第五章 重なる想い(1)
小学5年生の時の恋は、結局2年のあいだ口に出せないまま、卒業と共に終わった。中学生の時は、半年も過ぎた頃に相手に彼女がいることを知った。
それでもなお奪いに行くほどの想いではなかったのも事実だし、萌子がそんな性格ならば、きっと今もこんな風に思い悩むことはなかっただろう。
小学生の時は、学区の違いで別々の中学に通うことになった。それが別れだった。
卒業の時に哀しかったのか苦しかったのか、萌子にはその時の記憶がいまいち定かでない。ただ、
(ああ、もう逢えなくなるんだ)
というぼんやりとした寂しさが、生まれて初めて知った失恋の痛みだったのかもしれない。
中学2年生の時は、少しだけ哀しかったことを覚えている。その事実を知った夜、萌子はほんの少し泣いた。
それまでは、彼と廊下ですれ違う瞬間がとても楽しみだった。お互い違うクラスだった彼とは、廊下でしか顔を合わせることはない。体育の時間や特別教室への移動の時など、彼がいる教室の前を通る時は、ことさら期待に胸を膨らませたりした。
たった一夜で、その瞬間は辛くて苦しいものになってしまった。
あれだけ楽しみにしていた教室の前にさしかかる瞬間を、萌子はじっと視線を廊下に落としたままやり過ごすようになった。偶然にも彼とすれ違ってしまった時、彼女の心はどうしようもなく痛んだ。そのままこの身が引きちぎれてしまうのかと思うほど。
最初はその痛みに、その内本当に心が裂けてしまうのではないかと思った。その痛みを考えると、余計憂鬱になった。
そんな彼の存在が、いつしか懐かしい想い出に変わってしまったのは、とても不思議なことだ。
確かにその痛みを覚えているのに、中学の時の想い出は萌子の中で今、琥珀色の黄昏のようにただ優しいだけだった。
彼の姿を見掛けるたびに柔らかな想いが心を撫でるようになったのは、さほど時間が経ってからのことではなかったように思う。結局彼とは一度も一緒のクラスになれなかったけれど、3年生なってから萌子は、廊下で彼とすれ違う瞬間がまた楽しみになった。
届かぬ想いでも、叶わぬ願いでも、それはやはり彼のことが別の意味で好きだったからなのだろう。
早くそんな時が来れば、と思う。別の想いでまた好きになれたら、と思う。
嫌いになど、なれるはずもないのだから。
紅茶色の街。
昔好きだった歌に、そんなフレーズがあった。
窓越しに見える街路樹はちょうどそんな風に色づいていた。鮮麗なペルシャ絨緞のように彩られた秋色の街。けれども、それももうすぐ寂静な水墨画のような冬景色に変わる。そんなことを萌子は思った。
窓の外の景色に飽きて、萌子はそっと店内を見回した。
どこか重厚なクラシックの調べに似た、落ち着いた雰囲気の喫茶店だった。半地下に建てられているせいか、それともモノトーンの明かりのせいか、仄暗く古い床しさが物陰にそっと漂っている。
軋んだ、重たげな音がして、萌子はビクッと入り口の扉を振り返った。
こんな店に似つかわしい、初老の夫婦が入って来た。萌子は小さくふっと息を吐くと、姿勢を戻した。
喫茶店『ノエル』は、福山女子高校から程近いところにある。学校を出て駅に向かえばファーストフード店は幾つもあるけれど、そんな所でなく福女の生徒がちょっと気分を変えて憩おうとするには、この店はもってこいの場所だった。
実は、萌子もこの店を何度か訪れたことがある。
龍太が待ち合わせに指名したところは、そんな店だった。
(こんなとこで、誰かに見られたらどうするのよ……)
ちょっとは相手の都合も考えて欲しい。そう思いながら萌子は、もう一度店内を軽く見回した。とりあえず、見慣れた制服姿は視界に入って来ない。
姿勢を戻して深く沈み込むように座り直すと、途端に欠伸が出た。
(……いつもなら、家で昼寝している時間だもんね)
はしたなく大きな口を開けながら軽く伸びをして、萌子はそんなことを思った。
もう5日も、美術部に顔を出していない。久志が赴任して来る前より、明らかに萌子の足は部活動から遠ざかっていた。
