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第六章 キャンドルナイト(5)

 心臓が、トクトクと音を立て始めるのを感じた。知らず知らず体の奥の方から、心地よい感覚が湧き上がって来る。

 (いまなんて……)

 頭の中が真っ白だった。彼の発した言葉の意味も判らず、ただ心だけが浮ついた予感に先走っている。

 びっくりしたように萌子が目を見開いて見つめると、久志は恥らうように視線を背けた。

 「君と、あの時みたいに話せる日は、もう来ないと思ってたから」

 そう呟いて、久志は顔を上げる。萌子を見つめると、いくらか興奮した面持ちのまま口元をぎゅっと引き締めて、そして小さく頷いて見せた。

 (あの時……)

 言葉にしなくても、萌子にだけは判った。夕暮れの風。金色に染まる水面。千光寺山から見えた景色。穏やかな気持ち。共鳴する想い。

 その瞬間、萌子の中で何かがほどけた。

 彼も、本当は戻りたかったのだ。あの安らぎに満ちた夕暮れの二人に。

 萌子の胸の内に、どんどん晴れやかな気持ちが広がってゆく。嬉しさに、泣き出してしまいそうだった。心の中に、あの満ち足りた切なさがだんだんと戻って来るのを感じる。

 (ああ、そうか。私の心は、いつの間にか時計の針を進めることをやめてしまっていたんだ)

 戻れるのかもしれない。願いが叶う、というよりそれは『戻れる』という感覚だった。久志の存在を近しく思えること。それだけあれば、萌子は十分だった。

 久志を見つめた。久志も萌子を見つめ返した。二人の鼓動が互いに伝わっていくように、萌子の胸を早鐘が打ち続ける。

 どれくらい、そうやって見つめ合っていたのだろう。胸が躍るような、面映ゆいような、柔らかく暖かな時間。

 ふと、久志が何かを思いついたように表情を動かした。

 「なあ」

 「……はい?」

 「腹、へらないか?」

 「え?」

 そう言われて初めて、萌子もわずかな空腹を感じた。

 緊張が解けたのかもしれない。ここに来るまでは、とても食事などする気分ではなかった。

 「昼飯は食べた?」

 「ううん。まだ」

 (ご飯食べに連れてってくれるのかな?)

 萌子の中で虫の良い考えがちらっと頭をかすめた。とりあえずお腹を落ち着かせて。それから、聞きたいことは山ほどあるのだ。

 「パーティー、しないか?」

 しかし、久志の口を突いて出た台詞は、思いがけないものだった。

 「え?」

 「ここで、さ」

 「???」

 『?』マークをいくつも頭の周りに飛ばして、萌子は困惑した顔つきで首を傾げる。

 そんな萌子に久志は優しく微笑み掛けて、それから茶目っ気たっぶりな顔をしてみせた。

 「二人だけの、クリスマス・パーティーをしようよ」



 思惑通り(?)万札をゲットした萌子は、久志に買出しを命じられた。

 「とりあえず、チキンだな。ケンタッキーでいっか。それからショートケーキを2つ。飲み物もいるなぁ。あ、でもアルコールはダメだぞ」

 こんなにはしゃいでいる久志を見たのは初めてのことだった。嬉しさ半分、戸惑い半分といった気持ちで、萌子は困惑気味に久志を見やった。

 「雇われ教師なんだから。見つかったらクビになっちまう」

 「部室でパーティーやるのは、クビの対象にはならないんですか?」

 萌子は茶化したつもりでそう言ったのに、途端に久志は妙に真剣な表情になって考え込んでしまった。

 「う〜ん」

 腕を組んでそう唸ってから、

 「部屋、暗くしとくか」

 とにもかくにも、そうして萌子は買出しへと部屋を追い出された。

 「そのあいだに部屋、整えておくから、な」

 とりあえず駅前に出てチキンを購入する。それから、その近くのお気に入りのケーキ屋に立ち寄った。

 どこへ行ってもえらく混雑していた。イブの華やぎに憑りつかれたように、街中に人があふれ返っている。

 けれども、そんな騒然とした雰囲気も待ち時間の長さも、萌子はまるで気にならなかった。

 教室を出てからずっと、まるで雲の上でも歩いているかのようにふわふわとした気分に包まれていた。実を言うと、ここまでどうやってたどり着いたのかいまいち記憶が定かでない。

