第五章 重なる想い(4)
「ホントに入っていいの?」
校門の前に立って、萌子は恐る恐る薫を振り返った。
門のところには『生徒・関係者以外の構内立ち入りを禁じます』という校長名の看板が括りつけられている。
「平気よ」
薫は何食わぬ顔でそう答える。
「だってあたし、何度も中に入ってブランコで遊んだりしてるわよ」
薫が幼い子供たちと並んでブランコの順番待ちをする。とんでもない光景を思い浮かべてしまって、萌子は思わず吹き出してしまった。
「何よ」
「……ううん。何でもない」
それでもどうしても可笑しくて、萌子はくすくす笑いながら首を横に振った。
さっき、紙飛行機の飛んで来た方向に気づいて上を見上げた薫は、2階の窓から身を乗り出していた萌子を認めると、あの柔らかい笑顔を見せながら彼女に向かって小さく手を振った。そして澤崎家の玄関に廻ると、出迎えた萌子に向かって、
『ねえ、小学校行ってみない?』
と言い出したのだ。
萌子は薫と目を合わせた瞬間、(ああ、気づいているんだ)と思った。萌子が話したがることを、きっと彼女は待っていたのだろうと。
そうして二人は制服姿のまま、懐かしい母校へ向かった。
自分の家のすぐ目の前にあるのに、この校門をくぐるのは卒業してからわずか2、3回しかないことに、萌子はいまさらながら気づいた。それも薫に連れられて恩師の顔を見に行ったもので、一人で母校を訪れたことは一度もない。
教師からもいろんな意味で注目の高かった薫と違って、自分は印象の薄い生徒だった。と、萌子は勝手にそう思い込んでいた。
今でも萌子のことを覚えているのは、担任だった教師ぐらいだろう。あとは……。
「こら!」
突然背後から声を掛けられて、萌子は思わず飛び上がりそうになった。
慌てて振り返った萌子の胸にあふれた感傷は、懐かしさと、
(あれからずいぶん経つんだな)
という思いだった。
萌子たちが6年生の時の担任で、美術クラブの担当だった渡辺は、その当時から頭が薄く年齢査証疑惑が巷(?)に流れるほど老け込んでいた。だからこうして数年ぶりに顔を合わせてもそんなに外見は変わらないのだが、それでも萌子は直感的に(歳をとった)と感じた。
「ここは部外者立ち入り禁止だぞ」
そう言っている端から昔と変わらぬ笑みがこぼれていて、渡辺が本気で怒っている訳でないのはすぐに判った。
「こんにちは先生」
「おう。久しぶりだな澤崎は。水谷は……」
「あたしだって、1年ぶりぐらいですよ」
「そうだっけか? 君は、今でも毎日顔を見ているような気がするなぁ」
渡辺は二人の恩師であると共に、萌子にとって初めての正式な絵の師でもあった。きっと彼がいなければ、萌子の絵筆はただの手慰みに終わっていただろう。
彼は萌子の絵を正当に評価してくれた、身内以外で初めての人物だった。
「どうだ。絵、頑張ってるか」
あの頃と同じ、柔和なまなざしで渡辺がそう尋ねた。萌子は小さく頷いた。
「そりゃ、良質なモデルに恵まれてますから」
そう茶化した薫に小さく笑い返してから彼は、
「また、見せてくれな」
そう言われて、萌子は中途半端な笑みしか浮かべられなかった。そんな彼女の複雑な心境に気づくはずもなく、渡辺はちょっと過去を振り返る目つきをして、
「お前の作ったオブジェ、今の校長も偉く気に入っててな。まだ校長室に飾ってあるんだぞ」
と笑った。
あの頃と何も変わらない。それは一瞬タイムスリップしたみたいな、暖かな笑みだった。
「昔ね」
渡辺と別れた後、校庭の隅にあるジャングルジムに向かいながら、薫がそうぽつんと呟いた。
「え?」
「萌子が、羨ましかったの」
萌子は何かを聞き違えたのかと思って、思わず立ち止まってしまった。
「どうしたの?」
