏らした。
最上階は四方が大きく開け放たれていて、眩しいほどだった。その外に、人一人通れるくらいの回廊が備え付けられている。回廊を廻る欄干の赤は、外から見ると白亜の天守に鮮やかに映えて良いアクセントになっていた。
「わあ」
回廊に出て、萌子は改めて感嘆のため息を漏らした。
そこからは福山の街が全て見渡せた。東西にどこまでも広がる街並み。福山駅の高架の向こうには、駅前の小さなビル群が見える。その先は、小高い半島に挟まれた福山港まで景色が続いていた。こうして見ると、改めて福山が大きな街であることに気づかされる。
冬の澄み渡った陽射しを吸い込んで、街は心なしか霞んで見えた。
穏やかだった。天空から見下ろす師走の街からは、その喧騒まで伝わって来ることはなかった。
「先生、ほら学校」
ゆっくりと回廊を回り巽の方角を眺めた萌子は、久志を振り返ってそう指差した。
「うん」
久志もその方角を見つめ、目を細める。
ふくやま美術館と広島県立博物館のその先。逆光の中にミニチュアのように浮かぶ通い慣れた校舎を、二人はしばらく黙ったまま見つめていた。
「ごめんな」
不意に、久志がそう呟く。
「え?」
「こんな風にしか、逢えなくて」
久志は少し悲しそうに微笑んで、
「変だよな。前は、一緒に学校に通っていたくらいなのにな」
萌子は黙って小さく首を振った。構わないのだ、どんな形でも。
(あなたと心が通じ合っていれば)
そう口に出したかった。けれども、想いは言葉にならなかった。
「これ、さ」
しばらく萌子のことをじっと見つめていた久志は、気を取り直したように手にしていた紙袋を萌子に差し出した。
「1日遅れだけど……」
「え?」
「あ、でもいいのか。今日がクリスマスだもんな」
久志はそう自分を納得させるように頷くと、
「サンタさんからのプレゼントを、預かって参りました」
と萌子に向かって仰々しく紙袋を奉げて見せた。
「……これって」
「いいから、いいから。開けてごらん」
久志にせっつかれるまま、萌子は戸惑いながら中から紙包みを取り出し、包装を解く。
中から出て来たのは、淡いベージュのマフラーだった。萌子が目を丸くして久志を見上げると、彼は嬉しそうに笑ってそのマフラーを萌子の首に掛けた。カシミアの柔らかな感触が、彼女の首筋をふんわりと包み込む。
「萌子の、大人化計画第1弾」
「え?」
見ると久志は笑っていた。それにつられるように、萌子も笑顔になった。
秘密の恋。
そんな言葉が、不意に胸をかすめる。そういうのも、いいかもしれない。そんな風に、萌子は思った。
「さ、飯でも食べて映画を見に行くか」
「はい」
久志の問い掛けに萌子は元気よく頷いてから、茶目っ気たっぷりにこう付け加えた。
「今日の目的は、あくまでも美術部の校外活動。ですよね? センセ」