 (ウソみたいだ)

 ここまでの道すがら、その一言がずっと頭の中を廻り続けていた。

 本当のことを言えば、まだ久志の口から何一つ聞き出した訳ではない。また得意の早とちりではないかと、萌子は何度も頬をつねりたい気分になった。

 (でも……)

 『君とは、もうダメなんだと思ってた』

 でもその一方で、確信めいた気持ちが彼女の胸の中でだんだんと膨れ上がって来ているのもまた事実だった。

 (フラレちゃったのかしら)

 もちろん先生が、ね。黒沢の顔を思い浮かべながらそんなことを考えて、萌子はつい愉快な気分になった。

 (でも……)

 彼は確かに言った。『あの時みたいに話せる日』を待っていた、と。

 レジの順番を待ちながら萌子は、通りに面した大きなガラス越しに道行く人の顔を眺めていた。

 みんな、幸せそうだった。この世に不幸など何一つ存在しないかのように、明るい笑顔で足早に通り過ぎて行く。ついさっきまで自分はそんな幸せとは無縁な、群れからはぐれた渡り鳥みたいな気分だったはずなのに。

 とても不思議な気分だった。瞬き一つすれば消えてしまう、儚い夢を見ているような気がする。

 けれども、萌子の手にはチキンの入った袋があり、そして彼女は今確かに2人分のショートケーキを買おうとしていた。

 (しっかりしなきゃ)

 ケーキと共にその店で売っていた低アルコールのシャンメリーを買い、最後に百円ショップに寄ってから、萌子は足早にコンコースを抜けて北口へと出た。

 見上げた空は、寒々とした灰色だった。雪の前触れの空。そんな曲のフレーズが頭に浮かぶ。吐き出した息が、目の前で白く舞い上がった。

 (そう。ちゃんと確かめなきゃ)

 落葉を踏みしめるように石垣沿いの道を急ぎながら、今朝よりは明らかに穏やかに落ち着いた心持ちで、萌子はそんな風に思っていた。もう、何も間違えたくない、と。

 時計の針はすでに午後の1時を大きく回っていた。こんな時刻になると、下校して来る生徒の姿もまばらだ。

 ましてや、こんな日にいまさら学校へ戻る者など皆無である。萌子は自分の姿を見咎められはしないかと、内心ドキドキしていた。

 「……え?」

 周到に周囲を見回してからそっと扉を開けた萌子は、部屋の暗さに戸惑って思わず立ち尽くした。

 「あ、来た来た」

 久志が嬉しそうに、暗がりから姿を現す。

 「先生、これ……」

 「この方が雰囲気、出るだろ?」

 暗い、と思ったのは、窓という窓全てのカーテンが締め切られていたからだ。

 (まさか先生本当に……)

 美術室の中はやけに広々としていた。描き散らかされていたキャンバスは全て隅の方へ追いやられて、その代わりに白い布に覆われた小さなテーブルと椅子が二つ、真ん中に置かれている。

