第六章 キャンドルナイト(1)
階段を登り終えてホームに立った途端、強烈な北風が萌子の耳元を走り抜けて行った。彼女は思わずその小さな身を更に縮めて、ダッフルコートの襟元をかき寄せた。
風の冷たさにも、はっきりと年の瀬を感じられるようになった気がする。
改札を抜けると、街は冬の訪れを忘れさせるかのように無理にはしゃいでいた。
比較的新しい駅前のビルや、駅近くの海岸沿いに建つ尾道グリーンホテルの入り口には、今風の可愛らしいツリーが飾られている。
けれども、古ぼけた一番通り商店街に一歩足を踏み入れると、まるで様子が違って来る。
そこはまるで、おもちゃ箱をひっくり返したみたいだった。アーケードに頭を打ってしまいそうなほど不釣合いに大きなツリーや、金色のモールを店中の天井に張り巡らせた八百屋。万国旗を掲げた店まである。
それじゃクリスマスじゃなくて運動会だよ。萌子は思わず心の中で突っ込みを入れた。
人々はみな、自分なりに飾り立てて幸福な年の終わりを迎えようとしている。萌子はそれに一人乗り遅れたみたいで、無性に人恋しかった。
いつもの路地を抜けて、海岸沿いの道に出る。
12月に入って、萌子はまた『ひこうき雲』に通い詰めるようになっていた。
別に薫と喧嘩した訳ではない。朝は今でも一緒に通っている。
ただ、まだ心の整理がつかなくて、というより余計混乱に拍車をかけられて、放課後の美術室に寄る勇気が出ないだけだった。
あの翌朝、福山まで向かう列車の中で薫はこんな話を始めた。
「小4のさ、秋の連休かな。みろくの里に行ったの、覚えてる? 美幸や友子とさ」
美幸も友子も、小学校の頃の遊び仲間だ。中学になって学区が違ってしまい、離れ離れになってしまったが。
「うん。覚えてるよ」
「あれね」
薫はちょっぴり茶目っ気のある目をして、
「あの娘たちが仕組んだのよ。あたしと龍太をひっつけようとして」
薫や萌子のいたグループは、けっこう男の子との交流が多かった。やっぱり龍太が中心のグループで、そんな風に何度か遠出をしたこともある。
でも、そんな誰かと誰かが付き合うみたいな話は、その頃一度も聞いたことがなかった。
それはただ、萌子が幼過ぎただけなのかもしれないけれど。
「龍太ったらねぇ、ずいぶん優しいのよ。ついつい勘違いしちゃった」
そう思い出し笑いする薫は、何だかやけに楽しそうだった。
「まさかねぇ、鯛を釣るために先に海老を釣ってたとはね」
「それ、逆じゃない?」
思わず萌子はそう突っ込んだ。
「海老釣るために、わざわざ鯛釣ってたんじゃない? そんなもったいないこと」
そう言ったら、薫に大笑いされてしまった。
「てか、『海老で鯛を釣る』って、もっと違った意味じゃなかたっけ?」
そうして二人でひとしきり大笑いしてから、薫はしんみりと一言、
「龍太にとって、鯛は萌子だったのよ」
それから薫は、少しずつ龍太とのことを話してくれるようになった。そのほとんどが、愚痴に近かったけれど。
「萌子、中学の時黒田君のこと、好きだったでしょ」
そう言われた時は、思わずドキッとした。
黒田君とは、あの一度も同じクラスになれなかった男の子のことだ。
「そのこと話した時ね、アイツもうパニック起こしちゃって。相手に彼女がいるって聞いてすぐ正気に戻ってたけど」
手に負えないわよ。彼女はそうぼやいてみせた。
「ホント学習能力ないんだから。さっさと奪ってっちゃえばいいのにさ」
それはあたしも同じか。小さく、寂しげにそう呟いてから薫は、
「アイツね、何て言ったと思う?」
「?」
「『俺はバンドを成功させてから、萌子を迎えに行くんだ』って」
薫の口からそう知らされた刹那、萌子は密かに胸を衝かれた。
高校に入って、初めて薫に龍太のライブに連れて行ってもらった時、彼女はホントにびっくりしたのだ。
ただのクラスのアイドルは、いつの間にかすっかり遠い存在になっていた。
『バンドを成功させたら』
あの時、本当に龍太からの迎えが来ていたなら。もしかしたら……。
あれから、龍太と時々メールし合っている。お互いの気持ちを避けるように、他愛のないやり取りばかりだったけれど。
