第六章 キャンドルナイト(3)
龍太との待ち合わせまで、まだ少し時間がある。萌子は、待ち合わせたバラ公園までの距離を計算してから、天満屋に寄ることに決めた。
デパートの店内は、より一層クリスマスの華やかさに包まれていた。
イブまであと1週間。年末の忙しなさと相まって、いつもの日曜よりもずいぶん混雑している。
萌子は案内板から目的地を見つけ出すと、エスカレーターに乗った。
手芸のコーナーも思ったより人が多かった。色とりどりの毛糸を手にしながら何かを考えている人の横顔は、とても楽しそうに見えた。編んであげる人の姿でも想像しているのだろうか。
その人の描いた未来には、幸せが約束されているように思えた。
萌子は反射的に久志のことを想った。
(きっと手編みなんか、恥ずかしがって着てくれなさそうだよね)
萌子が選んだ市販のトレーナーさえ、最初は照れて着てくれなさそうだったのだ。そんなことを思い出して、萌子はくすっと一人笑いをした。
だからという訳ではないけれど、萌子はセーターやマフラーを編むつもりはなかった。
手芸コーナーの隅に目的の場所を見つけて、萌子は店の奥に進んだ。
そこには中学生くらいの女の子が一人、手芸の本を立ち読みしていた。あどけなさの残るその横顔は少し硬く、口を真一文字に結びながら真剣な表情を浮かべて、目で文を追っている。
作ることに不安があるのか。それともそれを渡す瞬間を思い浮かべているのか。
隣に立って、萌子も本を手に取ってぱらぱらとめくってみた。
編み物なら、マフラーやセーターを何度か作ったことがあるから少しは自信がある。けれども今度作ろうと思っている物は、初めてチャレンジするものだった。
「あった」
そう呟いて萌子が開いたページには、ビ―ズで出来た小さく可愛らしい熊のぬいぐるみが写っていた。
あまり重荷にならないもの。贈っても心の負担にならないもの。
萌子は、久志への贈り物をそう決めていた。
きっかけに過ぎないのだ、贈り物は。自分の気持ちを、ありのままに伝えるための。
返事はほとんど期待していなかった。というより無理だと諦めていた。それでも伝えなければ、萌子は自分がこのままどこへも進めないような気がしていた。
一昨日久しぶりに美術部に顔を出すと、久志より先に朋美が驚いたように目を丸くして、それこそ飛び掛からんばかりに近寄って来た。
「よかったぁ」
「……部長?」
「萌ちゃん、もう来ないのかと思った」
そう言って萌子の手を取る朋美のその向こうで、久志は優しく微笑んでいた。
その日は帰りがけに薫も誘って、久しぶりに三人で帰った。
「あんたら、寄り戻ったん?」
踏切のところで久志と別れた後、薫が彼女らしい物言いでそう訊いて来た。萌子はそれに笑って首を振ると、
「違う。けど、あたしウソつくのやめたの」
嘘をつかない。それが一番正しいやり方だと、萌子は彼女らしい頑なさでそう思っていた。
だから今日、龍太に逢いに行くのだ。もしこのことを薫に話したら、きっと、
「莫迦!」
と罵倒されそうだけれど。
萌子は手に取った本といくつかの材料を購入すると、天満屋を出た。
冬晴れの日が続いていた。見上げると、高く澄んだ碧が目に入る。
(空を見上げると、こんなにも幸せな気持ちになれるのに)
バラ公園は、福山駅南口を出て東北東に15分ほど歩いたところにある。
薔薇は福山の象徴である。5月と10月が花の盛りで、5月上旬にはここでバラ祭りも行われる。だからその頃が一番華やかで人出も多いのだが、こんな寒さの中でも咲く薔薇はある。
実は萌子はそのことを、昨日龍太と電話で話していて初めて知った。
「え? 薔薇って冬でも咲くの?」
