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第六章 キャンドルナイト(4)

 「なにゆえに」

 坂道を下りながら吠える薫の論調は、まるで生徒会の下手な選挙演説のようだ。

 「イエス様の誕生を心静かに祝うその前夜に、学校に束縛されなければならんのだ」

 束縛されるのは、せいぜいその前日の午前中くらいだと思うけど。隣を歩きながら、萌子はそう心の中で突っ込みを入れる。

 「神が与えた、3連休というチャンスを潰してまで」

 ようするに、それが不満なだけなのである。

 今年は天皇誕生日が金曜日だった。TVでは『ロマンティックな連休に』と騒ぎ立てている。土曜日もこき使われる小中高生には、元々何の縁もないのだが。

 「去年だって、24日に終業式やったじゃない」

 「あれは金曜日だったでしょ」

 薫は真顔で反論した。

 「土曜日に終業式やっても、あんまり得した気分にならないのよねぇ」

 萌子は正直、今日が終業式で良かったと思っていた。その訳を話したら、薫に怒られそうだけれど。

 クリスマスプレゼントという『言い訳』にはこの日でないと何となく格好がつかないし、そもそもそのプレゼント自体が昨日の夜まで出来上がらなかったのだ。

 いざとなったら久志の家まで届けに行こうかとも考えた。場所は勝手知ったる何とか、なのだから。

 本当はその方が良いのかもしれない。とりあえず鞄の中には出来上がったばかりの熊が潜んでいるけれど、それを渡すタイミングはまだ決めかねている。

 でも、萌子にはそこまでの勇気が持てなかった。玄関のドアを開けた時の久志の反応を、一人で見る勇気が。それならばいっそ、雑踏の中で全てが過ぎ去ってしまった方がいい。

 「降るかしらね」

 薫は空を見上げて、唐突にそう呟いた。

 「え?」

 「なるかしら。ホワイトクリスマスに」

 つられて見上げた空は、不思議な色をしていた。低く垂れ込めた雲が、天空からの光を透かして白く輝いている。それはひどく幻想的な情景だった。そう、まるで……。

 「天使が降りて来そう……」

 ポツリと呟いた萌子を優しげに見やって、薫はほんの少し笑った。

 「相変わらずロマンティストねえ、あなたは」

 でもさ、と言いさして薫がしばらく黙り込む。

 「?」

 「ホワイトクリスマスなんかになっても、一緒に見る相手なんかいないし」

 そうして薫は萌子の方を悪戯っぽく見やって、

 「ねっ」

 「はいはい、どうせ」

 薫は何をどこまで勘づいているのだろう。萌子の脳裏をちらりとそんな疑問がよぎった。

 実は、薫はクリスマス・パーティーの日に1度だけ『その日、予定があるから』と言い出したことがある。

 それは中1の冬休みのことだった。もちろん夜遅くなることはなくて、ちゃんとその夜のパーティーに彼女は顔を出したのだが。

 その冬、薫は中学の同級生と付き合っていた。萌子が知る限り、後にも先にも男の子と『付き合っていた』のはその冬1度きりのはずだ。『○○と付き合ってる』『××とずいぶん仲が良い』そんな噂を幾度となく耳にしたけれど、本気だったのはこれだけだったのだと思う。

 こんな夜を、今まで薫はどんな想いで過して来たのだろう。ましてや今年は……。

 萌子はちらりと薫を見た。薫も偶然視線を上げた。その澄んだ瞳と目が合って、萌子は少しうろたえた。

 「なに?」

 「いや、ね」

 と薫は踏切を渡り切った先の商店街を見つめて、

 「何でクリスマスソングって、別れの歌ばっかりなんだろなって」

 「え?」

 商店街からは、朝っぱらから山下達郎の『クリスマス・イブ』が聴こえて来る。

 「君は来ない、だのたとえ貴方が他の誰といても、だの」

 「ああ。そういえば……」

 「まっ、女6人の寂しいイブを過ごすあたしたちには、とても相応しいけどね。今年は唯一の男もいないし」

 一瞬、龍太のことを言ったのかと思って、萌子は内心ドキッとした。

 そうじゃない。薫の父のことだ。

 確かに、二つの家で共にイブを過ごすようになってから一昨年まで、パーティーの参加者の中で薫の父は唯一の男性だった。彼はそのことをとてもひけ目に感じていたらしく、萌子たちが幼い頃によく酔っ払っては佐知子に向かって、