 そのテーブルの上に、奇妙なものがあった。

 金色をしたそれは、一見変わった燭台に見えた。中央に皿があり、そこに蝋燭が一本立っている。

 その金の皿を取り囲むように、たくさんの天使が宙を舞っていた。薄い金の板で出来ているそれらは、燭台から方円状に幾筋も伸びた細い棒に繋がって、不安定に揺れている。

 「準備室で、見つけたんだ」

 萌子の視線の行き先に気づいて、久志はそう教えてくれた。

 「準備室?」

 「ああ。たぶん……」

 久志は、萌子と対峙するような位置からゆっくりとテーブルに歩み寄ると、

 「昔、生徒か誰かが作ったんじゃないかな」

 「え?」

 「ほら、見てみな」

 そう言って久志が指差す部分を、萌子もテーブルに近づいて覗き込んだ。

 「ホントだ」

 精巧な造りだけれど、確かにところどころ売り物にはない粗さが垣間見える。手作りな感じが、素朴な味わいとなって滲み出ていた。

 「きっと、卒業した生徒が置いてったんじゃないかな」

 久志の声に反応するように萌子は顔を上げた。想像したよりずっと近くに彼の顔があって、萌子は思わずドギマギした。

 恥ずかしがり屋の二人は、見つめ合う間もなくさっと顔を背けて距離を開けた。

 「これね、面白い仕組みになってるんだ」

 「え?」

 そう小首を傾げた萌子に久志は、

 「見ててみ」

 と悪戯っぽく笑い掛けて、ポケットから取り出したライターを燭台に近づけた。

 蝋燭に灯された火がしばらく不安定に揺らめき、やがてその姿を真っ直ぐに立たせ始めた頃、唐突に音もなくゆっくりと天使たちがその炎の周りを回り始めた。

 「……え?」

 それはまるで、メリーゴーランドの模型のようだった。ゆっくりと、ゆっくりとしたスピードで天使は静かに回り続ける。

 「……きれい」

 「どういう仕組みに、なってるんだろうな」

 魅入られたようにテーブルに顔を寄せた萌子を見て、久志は満足げに腕を組んでそう呟く。

 「君には、1度驚かされてるから」

 「え?……」

 「あの日、千光寺山で……」

 「…………」

 「これ、この学校に来てすぐに見つけたんだけどね。あの日からずっと、いつか君にこれを見せて驚かせてやろうと思ってたんだ」

 声にならなかった。胸が詰まって言葉が上手く出て来ない。とめどない感情が堰を切ったように胸の内にあふれ出して来る。

 信じていいんだ。今、彼といるこの瞬間を。

 あの時。久志と黒沢の二人を目撃した瞬間から。ずっと途切れたままだった時間がやっと繋がった。萌子はそう思った。もう2度と、繋がることはないと思っていたのに。

 真実はまだ判らない。けれども当てにならない萌子の第六感が、強く告げていた。

 (もう、信じてもいいんだよ)

 「あれ。なんか湿っぽくなっちゃったな」

 黙り込んでしまった萌子を持て余すように、久志はボリボリと頭を掻いて、

 「さ、パーティーパーティー。腹が減ったぞ」

 無理に戯ける久志の姿を見て、萌子は泣き出しそうな顔で思わず笑った。

 テーブルの上に百円ショップで購入して来た紙コップと紙皿とナプキンを並べながら、

 「なんか……」

 「え?」

 「何か、幼稚園のクリスマス会みたいだな」

 久志のそんな台詞に、萌子はくすくすと笑った。

 たった今、萌子もそれと同じことを考えていた。同じ物を同じ視線の高さで捕らえられる。久志の、そんな存在の至近感が萌子にはとても好ましく思えた。

 私と少し似た男の人。

 その気後れした笑顔に、人見知りな優しさに惹かれる時よりも、自分と似通った部分の多さを感じる時にこそ、彼を欲する気持ちがより強くなる気がする。

 もっと知りたい。魔法が解けたように、萌子の気持ちはだんだんと貪欲になっていた。

 「幼稚園生が飲んだら、酔っ払ちゃうかしら」

 萌子は茶化すようにそう笑いながら、紙袋からシャンメリーを取り出すと、久志に向かってちらちらと振ってみせた。

 「おいおい。そんなに振り回したら、開ける時に吹き出しちゃうよ」

 「あっ」

 萌子は思わず口に手を当ててから、

 「せんせい、開けて」

 とにっこり笑って瓶を差し出した。

 何だかやけに楽しかった。久志との距離があの頃まで戻って、そこからぐんぐん近づいて来るみたいだ。

 それから、二人で乾杯をした。紙コップを合わせただけでは『ぐしゃ』という音しかしなかったけれど、今の萌子にはどうでもいいことだった。

 「良く出来てるなぁ」

 よっぽど腹が減っていたのか、ケンタッキーとショートケーキを同時に頬張りながら、久志はビーズ製の熊を掌に乗せて眺めた。

 「手先、器用なんだね」

 久志らしい実直な褒め言葉だった。萌子は思わず俯いて、

 「それだけが、取り柄ですから」

 と呟いた。

 こんなに心を近く感じていても、いやだからこそ、久志に一声掛けられるだけで胸が破裂しそうになる。日焼けした後にシャワーを浴びた肌みたいに、全身がひどく過敏になっている。