答えを強要しないところが彼の優しさであり、臆病なところなのかもしれなかった。
「ホント男って、融通が利かないっていうか……」
そんな萌子の胸に宿った想いなど薫はまるで気づかずに、さも可笑しそうな口調で、
「初めて萌子をライブに連れてった後、『言っちゃえばいいじゃん』って言ったのよ。でも『まだダメだ。もっとメジャーにならなきゃ』って。結局度胸ないんだから」
少し嬉しそうで、少し淋しそうだった。薫はそんな口調で龍太とのことを語り続けた。
「龍太とまた逢うようになってから、しょっちゅう電話やメールしてた。きっとね、普通に付き合ってるより連絡とってたと思うよ。でもね、いつも萌子の話ばっかり。ホント龍太くらいなもんよ。あたしとあんなに近くにいて、あたしのこと女だと思ってない男なんて」
ホントだ。薫の妙に自信ありげな言い草に、それでもその通りだと思って萌子は思わず笑ってしまった。
「あたしのことなんて、ただの便利な相談役と偵察役、ぐらいにしか思ってないんだから」
薫はそうこぼして、
「で、結局あたしが探りを入れることになって。でもあんたは妙に秘密主義で、そのくせ顔色を読み易くって」
それから、萌子の瞳を覗き込むようにして、
「ねぇ。龍太じゃ、ダメなの?」
愛する人がいることは、とても幸せなはずなのに。人は何故、こんなにも迷ったり悲しい思いをしたりしなければならないのだろう。
『もし、友達のままでいられれば。ううん。アイツが萌子の心を射止めたとしても、三人でいられれば、今まで通りなら』
半分嘘だ。萌子はそう思った。
人を好きになるということは、もっとわがままで欲深いものだということを、彼女はつい最近嫌というほど思い知らされた。時が経てば経つほど、気持ちが募れば募るほど、思うのだ。その人に振り向いて欲しい、と。
でも、半分は本当なのだろう、とも思った。
人を好きだという想いを、そんな風に純粋に昇華させることが出来るのなら。
それはもしかしたら、両想いになるよりも美しく心地よいものなのかもしれない。
「もし……」
もし私が龍太を選べば、薫は綺麗な想い出を抱えて歩いて行けるのだろうか。
もし私が断ったら、龍太は薫のこんなにも純な気持ちに気づいてくれるのだろうか。
違う。私は何か肝心なところから逃げている。萌子は薄々そう感づきながら、薫や龍太の存在の大きさに心を絡め捕られて動けなくなっていた。
相変わらず重たげなきつね色のドアを押し開けると、いつもの通りカウ・ベルがカランカランと小気味良い音を立てた。
萌子がこうして『ひこうき雲』に3日も4日も続けて足を運ぶのは、実は2度目のことだった。
前の時は、すでに終わりを告げた想いを萌子が少しずつ少しずつ話した。それを千絵は頷きながら黙って聴いてくれた。
『あなたの想いは、決して間違ってないのよ』
まるでそう言っているかのように。
普段から、
『相談ごとっていうのはね、人に話そうと思った時はもう半分は結論が出ているものなのよ』
と言う彼女は、こうして萌子がまた頻繁に顔を出すようになってもあまり余計なことは言わない。始めは、久志と出逢ってからすっかり足が遠のいていた姪っ子に向かって、
「何だ、今度来る時は男連れかと思った」
と軽口を叩いてみせたが、途端に迷子の子犬のような情けない顔をした萌子を見て冗談ではすまないと悟ったらしく、それきり何も言わなくなった。
「いらっしゃい」
カウンターの中から、千絵はいつもと変わらぬ笑顔を見せた。
店の中は、珍しく複数の客がいた。中年の夫婦連れ。二人組と三人組の女性グループ。こんな季節なのに、みな観光客らしかった。
カウンターに腰掛ける寸前、萌子はちらりと二人組の女性たちを見やった。萌子より少し年上の、大学生ぐらいの年齢だろうか。笑い合いながらガイドブックに目を通している。
萌子はふと、薫のことを想った。彼女と、あんな風に笑い合える日は来るのかしら、と。
「大丈夫? 忙しい?」
「何言ってんのよ」
相変わらずの快活な笑顔で千絵は、
「閑古鳥が鳴きそうなくらいよ」