 「もう一人、薫の弟が欲しいなぁ」

 と迫って、邪険にされていた。

 そんな光景を見せられたおかげで、萌子は母に頼めば弟が出て来るものだとすっかり勘違いさせられてしまった。

 「ごめんね、萌子。それはお父さんからの頼みじゃないと、ダメなのよ」

 母は母なりに上手く諭したつもりだったのだろう。けれどもその一言は、萌子の中にある一人ぼっちな気分を余計に膨らませたのだった。

 「ママったらね、『今年は薫と一緒に独身気分ね』だって。ホントは淋しいくせにさ」

 薫のそんな台詞に、萌子は小さく微笑んだ。

 薫の父と母は本当に仲が良いのだ。それは、誰もが羨むくらいだった。遠く離れていても、きっと今日も互いを想い合っているのだろう。

 離れていても。一瞬しか逢えなくても。そしてたとえ届かなくても。それぞれの想いに、等しくイブは訪れる。

 乗り合わせた列車はいつもより騒々しかった。時間が遅いからかもしれない。今日は薫の朝錬もないので、始業にぎりぎり間に合う列車を選んだのだ。

 福山の高校は、ほとんどが今日終業式のようだった。誰もが笑顔で喧しい。まぶしいほど、幸せそうだった。もしかしたら、こんな切ない想いを忍ばせているのはあたしだけなのかも。そう思わせるくらいに。

 もうすぐ、12時の鐘が鳴る。夢のような日々は終わるのだ。馬車が南瓜に戻るように。どうせなら、最後まで夢を観ていたかった。

 (ん? これじゃキリストじゃなくてグリム童話だわ)

 哀しみの淵に浸りかけて、萌子はふとそう思い可笑しくなった。

 (イブだもの。もっと楽しい気分にならなくちゃ)

 そうだ。久志に想いを打ち明けることも、もっと楽しみにしなきゃ。萌子はそう思った。

 (終わりなどではないないのだから)

 また、久志と笑って話せるようになりたい。

 萌子の願いは、今はただそれだけだった。たとえ想いは届かなくても、また笑い合える仲になれるように。

 別の想いで、また好きになれるように。

 福女の校舎の中も、けたたましい喧騒に包まれていた。女の子が集まると、こういう時はもの凄いパワーになる。

 憂鬱な授業がないせいかもしれない。パパッとホームルームを終わらせて、校長の退屈な長話を聞き流しさえ出来れば、後は余計なものを余計なところを見ずに貰ってジ・エンド。楽しい楽しい冬休みの始まりである。

 昇降口で下履きに履き代えて廊下に出たところで、萌子はふと思い出したように辺りを見回した。

 「なに? 誰か探してるの?」

 薫がそう疑わしげな視線を向ける。

 「うん……ちょっと……」

 校内に足を踏み入れて初めて、萌子は予期せぬ焦燥感を覚えた。迂闊にも、久志をどうやって捕まえたら良いか考えていなかったのだ。

 特にクラス担任でも何でもない久志が、こんな時どこで何をしているのか、萌子には見当もつかなかった。やっぱり職員室でのんびりお茶でも啜っているものなのだろうか。

 「おはよー」

 教室に入ると、真っ先に晴美がそう声を掛けて来た。いつかのように、親しい仲間たちに囲まれている。

 「なあに? 何かまた悪巧み?」

 コートを脱ぎながら薫がそう言うと、晴美はプクッと頬を膨らませて、

 「なによぅ。まるで私が、毎回悪事の首謀者になってるみたいじゃないのさ」

 「あら、違った?」

 「失礼ねぇ。楽しい楽しいパーティーの相談をしてるんじゃない」

 「だから、その『楽しい楽しい』の辺りが怪しいのよ」

 薫のそんな台詞を、晴美はあははっと豪快に笑い飛ばして、

 「うん。確かに怪しい、かもしんない」

 「何やらかす気よ」

 「立花ちゃんをね、今宵カラオケパーティーに誘うの」

 「え?」

 久志と出逢ってから、今までで一番心臓が跳ね飛んだかもしれない。驚き呆れたように声を発した薫の横で、萌子は声も立てられずに石膏のように顔面蒼白になった。

 「あたしの友達がね、立花ちゃんの写真見せたらど〜しても逢いたいって言い出してね。でもねぇ、立花ちゃんじゃねぇ。きっと素直に言うことを聞かないと思うから。だから、佐藤をだしに使ったの」

