第六章 キャンドルナイト(2)
忘れ物。
あたしが忘れている、肝心なこと。
判っていた。それは、今まで生きて来た中でいつも後回しにして来た感情だった。
「さわざきもえこさん」
彼の、そういう茶目っ気のある喋り方は、あまり聞いたことがないような気がする。
改札をすり抜けようとしていた萌子は、感傷も何もなくただ驚いて弾かれたように振り返った。久しぶりに見る、無邪気な笑顔がそこにあった。
久志は自動改札の向こうで小さく手を挙げると定期を改札に滑り込ませて、立ち止まっていた萌子の元へと近づいて来た。
とくとく、と心臓が血管に血液を流し込む音が聞こえ始める。それは、どこか懐かしい響きだった。
近づいて来た久志の表情は、どことなく硬く感じられた。久しぶりにこんな間近で見るせいだろうか。
「今、帰り?」
久志の、何とも間抜けな問い掛けに萌子は少し笑って、
「見ての、通りです」
担任から書類整理を頼まれて、珍しく帰りが遅くなった下校途中の福山駅でのことだった。
1年で一番陽が短い季節。駅構内の雑踏の中にも、夕暮れに追われる気忙しさが漂っている。
久志の顔を見て、こんなにも落ち着いていられる自分がとても不思議だった。こんな風に突然出会ったら、もっと取り乱して慌てるものだとばかり思っていたのに。
でもまだドキドキする。ふんわりと浮き上がったその気持ちは、違う意味で好きになったあの中3の頃とは、上手く言えないけれどやはりどこか違うような気がした。
もう諦めたはずなのに。
(でもやっぱりまだ好きなんだ)
萌子は、それが一番素直な答えのような気がした。
「先生は?」
「ん? いや、いつもよりちょっと早いんだけどね」
少し照れたように頭を掻く仕草も、何となく懐かしい気がする。萌子は、久志の仕草一つ一つに愛執を覚えた。心を捉えた切なささえも、何だか心地よいものに感じていた。
「買い物、してこうかと思ってね」
「ああ」
萌子は薫みたいにぽんと手を打って、
「一人やもめ、でしたもんね」
「おい、そりゃバツイチに使う言葉だ」
そして二人は大笑いした。二人で笑うのなんていつ以来だろう。笑いながら萌子は、紛れてそっと涙を拭った。
二人で縦列になって乗るエスカレーターも、何だか萌子をドキドキさせた。それでいて、その気持ちの合間を縫うように絶望的な痛みが襲い掛かって来る。
他に、好きな人がいる人。もう、届かない人。
先を行く、意外と広いその背中を見つめながら、萌子は心の中でそっと呪文のようにそう唱えていた。
エスカレーターを昇り切った高架式のプラットホームは、蛍光灯の明かりが奇妙な存在感を増し始めていた。
そういえばこのホームで、久志の姿を見つけて薫と二人で走り出したことがある。あの時は、時計の短針が今よりメモリ5つ分ぐらい遅い時刻を指していた。
あれからもう2ヶ月が過ぎた。私の気持ちは、あの頃と何か違うのだろうか。萌子は思った。
いろんな出来事が過ぎ去って、今二人のあいだにはあの頃と違う距離がある。その距離が縮まったのか遠くなったのか、それは判らないけど。
(遠くなったんだ、よね)
萌子は自分にそう問い返して、心の中で苦笑いを浮かべた。
今は近づくことさえ出来ない。久志とこんなに近くにいながら、その心に触れることさえ出来ない。近しいと感じたあの秋の日は、幻想に過ぎなかったのだろうか。
「元気だったか?」
下り列車の入線を告げるアナウンスが流れる中で、久志が唐突にそう訊ねて来た。人混みの騒がしさとアナウンスが被って、萌子はその声が良く聞き取れなかった。
「え?」
人波に流されて、二人で並んでつり革に掴まったところで、久志はもう一度訊き直した。
「何か、久しぶりに逢ったみたいな気がするから」
そんなはずはない。今でも週に2回、間違いなく顔を合わせている。
授業中、久志と会話を交わすことはほとんどなかった。最初は、むやみに話し掛けて来ない久志のことを都合よく思っていた萌子も、次第に彼が自分を避けているのだと気づいた。彼は学芸会の木の役並みに、大根役者だった。
彼が何故萌子を避けるようになったのか判らなかったけれど、お互いそんな風にぎこちなく避けあっている内に、二人はいつの間にか溝を深めてしまったのかもしれない。今は、そんな風にも思える。
やはり、時は巻き戻せない。
「……最近、忙しいのか?」
夕闇の中を進む列車の中で、つり革に掴まりながら久志はそう遠慮がちに訊いた。それはもう本当に遠慮がちで、ざわつく夕方の車内では思わず聞き漏らしそうなほど小さな声だった。