「いや、今、何て……」
「羨ましかったのよ。萌子が」
ジャングルジムにたどり着くと、薫は制服のスカートを気にする素振りもなく両手両足で登り始めた。小学生の頃とまるで変わらぬお転婆ぶりに、萌子もスカートの裾を押さえながら慌てて後に続いた。
一番てっぺんまで登ると、少し爽やかな風が吹いた。
正面に見える校舎は、釣鐘のような形の窓が美しかった。古い建物だが優雅な趣がある。
その前の狭い校庭で、児童たちが戯れるように遊んでいた。
私たちも良く遊んだ、と思った。校庭でもお寺の境内でも、もちろんあの102号室でも。薫や他の級友たちや、龍太とも。
(私は龍太君のことを、どんな風に思っていたのだろう)
好き、とかそんな想いは、あの頃の感情に似合わない気がした。みんなでいて、それが楽しく感じる空間。ただ、それだけだった。
「あの頃ね」
遠くを見つめたまま、薫がそう語り始めた。
「うん」
萌子も彼女と別の方向を見つめながら頷いた。
「あたしにないものを持ってる萌子が、すごく羨ましかった」
「そんな……」
萌子が持っているものなんて、あの頃も今も絵の腕だけだ。薫はもっとたくさんの、普通の人なら必ず羨むものを持っている。人柄も、容姿も、明晰な頭脳も。
「萌子がね、あのオブジェ作った時」
「……うん」
校長がお気に入りだというそのオブジェは、萌子が5年生の時に尾道市が主催した小学生向けのコンペに出品したものだった。しまなみ交流館の開館を記念したもので、新尾道大橋がそのテーマになっていた。
オブジェになんて挑むのはもちろん初めてのことだった。渡辺の師事を仰ぎながら、大橋とその先に続く尾道の細い路地を表現したその作品は、思いがけず優秀賞を授かってしまった。
ある期間しまなみ交流館に展示された後、萌子の手元に戻って来たそのオブジェを、当時の教頭がぜひ昇降口に飾りたいと言い出した。
本当は凄く嫌だった。その前から全校生徒の前で表彰されたりして、萌子はもうめちゃくちゃ恥ずかしい思いをしていたのだ。
展示場所を職員室にしてもらうことにして、萌子はそのオブジェを学校に譲った。
オブジェを創作する行為自体に、それほど興味が沸くことはなかった。今でも、たまに息抜きとしてチャレンジするくらいなものである。
「あたしね、あんたに敵わんて思ったの」
「でも、それは」
「ううん」
否定しかけた萌子の台詞を遮るように、薫はあの天使のような柔らかな笑みを見せる。
「そうじゃなの。そりゃあたしだって、いろんなことに恵まれてると思うけど……」
でも、その笑顔は一瞬の出来事だった。夕暮れの気配に溶けてしまいそうなほど、薫の声音がどんどん小さくなっていく。
「でもね、あたしの叶う夢はいつでも二等賞なの」
「……え?」
夜が近い。校舎の裏手にある、千光寺山へと続く森が一番初めに闇に吸い込まれていく。
萌子はこの時刻が大好きだった。もしかしたら生まれたのが夕方だったからかもしれない。そして、この時刻になると不安も覚えた。それは、あの4歳の夕暮れのせいだった。
静寂に呑まれるように、二人はしばらくのあいだ黙り込んだ。
「龍太から、メール来た?」
「……うん」
薫の問い掛けに、萌子は心をキュッと引き締めた。
「昨日、逢って来た」
「……そっか」
嬉しいような、面映いような、淋しいような、薫はさまざまな心境を幾重にも表情に現して、ホッとしたように空を見上げた。
「アイツ、とうとう行ったか」
「薫はさ」
「ん?」
「いつから知ってたの?」
「いつからって?」
「その、龍太君の、気持ち、ていうか……」
「ああ」
萌子の問いに、何故だか薫は嘲るような笑みを浮かべて、
「最初から」
「さいしょ?」
「そう。最初から」