「何だ、知らないのか。綺麗だぜ。結構風情があって」
龍太は意外と博学だった。それに頭も良い。『東京の大学を受ける』と宣言しているが、彼ならきっと良いところに受かるだろう。
カッコ良くて、ロマンティストで。女の子を、本当に幸せにしてくれそうな人。
公園の入り口には、龍太の言った通り黄色い薔薇が小さな花をつけていた。薔薇という文字に似つかわしくないその可憐で愛らしい花は、冬の寒さに耐え、一時の陽の暖かさに喜んでいるように見えた。
この公園は、周囲を道路に囲まれて三角定規みたいな形をしている。薔薇がなければ、何の変哲もないただのちっぽけな公園である。その中心から少しずれたところに木々に囲まれた広場があって、二人はそこを待ち合わせ場所にしていた。
龍太は先に来ていた。待ち合わせより少し早い。萌子が歩み寄ると、落としていた視線を上げてこっちを見た。
一瞬、心の隅を後悔がよぎった。
スニーカーにジーパン。ダウンコートに鍔付きのキャップ。何てことない服装がやけにハマるのは何故なんだろう。こんなに素直に『素敵だ』と思わせる男の子なんて、滅多にいやしない。
萌子も今日は、彼女なりに精一杯お洒落をして来たつもりだった。けれどもコート一つとってみても、何だか見劣りしてしまう気がする。
(何で、あたしなんだろう)
「よお」
龍太とのあいだにいくらかの距離をおいて立ち止まってしまった萌子に、彼の方から声を掛けて来た。
「……おはよう」
そう返事を返してから、萌子は(ちょっとヘンかな)と思った。まだ午前中だけれど、陽はすでに二人の頭上高くにある。
「おはよう」
龍太はそう答えて彼の方から萌子に歩み寄って来た。いつもと表情が違う。あの仏頂面ではなく、妙にさっぱりとした顔つきをしている。
そういえば薫がこんなことを言っていた。
『あいつね、萌子の前にいるといつも機嫌悪そうでしょ? あれね、緊張してるからなんよ』
今日の龍太はとても優しそうな顔をしていた。何かが終わり、何かが始まる予兆を、彼も感じ取っているのかもしれない。
『こうやって、今までみたいな曖昧な関係には、もう戻れないけど』
もう戻れない。友達だったあの頃には。
「ごめんね。待った?」
「いや、そんなでもない」
龍太はそう軽く微笑んで、
「緊張して、早起きしちゃった」
「え?」
「いや。正確に言うと、よう寝とらん」
さらりとそんなことを言ってのける龍太に、萌子の心はまた複雑に揺れた。
(どうして……)
「とりあえず、座る?」
広場の中心には円形の花壇があり、そこにも明るい色の薔薇がいくつか花を咲かせている。龍太は花壇を見渡せるベンチを指差してそう訊ねた。
陽の当たるベンチに二人で腰掛ける。逆光の中で花たちがたたずんでいた。
そうしてしばらく、二人は黙ったままだった。柔らかな冬の陽射しの中で、名残を惜しむように口を閉ざしていた。
「薔薇はさ」
陽だまりに揺れる花を見ながら、龍太が口を開いた。
「ん?」
「誰のために、あんな綺麗な花を咲かせるんだろうな」
そう呟くような台詞を口にしてから、龍太は萌子の方を見やった。
「お前さ」
「え?」
「今日、珍しく化粧してるじゃん」
彼は、にやっと笑ってそう言った。それで、二人のあいだのぎこちない緊張がほどけた。
「すいませんねぇ、いつもすっぴんで」
「いやいや」
ぷっとむくれた萌子に向かって笑いながら龍太は、
「お前、化粧気なくても十分可愛いんだけどさ」
(またぁ)
と萌子は思った。どうしてこの人は、突然人を驚かせるようなことを、こんなにさりげなく口に出来るのだろう。
「綺麗だよ」
「え?」
「今日の萌子、すごく綺麗だ」