「え?」
「いや……」
訊ねたことをすぐに後悔したような素振りで、久志は前を見たまま少しだけ黙り込んだ。
「最近、部に顔を出さないなって思って」
「……すいません」
「あ、いや、いいんだ」
萌子の声のトーンの低さに、久志は慌てたように取り繕って、
「もっと顔を出してない奴なんか、いっぱいいるからな」
そう無理やり笑顔を浮かべた。
どう思ってるんだろう、と萌子は考えた。私が何故顔を出せなくなったのか、それを彼はどんな風に思っているのだろう、と。
「たださ」
相変わらず視線を前に向けたまま久志は、
「部長が、残念がってたからな」
「え?」
思いもよらぬ台詞に、萌子はつい久志の方を見やった。
「小笠原が、残念がってたぞ。澤崎は来年の部長候補、らしいからな」
「そんな……」
久志が来る前だって、そんなに熱心な部員じゃなかったのに。萌子は正直戸惑った。
「君は真面目だし、それに」
そこでようやく、久志が萌子の方を見やった。
「『あんなに上手い美術部員、他にいないよ』って」
そんなこと、美術部に入って1度も言われたことがない。いや、絵を始めてからこのかた、そんな褒められ方を1度もしたことがないような気がする。萌子は、驚くというよりむしろ呆気にとられてしまった。
「俺も、そう思うよ」
「え?」
「君は、基礎がしっかりしていて実力があると思っているよ」
久志のいたって真面目な台詞に、萌子は言葉を失くして顔を真っ赤にした。
「そんな、褒め過ぎ……」
「そんなこと、ないさ」
不器用なくらい力を込めて、久志はそう断言した。
会話が途切れた。予想もしなかった台詞に、萌子の心臓は複雑怪奇に脈打っている。久志に褒められたことか、それとも自分の絵を褒められたことか。いや、その両方の理由で、萌子の心はすっかり舞い上がっていた。
「あのさ」
「は、はい」
「もしかしてさ」
「はい?」
久志が萌子を見つめた。萌子も久志の方を見やった。久しぶりに、その鳶色の視線と目が合う。
綺麗だ。何の脈略もなくそう思い、萌子は不自然に頬を赤らめた。
「部活に来れないのは、僕のせい?」
その刹那、萌子は心臓を握り潰されたような気がした。ひやりとした感覚が体中を駆け巡る。奈落の底に叩き落されていくような感覚。
やっぱり知っているんだ。絶望的な感覚の中で萌子はそう思った。授業中の不自然な態度も、それならば説明がつく。
黙り込んだ萌子を見て、久志は肯定と取ったらしい。次の瞬間、彼はとても切ない笑顔を浮かべた。
「僕のことなら、気にしなくてもいいのに……」
「……え?」
「僕は、君をただ教える立場にあるだけなんだから」
「……」
少し意味が判らなかった。教師と生徒なのだから、プライベートなことは気にするな。そう言いたいのだろうか。
「あのお祭りの日にさ」
突然、ベッチャー祭りの日のことを口にされて、萌子はドキッとした。
「君と僕はとても似ている。そう感じたのは確かだけど」
こんな時なのに。萌子は一瞬、喜びに似た胸の震えを感じた。少なくとも、あの夕暮れに感じたことはやはり同じだったのだろうか。
「でも、それだけのことだから」
喜びは紙一重で虚しさにすり替わった。あの時感じたものなんて、二人のあいだを埋めるにはあまりに小さ過ぎたのだ。二人を隔てる、年齢や環境や、育って来た道筋の違いを。
「もし、さ」
哀しく、達観した口調だった。久志はレールの揺れに合わせて体を揺らしながら、
「澤崎さんが部活に来にくいならさ。僕、顧問辞めてもいいかなって思って」
ドン、と見えない力に突き飛ばされたみたいだった。その瞬間、萌子はつい泣き出しそうな気分になった。
私の身勝手な感情の脆さが、周りの人にどんどん辛い思いをさせている。思いも寄らなかった。久志にこんなことを考えさせているなんて。
(しっかりしなきゃ)
萌子は必死に、自分を奮い立たせようとした。
「先生の、せいじゃないです」
大人しい声で、それでも萌子はきっぱりとそう言った。
「最近ちょっと家のことで忙しかったし、それに……ちょっとスランプだったし」
嘘も方便。萌子はそう自分に言い聞かせながら、少し早口にウソとホントを織り交ぜた言い訳を口にした。それから、心を決めて久志の方に向き直ると、
「でも、大丈夫です。明日くらいから、また出ますから」
「ほんとうか?」
いくらかホッとしたような、本当に嬉しそうな顔だった。久志のその笑顔を見た途端、萌子は心の底から『良かった』と胸を撫で下ろした。
そして思ったのだ。忘れ物、取りに行かなくちゃ、と。