第一章 雨上がりの街で(1)
人混みの中からそっと顔を出して、萌子は空模様を眺めた。
福山駅を出た時に降り出した雨は、一向に止む気配がなかった。朝の天気予報にはなかった空の心変わりに、傘を持たない生徒で賑わう尾道駅の待合所は、蒸し暑ささえ感じられる。
小さな体を人混みの間から覗かせるようにして、しばらく外の様子を見ていた萌子は、やがてちょっと肩をすくめる仕草を見せると、線の細い10月の雨の中を歩き出した。
見た目にはそれと判らないほどの小さな雨粒が、萌子の頬を霧吹きで吹き掛けたみたいにしっとりと濡す。
鞄を頭の上に載せて小走りで小さなロータリーを駆け抜けると、彼女はアーケードの下へ飛び込んだ。
制服や髪に付いた滴を払いながらふと顔を上げると、土産物屋のショーウインドウに映る自分の姿と目が合った。
(なんか『男の子』みたい)
つい最近切ったばかりの短い髪が、艶やかに黒く光っている。 その下の顔は、何もかもが小造りで丸みを帯びていた。
彼女は、自分のまん丸な頬の造りが嫌いだった。
決して大きくはない黒目勝ちな瞳が、萌子を見つめ返している。まるで子犬みたいな、今にも泣き出しそうなまなざし。
アーケードの下で一息つくと、萌子はまた鞄を頭の上に載せて商店街の奧の路地へと歩き始めた。くすんだ、心なしか寂れた感じのする人気ない路地を進むと、やがて急に視界が開けて海沿いの道に行き当たった。
彼女が目指す『ひこうき雲』は、その海沿いの道に面した一画にある。
海の見えるところまで小走りでやって来た萌子は、ふと足を止めた。
(何してるんだろう……)
海岸沿いに建つ、大人の肩ほどの高さのある防波堤の前で、男が一人佇んでいた。
それは奇妙な光景だった。その場所は決して雨に打たれながら眺めるような景勝地ではない。そこから望めるのは、冷たい雨を吸い込んで鈍色に低くうねる尾道水道と、その向こうに広がる向島の造船所の高く伸びたクレーンぐらいである。
すらっとした背格好や服装から、若い男だということだけは察しがついた。けれども紺色の傘に隠れて、その表情は読み取れない。
どこか哀しげなその後ろ姿から、萌子は何故かしばらくのあいだ目を離すことが出来なかった。
足下から忍び込んで来る冷気に我に返ると、萌子はその男の姿に背中を向けて『ひこうき雲』の入り口へと向かった。
店の前に立って、もう一度制服に付いた滴を軽く払い、山小屋のような分厚いきつね色のドアを押す。千絵ご自慢のスイス製のカウ・ベルが、カランカランと小気味良い音を立てた。
「あら、いらっしゃい」
店に現れた萌子を、千絵は笑顔で出迎えた。
千絵は、萌子の母の七つ下の妹だった。つまり萌子にとって『叔母』に当たる訳だが、萌子が千絵のことを『おばさん』と呼んでも彼女は決して振り向こうとしない。『千絵ちゃん』と呼んであげないと、その日一日彼女はとても不機嫌になる。
確か彼女は、今年八月に三十五歳を迎えたはずだ。
『歳より若く見える』 というより、その年齢に不釣り合いな幼さを漂わせている、千絵はそういった感じの女性だった。
けれども萌子は、夕暮れの街角を駆けて行く子供のような千絵の横顔の向こうに、様々な人生の機微に触れて来た、聡明で理知的な暖かみのある素顔が隠れていることを知っていた。
「こんにちは、千絵ちゃん。今日はずいぶんと忙しそうね」
萌子はそう言って、誰もいない店内を見回した。
「相変わらず口数の減らん姪っ子やね」
「そうなのよ。あなたの可愛い姪はとってもお上品に育てられていますから。ね、おばさま」
ふん、と少女が拗ねる時に見せるような仕草をして、千絵はカウンターの中で向こうを向いた。