吸い込まれそうなまなざしだった。龍太はゆっくりと微笑んで、
「いつも、そうやっていればもっと素敵になれるのに。服もさ」
「え?」
「その服も、可愛いよ」
そう言ってから龍太は急に恥ずかしくなったのか、照れたような苦笑いを浮かべて、
「何か俺、口説いてるみたいだな」
「ホント。そうやって毎日違う女の子に同じ台詞吐いてるんでしょ」
本当は、心臓が破裂しそうなくらいドキドキしていた。罪悪感を覚えるほど、強く心が揺れていた。
萌子の台詞を笑って受け流してから、龍太は急に真剣な顔をして、
「でも、本当にそう思うよ。よく似合ってる。今日は」
そう言いさして、龍太は一瞬ためらった。
「え?」
「今日は、俺と逢うために着飾って来てくれたの?」
「……うん」
そう。今日は龍太のために装って来たのだ。龍太のために服を選び、龍太のために慣れないルージュをひいた。
龍太と逢うためだけに。
「ありがとう」
思いがけない台詞だった。何か誤解を生みそうで慌てて顔を上げた萌子は、龍太の表情を見て言葉を飲み込んだ。
彼は、このうえなく満たされた顔をしていた。
「子供の頃さ」
懐かしい想い出を優しく包み込むような口調で、龍太は台詞を続ける。
「萌子、薄紅色の髪留めしてたことあっただろ?」
唐突にそう問われて、萌子は一瞬記憶をたどった。
(そんなの、あったっけ?)
思い出した。それは千絵が東南アジアの旅の土産にと、萌子に買って来てくれた物だった。エキゾチックで風変わりな髪留めだった記憶がある。
萌子はそれを、2学期の始まりにいそいそと学校に着けて行ったのだ。
その頃の萌子は、生涯唯一と言っていいロングヘアーだった。後ろ髪をその髪留めで纏めるとみんなから珍しがられて、その日1日萌子はちょっとした主役気分だった。
「夏休み明けでさ。みんな萌子が外国人になったみたいだって。その頃さ、みんな薫のことを美人だ美人だって言ってて。そりゃアイツも綺麗だなって思ってたけど、俺はアイツの後ろにいっつも隠れてるみたいにしている萌子だって、ホントは可愛いんだぞってずっと思ってたから」
今まで知らなかったけれど、それは彼が照れを隠す時の癖なのかもしれない。龍太はちょっと鼻を擦って、
「俺、何だか自慢げだったんだ。ほら、萌子だってこんなに可愛いじゃんって」
胸がいっぱいで、苦しいほどだった。
そんなに、いつも見ていてくれたなんて。
「……ありがとう」
もっと気の利いた言葉を伝えたかった。けれども萌子は上手く台詞が見つからなくて、そんなありきたりな一言しか言えなかった。
「福山に引っ越す時さ」
「……うん」
「ホントは言おうと思ったんだ。ガキだったくせにさ、萌子のこと『好きだ』って思い込んでたから」
珍しく顔を赤らめながら龍太は、
「でも言えなかった。それでお前と永遠に逢えなくなるのが恐かったし、それに前にいた大阪に比べれば、福山なんてすぐ隣みたいなもんだと思っていたから」
目の前で組んだ手をじっと見つめるように、龍太は話し続けた。懸命に伝える言葉を探すように。そのもどかしさに苛立ちながら。
「でもな。たとえ10メートルでも100キロでも、逢えなければ距離なんて関係ないんだ。萌子の中で俺の存在は薄れていってしまうだろうし、俺の気持ちは薄れたりしないけど、毎日いろんなことが起こってその中に埋もれていってしまいそうだったし」
『お元気ですか』『今度逢いましょう』素っ気ない走り書きの裏側に、彼はどんな想いを募らせていたのだろう。
「小学校の同級生に正田っていたの、覚えてる?」
「正田君? うん。覚えてるよ」
正田克俊とは小6、中1とクラスメイトだった。確か彼は龍太と仲が良かったはずだ。