さも楽しげに、流行り歌でも口ずさむように薫は、
「あたしが龍太と仲良くなった頃からよ」
「そんな……」
萌子は正直驚き呆れた。『前から』『小学生の頃から』龍太はそう口にしてはいたけれど、そんな遥か昔のことだとは、露ほどにも考えていなかったのだ。
「って言うより」
薫はチラッと萌子の方へ小狡そうな視線を投げて、
「萌子とお友達になりたくてアイツ、あたしに近づいて来たんだから」
ジャングルジムのすぐ下を、10歳くらいの児童が駆け抜けて行く。穢れのない、邪気のない笑顔で。
龍太がこの学校へ転校して来たのは、ちょうどあれくらいの歳の頃だ。
その頃の萌子なんて、男の子はちょっと乱暴で迷惑な存在くらいにしか思っていなかった。
「ま、そりゃ最初の頃はね、恋とか、そんなんじゃなかったと思うけどさ」
まるで人ごとのように、薫は投げやりな調子で話し続ける。
「アイツんち、借家だったんだよね。だから5年生になった頃、ちょっと焦ってた。いつか引っ越さなきゃならなくなって、萌子と離れ離れになっちゃうかもって」
薫はそう喋りながら足をぶらぶらさせた。
「だからね、連れてってあげたの。あの秘密の部屋へ」
初めて龍太があの部屋へ来た日を、萌子は今でも鮮明に記憶している。あの日、萌子は先にあの部屋に行かされたのだ。こう言い含められて。
『あとでいいもん、持って来てあげるからね』
「なのにさ」
そんなにしたらパンツ見えちゃうよ、というくらい薫はふんっと両足を高く上げて、
「アイツったら意気地なしだから、何にも言わないまま転校してっちゃってさ」
不意に、薫の声に湿ったものが混じったような気がした。萌子は顔を上げて、彼女の顔色を窺った。けれどもその表情を推し量れないほど、濃い夕闇が辺りに漂い始めていた。
「龍太から毎年、年賀状来てたでしょ?」
「え? あ、うん」
6年生の正月から、龍太から律儀に年賀状が届くようになった。萌子は結構凝った年賀状を返したのに、彼は素っ気ない絵柄に手書きで『お元気ですか?』と『今度会いましょう』と記すばかりで、結局その誘いは高校に入るまで実現しなかった。
「中1の時の年賀状にね、その直前に買ってもらったケータイのアドレス、載せてみたの」
薫の声色が変わった、と萌子は感じた。こんな切ない、哀しげな声、聴いたことない。
夕暮れが、彼女の不安を助長させた。
「今度こそ、一等賞になりますようにって」
「一等賞?」
萌子は不思議そうに薫の方を向いた。
そして、言葉を失くした。
薫の陶磁器のように白い頬を、涙が一筋伝っていた。
自分の頬を伝うものが何だか判らぬ様子で、その涙を拭いもせずに薫は語り続けた。
「わたしにはね、萌子の幸せは自分のことと同じくらい嬉しいの。だから……」
そしてやっと、目をごしごしと擦るように涙を拭いた薫は、すぐに泣き笑いみたいな顔になって、
「全部言わなきゃ、フェアじゃないよね」
「え?」
「あたしね」
夕暮れの風が、彼女の柔らかな髪を揺らす。
「龍太のことが好きなの。きっと、龍太が萌子のことを好きになる前から」
ああ、まただ。
浮かれてるから、こうなるんだ。
久志のことだって。
今だって。
萌子は、自分がどうしようもなく取り返しのつかないことをしてしまったような気がした。
「龍太が転校して来た頃、みんなに囃し立てられてたの。龍太が、きっとあたしを気に入るって」
薫は笑おうとしている。でもその端から涙がこぼれて来て、彼女の奇麗な顔を歪ませる。
「もしかしたら、自惚れてたのかもしれない。だから、神様がしっぺ返しをして来たの」
薫の口から嗚咽が漏れた。
「龍太から萌子のことを聞かれた時、頭が真っ白になってね。バカよね。でも、卑怯なことはしたくなかった」