萌子は、こんな子供みたいな叔母が大好きだった。高校生になって、小さい頃よりもっと好きになったかもしれないと思う。
高校に入ってから、彼女は3日に一度は『ひこうき雲』に顔を出すようになっていた。たとえわずかな時間でも、千絵の顔を見てから帰るのがまるで決められた日課のようになっていた。
萌子が子供の頃、千絵は流浪の人だった。
その頃の彼女は、アルバイトでお金を貯めては日本中、いや世界中を旅するような暮らしをしていた。
萌子はそんな千絵のことを、密かに『フーテンの虎さん』みたいな人だと思っていた。
「女の子のくせに、そんなチンピラみたいな生活……」
年に数回顔を見せる娘に、祖母はいつもそんな小言を漏らした。
孫の萌子から見ても、祖母という人物は年の割にずいぶんと柔らかな脳味噌の持ち主で、二人の娘に対しても比較的放任するタイプだと思う。そんな祖母でも、千絵のフリーター生活(その頃そんな言葉はなかったが)にはさすがにいい顔をしなかった。
この前家を飛び出してから今までどんな生活をしていたのか、お世辞にもまともとは言えないその内容を自慢げに語る千絵に、彼女の母も姉も決まって顔をしかめた。
けれども萌子には、千絵が祖母や母が言うほど『悪い人』には思えなかった。
萌子が小学六年生になる頃まで、玲子は福山にある会社に事務員として日中働いていた。母子家庭の必然として、萌子は家から歩いて10分ほどの距離にある祖母の家に、学校帰りに寄ることが多くなった。時には、夕飯に祖母の手料理を味わうことも少なくなかった。
特に夏休みは、昼間萌子を一人で家に置いておく訳にはいかないということで、彼女たち親子は1ヶ月以上祖母の家で暮らすのが、毎年の恒例になっていた。
千絵が放浪の日々から帰って来るのも夏が多かった。ほんの数日のことではあったけれど、きらきらと目を輝かせて萌子の見知らぬ街の話をしてくれる愛らしい顔立ちをしたその女性は、子供の目にひどく魅力的に映ったものだった。
どちらかといえば引っ込み思案な萌子には、千絵の力強くしなやかな生き方がとても羨ましく思えたのだ。
「前から気になってたんだけどさ」
カウンターの左から三番目。いつもの指定席に腰を下ろして紺色の鞄を隣の席に置きながら、萌子は誰もいない店の中をざっと見回した。
5つあるカウンター席と、4人掛けのテーブルが2つあるだけの、こぢんまりとした造りの店だ。入り口の脇には大きく葉を広げる鑑賞樹。奧の壁の真ん中に設けられた造り付けの棚には、CDケースが2つ飾ってある。
「この店、儲かってるん?」
遠慮ない台詞を口にする姪っ子の言葉に、千絵は思わず吹き出した。
「……ったく、おこちゃまが何ナマぬかしてんだか」
「だってさ……」
「今日はたまたまよ」
と言って千絵は小さく吐息を吐いた。
「みんな、あたしが道楽でこんなことやってると思ってるんだから。ちゃんと黒字を出してるのよ、この店は。あの人もびっくりしてるんだからね」
「あらま。それはそれは失礼致しました」
萌子はそう茶化したように頭を下げた。
「もっとも」
千絵は優雅な手つきで紅茶をカップに注いだ。
「元手がゼロなんだから、楽なもんよね。エンジンの掛け方は知らなくても、ハンドルの動かし方だけ判ってりゃいいんだから」
千絵が、あんなに母や姉が忌み嫌っていた放浪生活に突然終止符を打ってこの街に戻って来たのは、萌子が中学二年の秋のことだった。
それは『あの人』の存在が理由だった。そして彼女は尾道に戻って来たが、自分の生まれた家に戻ることはなかった。
『喫茶店をやりたい』
戻って来るなりそんな夢物語みたいなことを言い出した千絵を、最初周りは全く相手にしなかった。
『女手一つでそう容易く開ける商売ではない』