「アイツにさ、小学校の卒業写真見せてもらったんだ。卒業式の後の謝恩会の」
「謝恩会?」
「ああ。そこに、萌子が写ってた」
じっと龍太が萌子を見つめた。生真面目な視線が、やがてふっと和らぐ。
「髪を短く切って、真新しい制服を着て。すごく、大人びて見えた」
今は、歳より幼く見えるけどな。そう余計な茶々を入れてから龍太は、
「ドキドキした。すげぇ後悔した。なんであの時、言わなかったんだろって」
でも、と龍太は視線を逸らして、
「その時言える距離に、お前はいなくって」
すっと陽が翳った。急に冬の冷たさが肌に纏わりついて来て、またすぐに柔らかな陽射しが戻る。
「もっと、頑張らなきゃって思った。もしかしたらもうダメかもしれないけれど、次に逢う時には、お前の美しさに負けちゃいけないって」
龍太の歯の浮くような台詞が、萌子の耳にこそばゆく響いた。
「少し、大げさだよ」
「そんなことない」
龍太はいたって真面目な表情で、
「高校に入ってさ」
「うん」
「初めてライブやった時、やっと薫にお前を連れて来てもらうことが出来てさ」
「うん」
萌子は思い出すように目を閉じて、そしてゆっくりと頷いた。
「覚えてるよ。龍太君、めっちゃカッコ良かった」
「ホント?」
本当に嬉しそうに、驚いたように目を見開いて、龍太は無邪気な笑顔を見せる。
「萌子にそう言ってもらえりゃ、俺もう何にもいらないや」
もう何にも……。萌子は自分の気持ちを悟られたような気がして、一瞬言葉に詰まった。
「……龍太君のライブに行くたびにね」
「うん」
「どんどんお客さんも増えてね。凄いなって、ずっと思ってた。ウチの学校でも、龍太君のこと知ってる娘、結構いるんだよ」
「へえ。俺ってそんな有名人?」
「もちろん」
萌子は誇らしげに大きく頷いて、
「きっと、いつか遠くに行っちゃう人だと、ずっと思ってた」
「そんなことないよ」
「ううん」
微かに気色ばんだ龍太に向かって、萌子は小さく首を振った。
「だからね、こないだは本当にびっくりしたの。びっくりして、ホントに嬉しかった」
言わなきゃいけない。こんなに想ってくれる、龍太のためにも。
「龍太君」
萌子は顔を上げて、龍太の瞳をそっと見つめた。彼の瞳が不安げに揺れる。
泣いちゃいけない、と思った。あたしに、そんな資格はない。
「ごめん。あたし、一緒に東京へは行けない」
それが萌子の答えの大半だと悟ったのだろう。龍太は全身の力が抜けたように、ふうっと大きなため息を吐いた。
「そっか」
「ごめん……」
「いや」
龍太は意外でもないといった風に薄笑いを浮かべて、
「昨日呼び出しの電話をもらった時、何となく予想はしてた」
そう言い捨てた後、それでも彼は少しだけ寂しそうにそっと息を吐いて、
「諦められない?」
「え?」
「彼のことさ。それとも、忘れられない?」
「うんとね。そうじゃなくてね……」
何て言えばいいのだろう。萌子は必死に言葉を探した。伝えなきゃいけない。龍太には、本当の気持ちを。
「あたし、自分の気持ちから逃げたくないの」
萌子の台詞が理解出来なかったのか、龍太は困惑した顔で次の台詞を促した。
「あたしね、先生に自分の気持ち伝えるつもり。ううん」
萌子は半ベソをかきながらゆっくりと首を振って、
「ダメだってことは判ってるの。でもね、このまま何もしないで終わってしまったら、ずっと後悔すると思うの。初めて」
萌子は深く息を吸い込んだ。
「初めて、そう思える気持ちに出会ったの」
あのホッとしたような久志の笑顔を思い出した。いつまでも見ていたくなるような、あの笑顔を。
「俺は、待っていてはいけないのか?」
苦しそうな声で、龍太がそう尋ねる。
「ごめん」