 その痛みが、心地よかった。

 「しかし、参ったな」

 「どうしたんですか?」

 「いや、ね」

 熊を掌に乗せたまま、久志は急に困惑した表情を浮かべて、

 「俺、何も用意してないよ」

 「それは……」

 自分が身勝手だから……。そう謝りかけて、萌子は不意に意地悪を思いついた。

 「カラオケ合コン用のプレゼントは用意したんですか?」

 途端に、久志は目を『白黒』させてむせ返った。

 「何でそれを……」

 久志のあまりに正直な慌てぶりに、萌子は思わず腹を抱えて笑い出した。大笑いしている彼女を仏頂面で眺めながら、久志はぼやくようにこう言った。

 「仕方ないだろ。一緒に過ごしたい相手とは、すっかり音信不通だったんだから」

 ドキッとした。

 紙コップを掴んでいた指先まで、一気に凍りついたような気がする。いきなり奈落の底に突き落されたみたいな感覚。過剰な期待と拭い去れない不安が、胸の中で激しく交差する。

 (一緒に過ごしたいって……)

 誰のこと? 

 最初から最後まで、萌子は胸に湧いた疑問を一つも口にすることが出来なかった。

 告げてしまってから、自分の吐いた台詞の重要性に気づいたのだろう。久志は急におどおどした態度を見せて、

 「ただ、佐藤先生に誘われたから仕方なかったんだ。他に断る用事もなかったし」

 (何故、他に用事がなかったの?)

 思いが上手く声にならない。問い掛けることの出来ない自分の意気地なさに、萌子は胸苦しさを覚えた。

 (忘れ物してるよ)

 臆病になりかけた心に、千絵のおおらかな笑顔がそう語り掛けた。

 その瞬間、彼女の心にほんのわずかな勇気が生まれた。スプーンひとさじ分ぐらいの、小さな勇気が。

 「どうして……」

 「え?」

 それでもやっぱり、少し声が震えた。

 「どうして今夜、黒沢先生と一緒じゃないんですか?」



 今度は確かに、長い沈黙だった。

 萌子がそう問い詰めた刹那、久志は声もなくただ驚いたように目を見開いた。その驚きの本当の意味を、萌子は窺い知ることが出来ない。

 久志はそのまま、萌子のことを見つめ続けた。忙しなく瞳を動かしながら。その姿は、伝える言葉を必死に探しているようにも、言い訳に苦慮しているようにも見えた。

 萌子は息を詰めて答えを待った。もう逃げ出さない、そう一心に決めて。

 知りたいのだ、と思った。確かな真実を。

 視線をまっすぐに萌子に投げかけたまま、やがて久志がそっと口を開く。

 「いいこと、思いついた」

 「……?」

 「クリスマスプレゼント」

 「え?」

 「こっち来て」

 久志は邪気のない笑みを浮かべて、自分の腰掛けていた椅子を窓際に出来たスペースに引きずり出すと、萌子を手招きした。

 「ここ、座って」

 何がなんだかさっぱり訳が判らなかった。まるで萌子の気負いをはぐらかすかのような言動だった。

 (答えになってない)

 そう反発しかけた気持ちはしかし、鳶色の美しさに吸い込まれてしまったように、久志と目が合ってすぐにすっと消えてしまった。

 萌子は割りと従順に、彼の指示通り窓際に歩み寄った。

 「ちょと待っててな」

 萌子を椅子に座らせると、そう言って久志は美術室を出て行く。

 ほどなくして戻って来た彼は、小さなキャンバスを一つ抱えていた。隣の準備室から取って来たらしい。

 「……せんせい?」

 そのまっさらなキャンバスを、他の画が掛かっていたイーゼルと掛け替えて自分の真正面に据えるのを見て、やっと萌子は久志が何をやろうとしているのか気づいた。

 「一体何を……」

 「ごめんな」

 イーゼルの足元にデッサンの用意をしながら久志は、

 「さすがに色は施してられないや。時間は、ある?」

 「……6時くらいまでなら」 

 萌子の答えに久志は満足したように軽く頷いて、

 「それまでに、仕上げる」

 気づいた瞬間から、胸の震えが止まらなくなった。頬に自然と赤みが射す。それは、神に仕えるより遥かに崇高な儀式で、裸になるよりも遥かに恥ずかしい行為のような気がした。