「良かった。じゃあ遠慮なく何か食べさせてもらおうかな」
「……あなたは『謙虚』という言葉を知らないの?」
「はい。知りません」
この店にはあまりクリスマスらしい飾りつけがない。入り口の外に腰の高さほどの可愛らしいツリーが飾られている程度だ。それでも店内をくるっと見回した萌子は、作りつけの棚の上に小さなサンタを見つけた。
「あれ、可愛いね」
「ん?」
カウンター奥の小さなキッチンに向かっていた千絵は、萌子の指差す方へ目をやって、
「ああ。いい感じでしょ」
「うん」
「聖なる夜に、ちょっと寂しかったからね」
「あれ?」
萌子はちょっと驚いた様子で、
「今年はお昼までじゃないの?」
千絵は毎年、イブはお昼過ぎで店じまいをしてしまう。そして澤崎家・水谷家合同のクリスマス・パーティーに顔を出していた。
萌子は一度だけ、
『広島に行かなくていいの?』
と訊いたことがある。その時千絵は、
『大人の恋だからね』
と萌子を軽くあしらってみせた。
「開くって言っても6時くらいまでね」
そう言って千絵は、何だかとても嬉しそうな優しい目をしてみせた。
「彼がね、来るの」
「え?」
「24日、昼間だけ尾道に寄れるんだって」
「じゃあ」
萌子は興奮したように驚いて、
「店開けてる場合じゃないじゃない」
「ううん。違うの」
少し恥ずかしそうな口調で千絵は、
「そんなに時間もないからね。ここで、過ごしたいんだって」
「え?」
「だから、店開けることにしたの。ちょっとノエルっぽくしてね」
そう言って千絵は、萌子の前に彼女が大好きなアップル・ティと、パンケーキと何か印刷された紙切れを置いた。
『ゆきだるまサンタからのプレゼントが、
その下にあるよ☆』
「?」
「食べてみて。その注意書き通りに、ね」
パンケーキの上に赤いりんごと白いゆずのシャーベットが二段重ねになっていて、ご丁寧に目・鼻・口と手までついている。これが『ゆきだるまサンタ』らしい。パンケーキの外には砂糖菓子のパウダーと木苺のソ
ースがあしらってある。なかなか洒落た出来栄えだ。
「何だか、雪だるま食べちゃうのかわいそう」
そう文句をつけながら、萌子はシャーベットをスプーンで崩した。
ゆずとりんごの味が程よく溶け出してなかなか美味しい。と思っていたら、スプーンの先にこつん、と硬いものが当たった。
「ん?」
「ダメよ。あんまり突いちゃ」
りんごのシャーベットがほとんどなくなってから、やっとその正体が判った。
それはよくバースデーケーキなどに使われる、チョコレートで出来たメッセージボードだった。
『今宵貴方に
幸福が降りますように』
「わぁ、可愛い」
「イブ用の、目玉商品にね」
千絵はそう戯けて見せたが、きっと照れ隠しだろう。彼のために作ったに違いない。彼を驚かそうと一所懸命に考えている千絵の姿を
思って、萌子は胸が熱くなった。
千絵ちゃんは幸せなんだ。こんなに離れ離れで、でも幸せなんだ。
「じゃあ、うちには来ないの?」
「ううん、行くわよ。彼ね、仕事で大阪に行くついでに寄ってくれるの。だから、彼を新尾道の駅まで送って行って、たぶん8時頃になっちゃうけど」
「じゃあ、それくらいに始めようかな」
「ごめんね。今年は誰が来れるの?」
「んとね、ママとね薫と薫ママと。薫パパは仕事で泊まりなの。あとはおばあちゃんと千絵ちゃんと」
あんなに仲が悪いのに、千絵と祖母は何故かこの日のパーティーにだけは揃ってやって来るのだ。そして何事もないかのように話をする。たぶん二人は、1年でこの1回しか顔を合わせていないはずだ。
「6人かな」
「あらあら、女だらけの淋しいイブねぇ」
千絵はおやまあという顔をしてから、何かを思い出したように、
「そうだ。あの子は?」
「え?」
「ほら、何て言ったっけ? あのロッカー君」
「龍太
君のこと?」
「……そんな名前だっけ?」
「龍太君なら、その日ライブなの」
台詞の合間に、萌子は小さな呼吸を入れた。
「東京で」
「へえぇ。出世したわねぇ」
千絵は甚く感心した様子で、
「今の内にサイン、貰っといた方が良いかしら?」
「それ、あたしもこないだ思った」