 佐藤とは自称30代、推定45歳の社会科教師のことだった。

 「佐藤にね、立花ちゃんを誘い出してもらうの。立花ちゃんには佐藤とその女友達とカラオケするってことにして。あのエロ教師、女子高生とカラオケ出来るって大喜びで」

 確かに、普段から佐藤の言動はおかしいと評判だった。黒板に向かって回答を書いている生徒との距離が、異様に近かったりするのだ。『耳元で鼻息が聞こえた』という娘もいる。だいたい、社会科の授業で黒板に解答を書かせること自体おかしい。

 「何かそれ、騙し討ちじゃん」

 薫が珍しく、茶化すでもなく真剣に憤りを示してみせる。

 「あら。でも、立花ちゃん案外喜んでるみたいよ。『一人きりのイブになるところだった』って」

 一人きりのイブ。

 ありえない、頭の片隅にも浮かばなかった言葉に、萌子は激しく戸惑った。

 「ま、相手が女子高生って知ったら、立花ちゃんじゃ引いちゃうかもしれないけど」

 そう肩を竦めてみせてから晴美は、

 「だから、本当に行くのはあたしと恭子と友達の娘二人と、佐藤と立花ちゃんと……」

 自分の手元を見つめながら指折り数えていたが、ふと顔を上げると薫の方を見やって、

 「薫も行く?」

 まさかぁ、と言うように薫は苦笑いを浮かべてぱたぱたと手を振ると、

 「あたしたちは、おうちでホームパーティーよ」

 「そっか。年中行事だもんね」

 晴美はそう言ってちらりと萌子を見やると、

 「萌子も……行く訳ないよね」

 「う、うん」

 萌子はそうぎこちなく頷いた。

 その刹那、萌子の中で激しい焦燥感が再燃した。彼女は急に椅子から立ち上がると、自分でもわざとらしいと思いながら、

 「あたし、美術室行って来るね」

 「なに? 忘れ物?」

 萌子の慌てぶりに、恭子が小首を傾げながらそう尋ねる。

 「うん。ちょっと……」

 怪し過ぎると判っていながら、萌子は生返事のまま教室を飛び出した。

 (何で……)

 一人きりのイブ。訳も判らぬまま浮き足立つ萌子の心に、晴美の台詞がリフレインする。競り上がって来るような焦燥感が、余計に萌子を惑わせた。

 イブだからって、恋人同士で一緒に過ごさなきゃいけない訳じゃない。久志が喜んで合コンについていくような表現も、晴美が誇張し過ぎているだけかもしれない。

 萌子は胸の中でいくつも言い訳を並べ立てた。けれども、そのたびに『一人きりのイブ』という台詞が耳の中に響き渡る。

 とにかく久志に逢わなきゃ。萌子はそう思った。久志が今何を望んでいるのかも、自分の想いがどこへ向かうのかも、全ては言葉を交わしてみなければ判らないことなのだ。

 それに少なくとも、晴美たちの誘いに関しては話しておいた方が良い。それだけは間違いなさそうだった。

 萌子はとりあえず職員室に向かってみた。そこで久志とどう接触すれば良いか、それはちっとも思いつかなかったけれど、彼女は本能の赴くままただひたすら小走りに廊下を駆けた。

 そっと小窓から覗き込んだその先に、肝心の人影は見当たらなかった。拍子抜けした気分で覗き込むのをやめた萌子は、途方に暮れたように扉の前でしばし立ち尽くした。

 いきなり『ガラッ』と扉が開いた。萌子はビクッとして5cmくらい飛び退いた。

 数学教師の宮本が、じろじろと不躾な視線を撫で付けながら萌子の脇を通り過ぎて行く。

 萌子は

「ふぅ」と小さくため息を吐いた。

 (美術室、かなぁ)