 久志に自分の姿を描いてもらうなんて……。

 (あたしなんか……)

 即座にそう思った。どんなに美しく仕上げてもらっても、いや美しければ美しいほど恥ずかしさが増すような気がする。

 (でも……)

 見てみたい、とも思った。久志の瞳というフィルターを通して、自分がどう映っているのか知りたい。

 低アルコールのシャンメリーに酔ったように、萌子は全身が心臓になったみたいにドキドキしながら、綿菓子の上を歩くみたいにふわふわとした気分になっていた。

 ダメだ。そうやってまたうやむやにしてしまったら。何の脈略もなく龍太の顔が浮かんだ。ダメだ。何のために……。

 「……どうしてさ」

 「……え?」

 萌子を窓の方に向かせて、その横顔を萌子が恥ずかしさを覚えるくらいじっと見据えてから、すっとキャンバスに向かった久志は、誠実な性格そのものに真摯に手を動かし続けた。

 「どうして、黒沢先生、なの?」

 言葉足らずな久志の台詞も、萌子にはすぐに理解出来た。彼女は凝り固まったようにまっすぐ保っていた姿勢を崩して、首だけを回すように久志を見やった。キャンバスから顔を上げた彼と、一瞬視線が触れ合う。

 「……見たんです」

 「?」

 気づかぬ内に、体が小刻みに震えていた。怖いのか、興奮しているからなのか。

 「先生と、黒沢先生が高松町のホテル街を歩いているところを」

 再び、沈黙が教室の中を支配した。肯定を示す沈黙。萌子は心が揺らぐのを感じた。

 「……出て来るとこ、見たのか?」

 「一緒にいた薫が、見たんです」

 久志は黒沢とまるで同じ台詞を吐いた。萌子は、今度は正確に答えてみせた。

 久志のその言葉は、崖っぷちで揺らぐ萌子の心に最後の一押しを加える一言だった。あんなに覚悟を決めたはずだったのに、萌子の心は呆気なく崖下へと落下していく

 (でも、それは過去の話。今、先生は……)

 そんな風に藁をも縋るような自分の心境が、かえって惨めで滑稽だった。

 「何も、なかったんだ」

 心を貝のように閉じかけていた萌子は、久志の声の悲痛な響きに驚いて俯きかけた顔を上げた。鳶色の瞳と、再び出会う。

 久志は悲しげに萌子を見つめていた。後悔、残戯、苛立ち、悲痛。さまざまな苦しい思いを、その瞳に込めて。

 「部屋にすら、入っていないんだ」

 信じようよ。

 唐突に、萌子の頭の中で誰かがそう囁いた。

 いい歳をした男女がホテルの入り口まで行って引き返して来ただなんて、今どき幼稚園児でも信じない戯言だと思う。

 でも、萌子は何故か久志のそんな世迷いごとを信じる気になった。

 思えば、あの千光寺山で聞かされた彼の身上も、容易く信じられるような話ではなかったのだ。あの時信じた気持ちを、大切にしたかった。

 (先生は、そんなややこしいウソをつける人じゃない)

 「フロントで、彼女が泣き出してしまったんだ。あ、いや、別に無理矢理連れ込んだとか、そういうことじゃないよ」

 自分の台詞があらぬ誤解を受けると気づいたのか、久志は慌てて口早にそう言い訳をした。その慌てふためきぶりが妙に可笑しくて、萌子はつい表情を緩めた。

 そう。先生はそんなややこしい嘘を、上手につける人じゃない。

 「僕はその、仕方なくというか、つき合わされたというか……」

 「どうして、そんなところに行ったんですか?」

 「え?」

 久志が視線を上げた。萌子は相手を落ち着かせるように、緩やかに微笑んでみせた。萌子の意思を確かめるように、久志はじっと彼女を見据える。

 「……頼まれたんだ」

 「え?」

 「一緒について来て欲しいって。ついて来てくれなきゃ、ベッチャー祭りの日に僕と君が一緒にいるところを見たと、学校に言いふらすって」

 久志は、ため息と共にそんな台詞を吐き捨てた。

 (それは『頼まれごと』じゃなくて、単なる『脅し』じゃないの?)