二人は目と目を合わせて、可笑しそうにくすくすと笑った。
「……それにしてもさ」
「ん?」
「あんたも薫ちゃんもそろそろ『その日、予定があるから』とか言い出さないもんかねぇ」
その台詞を聴いて、きっと萌子がまた迷子の子犬みたいな顔をしたのだろう。千絵はちょっと突き放したような口調で、
「何かありそうな年頃みたいだけどね」
「……千絵ちゃんはさ」
また何かサプライズを思いついたのか、キッチンに向かい始めた千絵に向かって萌子は、
「自分がとても好きな人が、相手も自分を一番好きだった経験って、ある?」
その途端に、千絵は思いっきり『ぶっ』と吹き出した。萌子は軽蔑したように横目で千絵を睨んで、
「千絵ちゃん? ちょっと不衛生なんじゃない?」
「だって、あんた、いきなり何を……」
千絵は慌てたように口元を拭って、
「あ〜あ。このアイス、ダメだわ」
と嘆いてから、萌子の顔をじろりと睨んだ。
「何があった?」
「……」
「振った? 振られた?」
千絵の畳みかけるような問いに、萌子は黙って首を振って、
「振られたし、告られた」
「……はぁ?」
「へえぇ、あんたがねぇ」
千絵の台詞には明らかに、言外に『あんなに子供だったのにねぇ』という響きが含まれていた。
「千絵ちゃん」
萌子はちらりと横目で睨んで、
「なによ。そんなに珍しいこと?」
「いやいや、そうじゃないけどさ」
「どうせ『あんたも大人になった』とか、言いたいんでしょ」
何から、どこから話したら良いかさっぱり見当がつかず、とりあえず龍太とのことをしどろもどろ説明しているあいだに、店の客は三組が帰り一人が入った。
今は、初老の男性が窓際の席でコーヒーを飲みながら、夕暮れの街を見つめている。
「龍太君、だっけ?」
「……うん」
「いい、男じゃなかった?」
「……まあね」
「でも」
シンクに向かって洗い物をしながら千絵は、
「萌ちゃんにとって『とても好きな人』じゃないんだ」
「……」
「あるよ」
突然そう言われて、何のことか判らなくて萌子は千絵を見やった。彼女は洗い終わった手を小さく振りながら、
「ホントに好きだった人が、向こうも好きでいてくれたこと。今、経験してるよ」
「……それって」
「そう、小田さん」
さすがに恥ずかしいのか、千絵はわずかに視線を逸らすようにして洗い終わったカップを手にすると、
「彼とはね、仕事の関係で出逢ったんだけど、初めて会ってから2年くらいは何もなかったの。あたしは、出逢った時から好きだったけど、彼には死に別れた奥さんがいて、今も想ってることが判って諦めたの。さすがに」
千絵は苦笑いを浮かべて、
「幽霊には勝てっこないからね」
「でも」
「そう。2年経った、あたしの誕生日に彼にディナーに誘われてね。そこで彼に言われたの」
店の中を流れる有線の曲が変わった。カーペンターズのイエスタディ・ワンスモア。
「『言わないつもりで、ずっといたんだ。でも、どうしても我慢出来なかった。許してくれ』って」
言わないつもり。告げても、無駄な想い。告げては、いけない想い。
「自分との年齢差と、やっぱり死んだ奥さんのことがあって、どうしても言えなかったんだって、彼。奥さんにも、そんな想いを抱きながら接するあたしにも、悪いことをするって」
あたしは。そう言いさして、千絵は少しだけ考え込むように黙り込んだ。
「あたしは、嬉しかった。奇跡だと思った」
手にしたカップを慈しむように拭きながら千絵は、
「こんな恋、もう二度と出来ないと思っている。でもね」
そう言って千絵は、萌子の瞳を覗き込むように見つめる。
「だからって、今までの恋が全てウソだったなんて思わない。想われた恋も、想って報われた恋もあるけれど、どれも全力で真実だったと、あたしは思っているよ」
そして、あのたっぷりの笑顔を萌子に向けて、
「萌子。乞われる恋だって、あるのよ。女には、想われる幸せだってあるんだから。あなたは、少し生真面目過ぎるのかもしれない」
龍太に想われて、あたしは幸せだろうか? 萌子は考えた。
幸せ、かもしれない。
じゃあ、何が駄目なのだろう?