答えた萌子の声も掠れていた。
好きだという気持ちはみんな一つしか持っていないのに、どうしてこんなにもすれ違ってしまうのだろう。
「あたし、龍太君をそんな風に利用したくないの。先生がダメだったらその次、みたいな。龍太君は」
(そう。あたしにとって彼は)
「とても大切な人だから」
萌子の胸を何度もやるせない想いが訪れて、やがて彼女は涙が止まらなくなった。あたしはどうしてこんな風に不器用な生き方しか出来ないんだろう。まっすぐにしか歩けずに、また人を傷つけてしまう。
「ありがとな」
予期せぬ台詞を耳元で囁かれて、萌子は弾かれたように顔を上げる。
そこに、思いがけない笑顔があった。
「すごく嬉しいよ」
「でも」
泣き腫らした目で萌子は、縋るように龍太を見上げた。
「わたし、龍太君のこと……」
「しょうがないんだよ、それは」
教え諭すような龍太のその口調は、同い年とは思えないほど大人びていた。
「お前がまだ、そいつのことが好きなんだから」
「え?」
「付き合えそうだから好きになる。そうじゃないだろ? 好きだから、一緒にいたいと思うんだ」
そして龍太は一つ、力強く頷いた。
「お前はまだ、その先生のことが好きなんだよ」
公園の出口まででいいと言ったのに、龍太はわざわざ駅の改札まで見送りに来てくれた。
「俺も、駅の方に用事があるから」
きっと言い訳に違いない。萌子は直感的にそう思った。思えばそうやってさりげなく、私はいつも彼の優しさに触れていたんだな、と萌子は改めて感じていた。
(どうして今まで、気づかなかったのだろう)
自分の勘の鈍さが、今は恨めしかった。
駅までの道は、会話が途切れがちだった。少し先を歩く龍太の背中を見つめながら、萌子は自分が振られたみたいにしょんぼりとしていた。
「じゃ、ここで」
改札の前で、龍太はそう小さく手を挙げた。
「しばらく、お別れだな」
自分から断ったくせに、龍太が口にした『お別れ』という言葉の響きに、萌子の心は激しく揺れ動いた。
「もう、逢いたくない?」
そう呟いてから、萌子は自分の問い掛けた台詞の愚かさに気づいた。
あんなに好きだった久志の視界から、それこそ逃げ出すように離れていったのは、他でもない自分自身ではないか。
龍太はしばらく黙り込んで、じっと萌子を見つめていた。改札を行き来する人々のざわめきが、二人のあいだを横切っていく。
と、突然彼は笑い出した。
「何言ってるんだよ」
「だって」
「お前は、逢いたくない?」
「そんなこと……」
きっと虫が良過ぎるんだ。萌子は思った。手に入れたいものはある。でも、今立っている場所も失いたくない。
「だったら、またいつか、な」
「え?」
「しばらくは逢えないけど……」
龍太は、ちょっとだけ楽しい出来事に思いを馳せるような目をして、
「俺もライブの準備で忙しいし、年が明けたらそんなに逢う機会もないだろうし。それに」
彼はにやっと笑って、
「お前の願いが万が一、いや百億分の一の確率で、奇跡的に、ちょーミラクルで」
「ちょっと! そんなに確率低いの?」
何だか可笑しくなった。龍太の戯けた仕草に、萌子はちょっとだけ楽しい気分を取り戻して、笑いながら龍太を軽く睨んだ。
「はははっ」
龍太も嬉しそうに笑い声を上げて、
「ホントに願いが叶ったら、きっと俺と会ってる暇なんかなくなるさ」
本当だろうか。
みんなと会う暇がないほど、二人で過ごせるようになるのだろうか。
いや、そもそもそんな奇跡は起こりうるはずがないのだ。
それは龍太も判っているはずだった。判っていて、彼なりの優しさなんだと萌子はまた気づかさせられた。
「じゃあな」