 あとはそこぐらいしか思いつかない。そう考えながら萌子は踵を返す。

 そこに、久志が佇んでいた。

 「わぁっ!」

 萌子はびっくりして10cmくらい後ずさった。

 「なんだよ」

 久志が怪訝そうな顔で萌子を見る。

 「蛙踏んづけたみたいな声出して」

 「……ゴキブリ踏んづけたぐらい驚きました」

 萌子が真顔でそう言うと、久志は思いっきり笑い出した。

 久志は穏やかな顔をしていた。このままで、もう少しこのままで。萌子の中の決意を鈍らせそうなほど、出逢った頃と何も変わらない柔らかな雰囲気が、その瞬間二人を包み込んでいた。

 「どうした? こんなところで」

 そう。この穏やかな時間に、あたしは憧れたのかもしれない。

 失いたくない。一瞬、後悔に似た気持ちが萌子をためらわせた。

 「あの……」

 「ん?」

 ためらいを振り切るように萌子が声を絞り出そうとしたその時、再び扉が開いて今度は社会科の佐藤が顔を出した。

 「何してんだ。もうホームルームの時間だぞ」

 わざとらしいほど厳めしい顔をしてみせた後で、佐藤は二人をじろりと一瞥して足早に去って行った。

 「いけね。もうそんな時間」

 久志がそう慌てて、職員室の扉に手を掛けようとする。

 「せんせい」

 その背中を萌子が呼び止めた。

 「ん?」

 何気ない調子で久志が振り返る。

 「放課後、美術室に来て下さい」

 「……え?」

 「話したいことが、あります」

 その刹那、萌子の胸をもう一度だけ、後悔に似た気持ちがかすめた。



 「さむっ!」

 薫がそう呟いて、艶かしい膝小僧をキュッと閉じる。

 予定通りに、校長の長話が講堂中に響いていた。

 福山女子高校には、体育館とは別に講堂が設けられている。何かの式典の折には、たいていこの講堂に全校生徒が集められた。

 この学校は比較的歴史が浅い代わりに、施設は良く揃っていてしかも適度に小洒落ている。中学3年の時に薫と二人で学校訪問をして、その洒落た雰囲気に萌子たちはすぐに惚れ込んでしまった。施設全体の充実振りばかりでなく、広く開放的なエントランスや階段の手すりに施された細工など、女の子の心を程良くくすぐりそうなものがあちこちにある。

 元々、近隣の伝統ある中堅校と肩を並べるほどの進学率に惹かれていたし、女子弓道部が強いということもあって、二人は迷いなく福女を受験することに決めたのだった。

 中学生の頃のように、1時間以上も立たされてろくでもない話を聞かされたことに比べれば、こうして椅子に座っていられる分だけ確かにずいぶん楽なのだが……。

 「いくら座らせてるからって、長々喋って良いってもんじゃないのよ」

 膝を擦り合わせながら薫はそうぼやいた。

 いかに良好な設備とは言っても、さすがに講堂中が冷暖房完備とまではいかない。夏場なら吹き抜ける風にいくらか癒されもするが、真冬になると寒さが堪えた。特に今日は、一段と厳しい冷気がつま先から伝わって来る。

 「どうせここにいる9割は女なんだから、せめて床暖房ぐらい付ければ良いのに」

 薫は更にそうこぼすと、

 「ねぇ?」

 と隣に座る萌子に賛同を求めた。

 が、萌子はそれに全く反応しなかった。まるで蝋人形のように動かなくなっている親友の姿に薫が首を傾げていると、その向こうにいた恭子が、

 (ダメダメ)