第一どこにそんな開店資金があるというのか。というのが、聞くなり鼻先で笑った祖母の言い分だった。
彼女は、千絵が本気だと知ると、今度は自分の娘の今までの行状を疑い出した。
『あんたまさか、水商売かなんかして稼いで来たんじゃないんでしょうね!』
そうだって言ったら、その場に卒倒しそうな勢いだったわよ。
ずいぶん後で、その時の祖母の様子を千絵はそう笑って萌子に話してくれたが、彼女がその場で祖母や母に告げた台詞は、それこそ祖母を卒倒させかねない内容だった。
『お金を融資してくれるっていう人がいるの』
千絵はその場でそんな意味の言葉を口にしたという。これは明確に言えば間違いである。融資というのはお金を貸してくれるということだ。ただでくれるという意味ではない。
何にしろそんな旨い話があるはずがない。祖母と母はすぐにピンと来たという。
「雨、止まないわねぇ」
萌子の肩越しに窓の外を気に掛ける素振りを見せて、千絵が小さくため息を吐いた。
つられたように萌子も振り返って窓の外を見た。
雨の滴が幾筋もガラスの上を流れる。その向こうに人通りの絶えた、冷え込んだ夕暮れの街があった。
「あの人が来る日?」
体勢を元に戻して、萌子は気遣うように千絵の顔を覗き込んだ。
千絵にこの店を持たせてくれたその人は、広島市内に幾つもの貸しビルを持つ不動産会社の社長で、彼の自宅も広島の郊外にあるのだという。
そして、彼がこの街を訪れて千絵と一緒の時間を過ごすのは月にわずか一度か二度だということを、萌子は最近になって知った。
萌子はそれを知った時に不思議に思った。どうして千絵は広島で店を開かないのだろうかと。
彼女は別に不倫をしている訳ではないし、その人の力を持ってすれば広島市内で店を出すことも不可能ではないらしい。
『そりゃ、あいつの子供と顔を会わせるのが怖いからに決まってるじゃないか』
ある時、祖母の前でふとその疑問を口にすると、祖母は吐き捨てるような口調でそう答えた。
『考えてもごらんよ。いくら奥さんと死に別れてるからといって、自分の父親が五十も過ぎて自分たちと大して歳の変わらない娘をたぶらかしてるんだからね。いや、向こうから見れば、財産目当てで年老いた父親を色仕掛けで誘惑してるって思うだろうね、きっと』
「……さっきメールが入ったんだけどね。夕方こっちに着くって」
カウンターに放り出してあった携帯を手に取ると、弄ぶように眺めながら千絵はそう言った。
「あら、じゃあ私はお邪魔かしら?」
そう言って萌子が鞄に手を伸ばしかける。
「何言ってるのよ、あんたまだ紅茶に手もつけてないじゃないの」
慌てたように千絵はカウンターの向こうから掌を伸ばした。それから、子供が拗ねるようにぷうっと頬を膨らませる。
「萌ちゃん、あの人が来るとすぐ逃げちゃうんだから。小田さん、あなたに一度会いたがっていたわよ」
「だって二人の邪魔しちゃ悪いじゃない」
萌子はまだ『あの人』に会ったことがない。
別に会いたくない訳ではない。ただ今日みたいにタイミングが合いそうな時に、何となく会うのを避けていたのは事実である。
そのことに然したる理由があるとは、萌子自身思っていなかった。ただ、祖母のあの吐き捨てるような台詞を耳にした時から、彼女の中に小さなしこりみたいなわだかまりが残っているのは確かだった。
「あ〜あ。今日はもう店じまいにしちゃおうかな。お客さんもいないことだし、ね」
千絵は退屈そうに背伸びした。
「あら、あたしは?」
「あんたが客だって主張するなら、今まで飲んだ分の請求書を出すわよ」
千絵がそう笑って、カウンターを回り込もうとした時だった。
分厚いきつね色のドアが開いて、千絵ご自慢のカウ・ベルがカランカランと小気味良い音を立てた。