そう萌子を改札に送り出そうとして、龍太は急に何かを思い出したように、
「あっ、ちょっと待って」
「え?」
「これ、持ってって」
そう呼び止めて彼は、ポケットからMDを二枚取り出した。
「こないだの、ライブの。薫にも渡しといて」
「うん。ありがとう」
萌子はそれをとても大切そうに受け取ると、少し俯いて、
「ごめんね。とーきょーのライブ、行けなくて」
「うん。しょうがないよな、どっちみち遠いし」
「薫は知ってるんでしょ? ライブのこと」
「うん。萌子に言う前に話した」
龍太は少し笑って、
「即座に『むりっ!』って言われた」
萌子も思わず一緒になって笑った。
遠慮したのだ、と思った。意固地になる薫の姿が目に浮かぶようで、萌子は何だか可笑しかった。私は幸せ者なのだと、少し思った。
「萌子、お前さ」
「ん?」
「D−snap、持ってたよな」
「うん。持ってるけど……」
「……じゃ、これ」
一瞬のためらいをみせてから、龍太は同じポケットからメモリーカードを取り出した。
掌に収まった小さな黒いプラスチックの欠片を見つめて、それから萌子は戸惑ったように龍太を見た。
「それは、お前だけに聴いて欲しいんだ」
「わたし、だけ?」
「そう。お前だけに」
どうして? という台詞を、萌子は寸でのところで飲み込む。
龍太の視線が雄弁に語り掛けていた。彼の熱く、強い想いを。
「……ありがと」
それだけ言って、萌子はメモリーカードをバッグにしまった。
「じゃあ、な」
「うん。ライブ、頑張ってね」
「ああ。お前もな」
「……え?」
龍太に背を向けかけた萌子は、その一言で振り返った。
「諦めるんじゃないぞ。お前は」
龍太はそう言って柔らかく微笑む。
「失し物でも何でも、すぐ諦めちゃう癖があるからな」
萌子は、胸の奥が静かに熱くなるのを感じていた。涙腺のボルトが、わずかに緩む。
「諦めるな、最後まで。それでもし」
龍太は鼻を擦ると、気恥ずかしそうに少し俯いた。
「辛くなったら、戻って来いよ」
「え?」
「どうせ多分俺も、しばらくはお前のこと、忘れられないからさ」
彼はそう言って、また照れたように鼻を擦った。
地上の賑わいをよそに、真昼のプラットホームは閑散としていた。
ホームの端に立って、萌子はバッグからメモリーカードを取り出す。
『しばらくはお前のこと、忘れられないからさ』
萌子は、掌に乗せた黒い小さな塊をきゅっと握り締めてから、D−snapに挿入した。
スイッチを入れると液晶画面に『Hello!』の文字が躍り、次に『Non‐Title』というテロップが流れた。
『メリークリスマス&ハッピーニューイヤー!』
「え?……」
ヘッドホンの中からいきなり龍太が語り掛けて来て、萌子は不意を衝かれた。
『きっと今年はもう萌子と逢えることもないだろうから、今のうちに言っておくよ。
俺は口下手で、上手く言葉にすることが出来ないから、明日逢ってもお前に上手く気持ちを伝えられないと思う。
俺は、歌うことしか出来ないから。
だから君に、プログラムにないこの曲を贈ります。
忘れないで欲しい。俺だけは君の味方だから。
いつまでも、君の。
君以外の全てを敵に回しても』
そしてヘッドホンの中の彼は、静かにアカペラで歌い始めた。
(愛じゃなくても 恋じゃなくても 君を離しはしない けして負けない 強い力を 僕は一つだけ持つ持つ)
萌子は突然、涙を堪え切れなくなった。唇を歪ませて堪えようとすればするほど、とめどなく涙が頬を伝う。
今初めて知る、龍太の本当の想いの深さを、萌子は心の奥でぐっと噛み締めた。
「メリークリスマス……」
周囲に聴こえないくらい小さな声で、萌子はそっと呟いた。
(頑張って、龍太君……!)