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第六章 キャンドルナイト(6)

 「萌子なの?」

 玄関の扉が開く音を聞きつけて、奥から玲子の声が飛んで来た。

 「うん。ただいま」

 「遅かったじゃない。薫ちゃん、手伝いに来てくれてるわよ」

 「ごめんごめん」

 そう言って台所の暖簾をくぐろうとしたところで、萌子は薫とかち合わせた。

 一瞬二人は、『ただいま』も『おかえり』も口にすることが出来なかった。交差する視線の中で、言葉にならない問いと答えが行き来する。

 やがて、薫がゆっくりと柔らかく微笑んだ。

 「おかえり」

 「うん……」

 「手伝ってくれる?」

 「うん。じゃあ着換えてから……」

 そう告げて、萌子は2階に上がった。

 急がなきゃ。と思いつつも、萌子は誘惑を堪え切れずに、ついキャンバスを取り出してイーゼルに立て掛けてみてしまった。

 キャンバスの中で、無垢な少女が遥か彼方を見つめていかる。すっと伸ばした指先に、未来を宿しながら。

 『先生ダメだよ』

 完成したばかりの素描を見て、萌子は気恥ずかしさを打ち消すようにわざと声を荒げて久志を睨んだ。

 『嘘描いちゃ』

 『俺の指先は』

 萌子の照れ隠しを、久志も予測していたのだろう。彼はそ知らぬ風を装って、

 『ウソは描けないんだ』

 と嘯いてみせた。

 萌子はしばらく自分の、自分とは思えない横顔に見惚れていた。

 次第に頬に赤みが差して来る。まるで久志の握る絵筆で着ているものを全て剥がされ、慰みを施されているみたいだった。心の奥底を弄られるように、めまいに似た熱情が体の芯を迸る。

 大きく深呼吸をして、萌子は携帯を取り出した。さっき入力したばかりの久志の携帯番号を呼び出す。

 胸が震えた。緊張が蘇る。

 親指を数秒、携帯の上で惑わせてから、萌子は少し強めに発信ボタンを押した。



 久志からのメールに気づいたのは、食事をしている最中だった。いつ来るかと肌身離さず持ち続けた萌子のスカートのポケットの中でそれは、一際存在感を示すように激しく身悶えた。

 すぐに気づいたけれど、何となくみんなの前でチェックをするのが嫌で、萌子は皆の食事が片づくまで首を長くして待った。そしてデザートとの合間に、何か用を思い出したふりをして階段を駆け上った。

 部屋に入るのももどかしく、萌子は携帯の画面を開いた。

 『さっきはありがとう。おかげで無事脱出できました。


 今、一人寂しく尾道ラーメンをディナーして帰るところ(笑)


 明日、11時に福山城の公園で待ち合わせませんか?

 見る映画は任せてください。


 明日、楽しみにしています(ハートマーク)』

 「ぶっ」

 見るなり萌子は思わず吹き出してしまった。

 「ハートなんか、使ってる……」

 一生懸命絵文字を使う久志の姿が妙にいじらしくて、萌子は知らず知らずの内に一人微笑みを浮かべていた。

 「もえこ?」

 唐突にそう呼び掛けられて、萌子はハッとして振り返った。

 ドアの隙間から、薫が不審そうな顔を覗かせている。

 「どうしたの? そろそろ千絵ちゃんのケーキ、食べるよ」

 「あ、うん。ごめん」

 妙にうろたえる萌子のことを、薫はしばらく物問いたげな表情で見つめた後で、

 「……入っても、いい?」

 と尋ねた。

 「うん……」

 萌子はこわばった表情のまま小さく頷いた。

 部屋に足を踏み入れてすぐに、薫はその存在に気付いた。

 「……先生が、描いてくれたの」

 物も言わず少女の横顔に見入っている薫へ、萌子はそっと声を掛けた。

 入って来れば、キャンバスに気づくのはすぐだと判っていた。気づかれれば、説明しない訳にはいかないことも。判っていて、薫を部屋に招き入れたのだ。

 「……いつ?」

 「今日……」

 薫はしばらく黙って萌子の顔を見つめていた。目の前にある数式を、時間を掛けて噛み砕き理解するかのように。

 「そっか。それで、か……」

 そう呟いて、薫が窓辺に寄る。

 曇った窓ガラスを開け放つと、まだ降り続く雪模様が見えた。家々の屋根は薄化粧を施され、尾道の街は白く輝いて見えた。

 「……おめでと」

 「え?」

 「おめでと、なんでしょ?」

 「うん……」

 叱られた小さい子供のように、萌子は視線を俯かせて、

 「怒ってないの?」

 「あたしが? 何で?」

 薫はちょっと意外そうな表情を浮かべてから、薄く笑って、

 「喜んで良いのかしらね。それとも悲しむべき、かしらね」

 そう肩をすくめる仕草をしてみせた。それから、あの天使のような笑みを浮かべると、

 「おめでと。良かったね」

 「薫……」

 不意に涙が出ると、もう止まらなくなった。泣きじゃくる萌子を軽く抱き寄せるように、薫はそっと腕を伸ばした。

 「ごめんなさい……」

 「何言ってんの」

 「でも……」

 「謝っちゃダメよ」

 幼子を教え諭すように、薫は優しい声を出して、

 「それが、龍太のためなんだから」

 薫に何度そう言われても、萌子は彼女の腕の中で、

 「ごめんなさい、ごめんなさい」

 そう繰り返すばかりだった。


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