 萌子はそう思ったけれど、たぶん久志は『脅された』なんて言える性格ではない。

 「学校で変な噂が流れたりしたら、君も僕も学校にいられなくなるかもしれない。そう思うと……」

 久志は一瞬そう言いよどんでから、萌子の方を向いて、

 「前を向いて。続きを描くから」

 萌子は慌ててカーテンの方を向いた。蝋燭の炎に照らし出されて、自分の影が大きく揺らいだ。その周りを天使たちが緩やかに廻っている。

 夕暮れが近いのだろうか。蝋燭の明かりが部屋の陰影をくっきりと壁に映し出し、揺らめく。美しい、幻想的な光景だった。その中で、久志の走らせる素描の音と彼の落ち着いた声だけが響いた。

 「黒沢先生とは、ここに赴任した当時からよく話が合ったんだ。歳も近かったしね。休みの日に映画に行ったこともあるし……」

 「竹原にも?」

 姿勢を正したまま萌子がそう口を挟むと、久志の驚く気配がして、

 「人の口に戸は立てられないね」

 ちょっと呆れたように苦笑いを浮かべたのが判った。

 「……あの日は、黒沢先生から飲みに誘われたんだ。一緒に飲んだのは初めてで、彼女はもの凄く酔っ払っちゃって」

 久志はそう言いさして、わずかに黙りこんだ。彼の緊張が萌子にも伝わる。萌子は思わず身を硬くした。

 「こう、訊かれたんだ。『澤崎さんのこと、好きなんですか』って」

 その刹那、胸を痛みが貫いた。甘く、切ない感情が傷口から広がる。

 「前から、疑っていたらしいんだ。君や薫君と一緒に登下校していることを、暗に注意されたこともある。だから、君たちと一緒に通うのを止めようと思ったんだ」

 何故、諦めてしまったのだろう。

 久志の口から一緒に通えなくなるという台詞を聞いた時、やっぱり少しだけ諦めの気持ちが入ってしまっていたのだろうと、今にして思うとそんな気もする。

 そんな気持ちがあったから、その後訪れた出来事を当たり前のように受け止めてしまったのかもしれない。

 「……ホテルに入って、彼女は自分のしようとしていることに今更ながら気づいたみたいで。フロントの前で泣き出してしまったんだ。『やっぱりやめましょう』って」

 あの時。萌子は、ホテル街を足早に抜ける二人の姿を思い起こしていた。

 よく考えれば、実に簡単なことだったのだ。手を繋ぐ訳でもなく、少し距離を置いて歩く姿は、恋人同士のそれではなかった。

 「誤解、だったんだね」

 「……え?」

 「君が、部活に現われなくなった理由は」

 「……うん」

 「僕も、誤解していた」

 「え?」

 「君が僕を避けるようになったのは、僕に気を遣ったんだと、ずっと思ってた」

 「?」

 意味が上手く汲み取れなかった。萌子はカーテンの方を向きながら小首を傾げた。

 久志は、なかなか次の言葉を継ごうとしなかった。再び、キャンパスの上を走る筆の音だけが部屋の中に響く。

 「君と……」

 「……え?」

 「君と、龍太君はどんな関係なの?」

 驚きをそのままに、萌子は弾かれたように振り向いた。久志は見咎めることなく、そっと萌子を見返した。

 鳶色の瞳が不安に揺れていた。

 その刹那、萌子は二人のあいだにとても大きな誤解が横たわっているのに気づいた。風船の空気が抜けていくように、萌子の中で張り詰めていた何かが急速にしぼんでいく。

 誤解なんだ。不安が安らぎに化学変化を起こす中で、萌子は安堵に似た疲労を感じていた。何で、こんなに遠回りをしてしまったのか、と。

 「誤解です」

 久志の瞳をじっと見返して、萌子ははっきりとそう答えた。もう間違えたくない。そんなことで、久志との絆を失いたくない。もう何も、見失いたくない。

 「龍太君は……あたしとつき合いたいって言ってくれたけど、断りました。それに、それはつい最近のことで」

 萌子は小さく唾を飲み込んだ。

 「あの頃は、何もありませんでした」

 「そう、なのか」

 気が抜けたサイダーのように、久志はぼんやりとした表情で言葉を漏らした。

 「黒沢先生に聞かされてたんだ。龍太君は、地元じゃちょっとした有名人なんだって」

 次第に自分の思い込み違いに気づかされたのか、久志は自嘲気味な笑顔を浮かべて、

 「……龍太君のライブに行かなかったのは、君と彼の仲を確かめるのが、怖かったんだ」

 「……」

 「君と薫君と三人で、僕のコートを選びに行ったことがあるだろ?」

 「……うん」

 「あの時、君は龍太君のお気に入りだって聞かされてさ」

 「あれは!……」

 「冗談めかしては、いたけどさ」

 久志はわずかに淋しげな気配を見せて、

 「あの頃僕は、まだ君のそばに辿り着いたばかりで、どれが本当のことか判断出来なかったんだ。何も見えなくて、不安だらけだった。君と」

 久志は萌子を見つめた。

 「少しは通い合える部分もあったと思っていたけど、自信がなかった。君が、部活に姿を現さなくなって」

 「……うん」

 「君が僕に気を使ってるんだと思った。こんなものか、と思った。気持ちが通じ合っているなんて、まやかしなんだと思った」

 『気持ちが通じ合っているなんて……』

 (先生も……)

 あの時、二人のあいだの心の近しさを感じていてくれたんだ。萌子は涙ぐみそうだった。あの夕闇の中、二人の気持ちは一緒だった。それなのに。

 久志が気遣って緩めた手の感触に、萌子は疑いを持ってしまった。彼の優しさに気づくことなく。久志がもう一度、緩めた手を握り締めた時には、萌子の心はもうそこになかった。

