第五章 重なる想い(2)
浮かれてる。
抑えようとしても抑え切れない、晴れがましい気持ちが忌々しく思えて来る。
頬の火照りが、車内の暖房が効き過ぎているからではないことは、彼女自身良く判っていた。
彼を、好きになった訳じゃない。
気持ちを告げられて、心を動かされた訳じゃない。
そんな安易な気持ちにはなりたくなかった。
今まで、人に疎まれるような生き方をした覚えはない。けれども、人からまっすぐに好きと言われるようなことも、17年の人生でそう多くはなかったような気がする。
ましてや、異性から想いを告げられることなど、本当に初めてのことだったのだ。
悪戯に華やいだ気持ちが体の中を駆け巡ってしまうのも、仕方のないことかもしれない。
たとえそれが、恋でないとしても。
萌子が口を開くまで、たっぷり30秒はあったと思う。
実を言うと、萌子は龍太の台詞が一言も理解出来ていなかった。ただまっすぐな彼の視線に気圧されるように、困ったような弱々しい笑みを浮かべて彼女は小さく首を傾げた。
「見に行ってみたいけど、ちょっと遠いなぁ」
「泊まりだと、怒られる?」
「う〜ん。ウチはもしかしたらいいって言うかもしれないけど、薫んちがねえ」
すると龍太は、表情を硬くして眉をひそめた。
「萌子、誤解している」
「え?」
龍太の声色は、何だか怒っているみたいだった。急に不機嫌そうになった彼の態度に、萌子はただ戸惑うばかりだった。
「誤解って、なに?」
仮面に貼り付けた笑顔のような、ぎこちない笑みを萌子は浮かべる。龍太の台詞が、心の内がもう全く読めない。
「俺はね」
こんな風に感情を露わにする龍太を見るのは、もしかしたら初めてかもしれない。禁じられた場所に足を踏み入れたような、言い知れぬ不安が萌子の胸を締めつけた。
「お前と、イブを過ごしたいんだ」
「……どうして?」
「お前が、好きだから」
日が落ちるのが早くなった。列車が閑散とした東尾道の駅を発つ頃には、窓の外に見える街並みは輪郭が霞んでほとんど見えなくなっていた。ぽつんと、取り残されたように灯る淋しげな街灯が、スピードを上げた列車の車窓を過ぎ去って行く。
街の風景は見えなくなり、代わりに扉の窓に車内の喧騒が映る。萌子は、ガラスに映った自分の顔をじっと見据えた。
やっぱり、あんまり女の子っぽい顔じゃないと思う。
人を好きになり、人に愛されたいと願っているくせに、萌子はどうしても自分が異性に好意を寄せられるような容姿をしているとは思えなかった。
自分を卑下する訳ではないが、身近に薫のような同性が存在するとつい『違うよ』って思ってしまうのだ。
『やっぱり、気付いてなかったんだ』
長い沈黙があった。視線を逸らし、黙りこくってしまった萌子を見て、あの後龍太はすまなそうな口調でそう吐き出した。
きっと生まれて初めて【頭が真っ白になる】という経験を、萌子はしていた。全ての機能が停止した中で、心臓だけが早鐘のように激しく鼓動する。血管が、触らなくても判るんじゃないかと思うくらい激しく波打った。
(いま、なんて……?)
萌子は何だか恥ずかしくて、龍太の目を直視することが出来なかった。
『小学校の頃から、ずっと、気になってたんだ』
静かな店内で、龍太はそっとそう告げた。顔をこわばらせたまま、緊張した面持ちで。
『ずっと想ってたけど、いつか伝えようと思ってたけど、どうしてもそのきっかけがなかったんだ。でも』
でも。そう言いさして、龍太は言葉を選ぶように黙り込んだ。萌子はそっと視線を上げた。
その時の、龍太の射竦めるような強い視線が、萌子の心に刻印を記すように今も焼き付いている。情熱的で、強い意志を秘めた瞳。
『あの、立花っていう奴の話を薫から聞いた時、俺、もの凄く後悔したんだ』
尾道駅の改札をくぐる頃には、辺りはもうすっかり夜の帳が降りていた。気忙しさと淋しさが同居した夕闇の街を、萌子は一人ぽつんと歩き出す。
頬が熱い。いくら戒めようとしても、心の一部が浮き足立ってしまう。
このまま、自分で決めた想いを無に返してしまって良いのだろうか。たとえ叶わぬことでも、そう簡単に捨ててしまって良いのだろか。
龍太の口から久志の名を聞いた瞬間、萌子は確かに心のどこかで痛みを感じた。
それともその選択は、麻酔のように心の痛みに効いてくれるのだろうか。
『こんなやり方、姑息だと思うけどさ』
龍太はそう言って、自分を嘲るように短く笑った。
萌子が新任教師に惹かれているらしいこと。その新任教師にどうやら交際相手が出来たらしいこと。彼はそれを、全て薫から聞き及んでいたのだという。
『お前が、立花って奴とダメになりそうだから、だから誘おうと思った訳じゃないんだ。この話を聞いた時、真っ先にお前の顔が浮かんだ』
真摯な瞳で、龍太はそうまっすぐに話し掛けて来た。萌子はその誠実な視線を、やっと真正面から受け止められるようになった。
龍太が、人の心の隙に忍び込んで来るようなそんな卑怯な人間でないことは、幼馴染なのだから良く判っていた。いや、信じていた。
『それに、時間がなかったからな』
そう言って、やっと龍太はわずかばかり微笑んだ。けど、
『あと1ヶ月で、答えを出して欲しい』
笑いかけた龍太の顔つきは、一瞬で変わった。
『こうやって、今までみたいな曖昧な関係には、もう戻れないけど』
けど。そう言い捨てて、龍太は今まで触れたことのない、頑なな表情を見せた。
『けど、俺は本気だから』
「1ヶ月……」
街灯が淡く路地を照らす坂道の途中で、萌子は冷たい夜気に向かってそう呟いてみた。
その時間の長さは、混乱している萌子の頭にはわずか数秒の出来事にさえ感じられた。彼女はまるで、難解な数式が書き込まれた黒板の前に突然立たされた生徒みたいな気分になっていた。