薫のこと? それとも……。
「千絵ちゃんさ」
「ん?」
「親友とさ、同じ人を好きになったこと、ある?」
千絵はしばらく、咎めるように萌子を見つめていた。それから吐き出すようにそっと、
「薫ちゃん?」
「……うん」
「どっちが好きなの?」
「薫が、龍太君を」
「そう……」
事の複雑さに、千絵は思わず肩をすくめる仕草をして、
「友達と、同じ人を好きになった経験、ない訳じゃないけどねぇ」
参考にならないわ、と呟いた。
それから萌子はやっぱりしどろもどろになりながら、薫と龍太のいきさつを掻い摘んで話した。そのあいだに初老の男性は去り、店は二人だけになった。
いつしか、窓の外は暮色に包まれていた。二人きりで淋しいはずの店内も、煌々と照る明かりのせいか、何だか楽しそうに感じられる。
萌子の話を聞き終わった後で、千絵はしばらく黙り込んだ。
萌子も黙ったまま、有線の奏でる調べに耳を傾けていた。そう簡単に答えなど出るはずがない。萌子の中で、結論など何一つ出ていないのだから。
「あなたにとってさ」
長い合間の後、千絵は言葉を選ぶようにゆっくりとそう問い掛けた。
「大切なことは、なに?」
「え?」
「萌ちゃんの言葉を聴いてるとね、あなたの気持ちが聴こえて来ない」
「え……」
「あなたが幸せにしたいのは龍太君? 薫ちゃん?」
「……」
「あなたの、幸せは?」
(あたしの、幸せ?)
忘れ物をしてるわよ。千絵のおおらかな笑顔はそう言っていた。忘れ物。あたしは何を望んでいたのだろう。萌子は何かを叩きつけられたような気分になった。
「忘れられないんでしょ」
「え?」
「『とても好きな人』が」
不意に、久志のあの爽やかな笑顔を思い出した。そう、この場所で初めて見た屈託のない微笑みを。懐かしく、暖かい想いで。
途端に、募る想いがあふれ出して止まらなくなった。この場所だからいけなかったのかもしれない。まだ好きなんだ。自分が逃げていた気持ちに、萌子はやっと気づかされた。
龍太は、精一杯の勇気を出してくれた。薫だって、本心じゃないかもしれないけど、自分の信念を貫こうとしている。
あたしは、どうだろう。現実から目を背け、逃げ出して来ただけじゃないのか。
目頭を潤ませて俯いてしまった姪に、千絵は優しく手を差し伸べて頭をぽんぽんと撫ぜると、
「絶対に、もうダメなの?」
「女の人とホテルから出て来るとこ、見ちゃったの」
「それは……」
さすがに千絵も一瞬答えに詰まった。
「その人は、彼女なの?」
「……わからない」
久志と黒沢が親しい関係だなんて、学校の中で見ている限りでは全く判らなかった。だからと言って、あの時の黒沢の驚いた表情を否定する材料になんか出来ない。
「でも、忘れられないんだ」
千絵の問い掛けに、萌子は作り物のようにコクリと頷いた。
淋しげに俯く姪に掛ける言葉を探して、千絵はしばらく逡巡した。そして、
「やっぱりね」
ゆったりと微笑むと千絵はこう語り掛けた。
「萌ちゃんは一つ、肝心なことを忘れていると思うよ」