 その時の、久志が感じた虚しさを思った。

 恋は盲目、と言う。けれども二人は盲目のあまり、互いの姿さえ見失ってしまった。

 「僕たちは、お互いすぐ諦めてしまう癖があるみたいだね」

 久志がそうポツリと呟く。

 それは、子供の頃にそんな思いをしてしまったからかもしれない。萌子はふと、二人はやはり似たもの同士なのだと思った。

 「今までのは、全部勘違いだ」

 これで終わり。久志の瞳はそんな風に和らいだ。萌子に横を向いてと指示する代わりに、彼は静かな声で、

 「あと少しで終わるから」

 そう告げた。

 とても安穏とした気持ちで、萌子は再び正面を向いた。

 「黒沢先生に言われて」

 キャンバスに向かう久志の気迫が部屋中に漂う。筆先に神経を集中させながら、久志は言葉を継いだ。

 「ホントは少し迷ったんだ。でも……」

 でも。そう言いさして、久志は一瞬口をつぐんだ。

 「でも……忘れられなかった」

 それきり、彼は黙り込んだ。

 穏やかな時間が流れていた。蝋燭の炎が風もなく揺らめく。壁に映し出された陰影に沿って、天使たちが静かな歌声を奏でる。清らかで、濃密な時の流れ。

 久志とのあいだに会話が途切れても、萌子はもう不安を覚えることはなかった。そう、岩陰に腰掛けて色を失いゆく海と空を見つめた、あの千光寺山の夕暮れのように。



 「あっ、雪だ」

 教職員用昇降口のガラス戸に背をもたれて久志が出て来るのを待っていた萌子は、夕闇に舞い始めた白い欠片に気づいて脱兎のごとく走り出した。

 ぼんやりと明るい鈍色の空から、白い羽のような雪がゆっくりと舞い降りて来る。

 辺りはもうたっぷりと暮れていた。街角のイルミネーションが、雪に滲むように霞んで見える。

 今年初めての雪。生まれて初めての、ホワイトクリスマス。

 「せんせー。雪だよ、ほら」

 昇降口に姿を見せた人影に向かって、萌子はそう声を掛けた。校舎からこぼれる明かりの中で幼子のようにはしゃぐ萌子の姿を、久志は穏やかに微笑んで見つめていた。

 「何してんの? 行こうよ」

 「……ああ」

 久志はそう頷くと、庇の下を出て萌子に傘を差し掛けた。

 「……澤崎さん、傘は?」

 「忘れて来ちゃった」

 萌子はそう答えてちらっと舌を出した。

 「これ、貸そうか?」

 「ううん。大丈夫。駅に着いたら買うから」

 萌子は、左肩に下げたキャンバスの入った手提げ袋を少し持ち直すふりをしてから、

 「さみしいな」

 「……え?」

 「何で薫のことは『薫君』って呼ぶのに、あたしのことは『澤崎さん』なんですか?」

 「それは……」

 「『萌子』じゃ、駄目?」

 久志が息を呑む気配が感じられた。夕闇に二人の白い息だけが浮かんでは消える。

 「萌子、君?」

 初めて久志の口からこぼれた彼女の名前は、イントネーションからしてまるでおかしかった。それを耳にした瞬間、萌子は思わず吹き出してしまった。