そう、卑怯なことはしたくなかったの。誰に聞かせるでもなく、薫はもう一度そう呟いて、
「龍太をあの部屋に連れてった時、諦めたつもりだったの。その言葉は言わないつもりで、心の中にしまって。ずっと、ずっと。なのに」
いつのまにか薫は泣きじゃくっていた。萌子の口からも知らずに嗚咽が漏れていた。
「ごめん」
「何、謝ってるのよ」
薫の白い手がそっと伸びて来て、萌子の頭を軽く撫でる。
彼女はどうしても優しい。自分だって泣いているくせに、そうやって慰めようとする。その優しさに、私はいつでも甘えてしまう。
今まで二人で過して来た時間全てを、萌子は後悔しそうになった。
「悪いのはね、萌子じゃないの。いつまでも意気地のない龍太と、諦めの悪いあたしなの」
「でも……」
「も1回、メル友からって思ってもね」
薫は哀しげな笑みを浮かべて、
「結局あたしは龍太と萌子の橋渡しだった。でも、それでも良かったの。アイツは橋を作ってもちっとも渡ろうとしないし、萌子は相変わらず鈍感だし」
そう言って薫は、ちょっとだけいつもの皮肉った笑顔に戻った。
「萌子のそばにいれば、たとえ後ろ姿でも龍太のことを見ていられる。たまには、本当はそこが私の場所じゃないと判っていても、龍太の左側を独り占めすることだって出来る」
「……」
「まだ龍太は誰のものでもなくて。絶対に手に入らないと判っていても、龍太はまだ誰のものでもなくて。逃げてるって、自分でも判ってた。でも、怖かったの。龍太が誰かのものになることよりも、龍太が自分の目の前から消え去ってしまうことの方が。それならば」
薫は深く目を閉じた。
「それならば、心の痛みに耐えながら龍太のそばにいられることの方が、ずっと楽だった」
私はダメな人間だ。萌子はそう思った。
あの薫が、肩を震わせている。なのに私は慰めること一つ出来ない。
「もし、友達のままでいられれば」
声を震わせながら、薫は続けた。
「ううん。アイツが萌子の心を射止めたとしても、三人でいられれば、今まで通りなら。でもね」
そっと見やった薫の横顔は、何一つ思い通りにいかない運命に、疲れて果ててしまったように見えた。
「立花が、立花先生が現れて、全てが狂ってしまったの」
胸が痛い、と思った。体のどこにあるか判らない、心のとても奥深い場所が苦しいくらいに痛い。手の施しようがなかった。それが、堪らなく歯痒い。
「萌子が先生に惹かれてるのはすぐに判った。だってね」
こんな時なのに、薫は涙目で可笑しそうに笑って、
「萌子ったら、最初に報告して来た電話口から、おかしかったんだもん」
「え? うそ……」
萌子も、思わず泣き腫らした目を丸くした。
「ホントよ。すぐ判ったんだから」
そう言って、薫はまた表情を固くした。
薫が頬に張りついた髪を掻きあげる。その乱れた仕草に、ああ薫も女の子なんだって、萌子は突然気づかされた。
こんなに悩んでたんだ。そんなことも知らずに……。
「センセと萌子が上手くいけばいい。最初はそう思った。単純にね。でも」
薫はやけに爽やかな表情を浮かべて、
「龍太が萌子を諦めても、あたしを選んでくれるなんて誰にも判らない。それにね」
薫の笑顔は長続きしなかった。振り子のように揺れる心と同じように。
「龍太が、悲しむ姿は見たくなかった。やっぱり、アイツの味方でいたかったの」
夕闇の中で、薫が振り向いた。萌子は初めて、彼女の素顔を見たような気がした。
「味方でいたかったのに……」
まっすぐに萌子を見つめる薫の瞳から、とめどなく涙があふれて来る。
「卑怯なことはしたくなかったのに、でもいつの間にかこう願ってたの。萌子と、先生がくっついちゃえばいいのにって」
彼女の涙は、夕暮れが去っても止みそうになかった。