 というように黙って首を振った。

 「萌ちゃんは今、校長先生様のありがたいお言葉に聞き入ってるんだから」

 実のところ、萌子の頭に校長の言葉は一文字たりとも残っていなかった。ぼんやりと意味もなく、ただ演壇を注視していただけだった。

 百メートルを全力疾走して来たばかりのランナーのように、まだ心臓がドキドキしている。こんな寒さの中で、ほんのりと頬が熱い。

 興奮して、力が抜けてしまいそうだった。たった一言声を掛けただけで、全ての力を使い果たしてしまったような気がする。

 『話したいことが、あります』

 あの時、そう告げられて久志は一瞬体を強張らせた。

 それから、引き締まった面持ちのまま小さく頷いたのだ。

 「判った。じゃ、後でな」

 そう言って萌子の肩をさり気なく『ぽん』と叩いて、そして久志は職員室へと消えて行った。

 久志の反応は、よく読み取れなかった。しばらく腑抜けたようにぼんやりとして、それから萌子は突然思い出したように胸の動悸が激しくなった。

 その鼓動の高まりが、いつまで経っても治まらない。まるで心臓が鼓膜のすぐ裏側で息づいているかのようだ。

 彼女の中で今、湧き立ちそうになる期待と絶望に備える諦めの気持ちが、激しくぶつかり合っていた。

 萌子は視線をずらすと、生徒たちの脇で一列に腰掛けている教師たちの方を見やった。

 無粋なくらいに生真面目な顔で、久志はじっと校長の話を聞き入っていた。窓から射し込む淡い光が、彼のいる一角だけをほんのりと明るく照らし出している。それはとても美しく、見惚れてしまいそうな情景だった。

 彼の姿をまぶたに焼きつけておこう。不意に萌子はそう思った。

 たとえこの恋がこの先どこへ向かおうとも、こんなにも純粋に、まっすぐに想い続けていられるのは、これが最後かもしれないのだから。

 この想いを、いつまでも忘れないように。

 萌子はそっと久志の横顔を見つめ続けた。

 いつまでも、忘れないように。



 鍵を差し込む前に、萌子は扉の取っ手に指を掛けてみた。

 がたがたと音がして、でも開くことはない。当たり前だ。その鍵はたった今、彼女自身が職員室から取って来たばかりなのだから。

 それでも確かめずにはいられないほど、萌子は緊張して、少し臆病になっていた。

 扉を開くと、微かにかすれた絵の具の匂いがした。カーテンを開け放つと、萌子は少しだけ勇気を出して窓も開け放つ。

 途端に、目の覚めるような冷たい風が頬を撫ぜた。

 窓の外は依然としてどんよりとした曇り空だった。本当に、今にも白いかけらが天から舞って来そうな空模様だ。

 その鈍色の空の下で、こんもりとした森の向こうに聳え立つ福山城の天守も、心なしかくすんで見える。

 萌子は部屋の中を振り返ると、教室の隅に飾られた1枚の額を見つめた。

 錦秋の福山城。あの時、萌子が嫉妬すら覚えた久志の絵は、額に納められて教室の壁に飾られたのだった。

 萌子は、唐突に二人だけで過ごしたあの薄暮の美術室を思い出した。それから、いくつもの場面が彼女の脳裏を次々と訪ねた。千光寺山から見た夕暮れ。二人で歩いた尾道の小路。落ち着きのない緊張した面持ちで尾道駅の雑踏にいた久志の顔。雨に濡れそぼつ紺色の傘と浅黄色のジャケット。

 いつだって、その景色の隣にこの気持ちがあったように思う。

 (いつから、こんなにも好きになってしまったのだろう)