 「何だよ」

 「……萌子、でいいです」

 「でも……」

 「じゃ、萌子さん」

 「萌子さん……」

 もえこさんもえこさん……。本人の横で、久志はそうぶつぶつと呟いた。

 「せんせい! 練習するんなら家でやってくださいよ」

 静かな夜だった。ふくやま美術館と広島県立博物館の間に広がる緑の敷地にも、人影はもうない。芝生の上が、うっすらと白く色づいている。教師と生徒の相合傘も、見咎める者はもう誰もいなかった。

 「めんどくさいなぁ」

 傘の先から空を見上げる素振りを見せて、久志はそうぼやいた。

 「雪まで降って来ちゃったもんなぁ」

 「でも、行かないとまずいでしょ」

 佐藤の誘いのいきさつはもう話してある。ただでさえ億劫に思っていた久志は、当然行く気を失くした。でも先輩教師の誘いでもあるし、久志は真実を知らないはずになっている。

 「やっぱ、断るのはまずいよな」

 「何時集合だっけ?」

 「えっと、7時」

 「じゃ、帰ったらすぐ電話する」

 二人で角突き合わせて相談した結果編み出した苦肉の策が、久志の家族が突然尾道を訪れたことにしよう、というものだった。そのために、集合時間に合わせて萌子が電話を入れることになった。もうお互いの電話番号とメアドは交換してある。

 「なるべく、カラオケボックスに入る前に、な」

 久志の情けない声を聞いて、萌子はちょっと意地悪したくなった。

 「先生が晴美たちとカラオケしている姿、ちょっと見てみたいんだけどな」

 「おいおいおい。頼むよ〜」

 「ウソですよ。ちゃんと電話しますってば」

 雪が降り始めても、駅前の人通りは絶えていなかった。雪と光のファンタジーが、祝祭に花を添えているようだ。

 駅が見えて来たところで、萌子は自然と傘の下から離れた。

 ふと、これからこんな日々が続くのだと思った。今まで何の意識もしていなかったけれど、久志は紛れもなく恩師なのだ。

 「じゃ、気をつけてな」

 改札の前で久志は軽くそう手を挙げた。もっと話したいことがあるような気がしたけど、そうのんびりともしていられない。

 「あとで、電話します」

 そう言ってから萌子は、明日からの約束を何も交わしていないことに気付いた。

 (でも、いいや)

 まだ、時間はあるはずだ。ゆっくりとゆっくりと。

 「じゃ、またあとで」

 そう踵を返した萌子の背中に、久志がそっと声を掛けた。

 「なあ、萌子」

 「え?」

 驚いたのは、急に呼び止められたせいだろうか。それとも、呼び捨てにされた心地よさのせいだろうか。

 萌子は少し大げさに振り返った。

 「明日……」

 「え?」

 「明日、映画にでも行かないか?」


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