 萌子は一つ小さなため息を吐いて、静かに窓を閉めた。それから、教室の片隅にあるキャンバスへと向かった。

 『久しぶり描いた絵としては、まあまあ描けた方だと思うけどね』

 あの時、美術部員が揃って絶賛した絵の出来をそう嘯いてみせた久志は、今は一風変わった絵に取り組んでいる。

 イーゼルに立て掛けられたままのキャンバスを覆う白い布を、萌子はさっと跳ね上げた。

 黒い森。小人たち。妖精。そしてそれを見つめる下弦の月。

 デッサンの時点ではいまいち掴み切れなかった構図が、彼の指先で彩られるパステルによって徐々にその全容を現すに連れて、そばにいた美術室の常連たちは感嘆の声を上げた。

 「これ、こんな片田舎に放っておく腕じゃないわよ」

 そう言って腕を組んだ朋美の横で、これには萌子も思わず首を縦に振った。

 そう。本来なら、出逢っているはずのない人なのだ。

 「これって、何をモチーフにしたんですか?」

 無邪気な口調で下級生がそう尋ねると、久志は茶目っ気たっぷりに不器用なウインクなどしてみせて、一言こう告げた。

 「メルヘン」

 その瞬間の久志の照れた笑顔と自分の胸を貫いた痛みが、萌子には哀しかった。

 あの頃なら。たとえ叶えるには拙い片想いだとしても、きっと心はときめいていただろう。その純真な想いが今はただ懐かしい。

 知らなければ、もっと幸せだったのかもしれない。久志との距離も、自分の想いの深さも。

 萌子がもう一つ小さな吐息を吐いたその時、ガラガラと派手な音を立てて唐突に扉が開いた。萌子は布を掛け直す余裕もなく、驚いたように入り口を振り返った。

 「ごめんごめん、遅くなって」

 萌子の心臓がきゅっと縮まった。胸の鼓動が、今までで一番早くなる。

 「いや参った。訳わかんない『冬休みにおける校外指導について』なんて余計な話、延々と聞かされちゃって」

 緊張してる。萌子はすぐに気づいた。ぎこちない笑顔で喋る久志は、不自然なほど饒舌だった。

 「俺の住んでるとこじゃ、君と薫君ぐらいしか監視出来ないのにな」

 冗談を言ったつもりらしい。久志はわざとらしく一人で笑い声を上げた後で、萌子の背後にあるものに気づいて、

 「あっ、こらこらダメだよ。まだ見ちゃ」

 と萌子の方へ歩み寄って来た。

 「未完成品、見られると恥ずかしいだろ?」

 そう言って久志が伸ばした手と、

 「ごめんなさい」

 と萌子が振り上げた手が、布を掴む寸前にぶつかり合った。

 「あっ……」

 「……わりぃ」

 どちらともなく手を引いて、そこに気まずい間が出来る。

 萌子はチラッと久志の顔を覗き見た。少し気恥ずかしそうな、ばつが悪い表情を浮かべて久志はわざと視線を逸らしている。

 その刹那、萌子ははっきりと思い出した。

 そう。こんな気弱そうな優しさが、堪らなく愛おしかったのだ。

 私と少し似た男の人。

 大好きだった。きっとあの雨の日の夕暮れから、ずっと。

 たとえ明日には、露と消える想いでも構わない。伝えたい、この胸の内を。

 萌子の心を今、初めて知る激情が迸っていた。

 「ごめんな、遅くなっちゃって」

 「ううん」

 「で、話ってなに?」

 心に決めたはずなのに、上手く言葉が出て来なかった。伝えなければいけない想いが、頭の中で渦巻いている。

 久志はそっとキャンバスに布を被せると、窓際に歩み寄った。

 「ホントに降りそうだな」

 「え?」

 「雪がさ。今夜降ったら、ホワイトクリスマスだな」

 温和な笑顔だった。少し照れたように、笑いながら萌子を見つめる鳶色の瞳。

 「先生」

 「ん?」

 「渡したいものが、あるんです」

 「……俺に?」

 「はい」

 鞄をまさぐる手が、緊張で震える。手間取りながら萌子は、淡くシルバーゴールドに輝く包みを取り出した。

 ラッピングも全て萌子の手製だった。貰ってもらえるかどうかさえ判らない贈り物を、彼女は昨夜丹精に想いを込めて包んだ。

 「これを……」

 「俺に?」

 「うん」

 「あ、ありがと」

 嬉しいというより、戸惑った顔つきだった。久志は不思議なものを見るような目つきで手渡された物を見つめてから、やがて丁寧に包装を解き始めた。

 「……これを、俺に?」

 中から出て来たビーズ製の熊を手に取って、久志は萌子を見つめた。

 萌子は黙ったままコクリ、と頷く。

 「これ、手作り?」

 もう一度、萌子がコクリと頷く。

 永遠に続きそうな沈黙だった。本当は、久志が黙り込んでいたのはほんの数秒なのかもしれない。それでも萌子には、息苦しいほど長い時間だった。

 どんな結末でもいい。

 彼女は一度ぎゅっと目を閉じてから、子犬のような目で久志の顔を見上げた。

 今にもこぼれそうな笑顔が、そこにあった。

 「よかった……」

 「え?」

 萌子は戸惑い顔で久志を見つめ返した。鳶色の瞳と、視線が絡み合う。

 その瞳が、本当に嬉しそうに微笑んだ。

 「ありがとう」

 久志は少し大げさなくらい大きく、安堵のため息を漏らした。そして萌子の瞳をじっと見つめると、一言こう告げた。

 「君とは、もうダメなんだと思ってた」

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