11月も、もう終わろうとしていた。あんなにいろんなことがあったはずなのに、それでもこうして過ぎてしまえばあっという間だった気がするのは、とても不思議な感覚だった。
今は、何もかもが中途半端に過ぎ去る日々が続いている。
(何もなかったことに)
そう心に誓い、何事もなかったように装って意固地になって通い続けた美術室も、1日休むと2日足が遠のき、また休むと3日足が遠のいた。
廊下で久志や黒沢とすれ違うことに怯えながら、いつしか萌子は息を潜めるように学校で過ごすようになった。放課後、薫を待つことなく『ひこうき雲』に寄るでもなく、萌子は逃げ帰るように福女を後にする。そして眠れぬ夜を補うかのように仮寝を貪った。
今は何も生み出したくない。何も感じたくない。何かに触発されることさえ、今の彼女には傷口を塩水に漬けるようなものだったから。
そうやって時が過ぎれば、傷が癒されることを萌子は知っていた。いや、僅かな経験を頼りに、そうなることを信じ込もうとしていた。
大勢の中の一人として受ける美術の授業以外、気がつけば久志との接点はほとんどなくなりかけていた。
また、扉が軋む音がした。
入り口の方を振り返って、萌子は何故だかちょっとだけ胸が震えた。
そこには、今日萌子を呼び出した張本人の姿があった。
店内をきょろきょろと見回す龍太の姿を見ながら、萌子はしばらくのあいだ声を掛けることが出来なかった。
(変なの)
龍太の姿を見て、わずかな緊張を覚えた。変に胸がドキドキする。
おかしな気分だった。龍太と待ち合わせて、硬くなるなんて。彼とさしで向かい合うのが珍しいからだろうか。それとも……。
(あんなメール……)
『君にどうしても話したいことがある』
初めて送られて来たメールにそんな台詞が綴られていたら、たとえ相手が顔見知った龍太でも、やっぱり意識してしまうものなのだろうか。
昨夜携帯に送られて来たメールの内容を心の中で反芻しながら、萌子はソファーから立ち上がろうとした。
判っているのだ。龍太が薫のことを話したがっているのは。
萌子が手を上げるより早く、龍太が彼女に気づいた。少し照れたような、はにかんだ笑みに触れて、萌子はまた小さく心を揺さぶられた。
龍太の姿を見ると、いつも少しだけ胸のときめきを感じた。たとえただの幼なじみでも、やっぱり彼は素敵な男の子だと思う。いつも感じていたその想いが、今の萌子には別の形で心に響いた。
(なんかまるで……)
心に浮かびかけた台詞に、萌子は心の中で首を振った。
まるで恋してるみたいだなんて。心の傷を龍太の存在で塞ごうとしているみたいで、萌子は自分がとても卑しく思えた。
「ごめん。呼び出したりして」
相変わらずぶっきらぼうな口調で、龍太が萌子の目の前に腰を下ろす。
いつもそうだった。ステージ上でのあんなに饒舌で爽やかな人柄とは裏腹に、普段の龍太は人が変わったように寡黙で話下手だった。時々薫が席を外した時など、萌子は何を喋ったらいいのか話題に窮することがある。
子供の頃はこんな風じゃなかったのだ。誰とでもすぐに打ち解けあう、人懐っこい男の子だった。
「待った?」
「ううん。さっき来たとこ」
「そう……」
ひとしきり儀礼的な会話を交わして、店員が龍太の分のオーダーを取りに来てしまうと、もう二人のあいだに話題はなくなってしまった。
沈黙の後、二人は目を合わせると意味もなく笑い合った。
龍太も緊張している。萌子はそう感じた。二人のあいだを、緊迫した見えない糸が薄く張り巡らされている。
何だろう。この感覚。
「びっくりした」
「え?」
「いきなりメール来るんだもん」
龍太と萌子は、お互いの携帯番号は交換していたがメールアドレスまでは知らなかった。だいたい萌子が彼に逢うのはいつも薫に連れられてのことだったから、アドレスまで知る機会もその必要もまるでなかったのだ。
そういえば龍太が福山に越してから、二人きりで逢うのは今日が初めてかもしれない。
「迷惑メールかと思って、思わず消しちゃうとこだったよ」
「おいおい」
龍太はそう苦笑いを浮かべて、
「頼むよ。メッチャ緊張して送ったメールなんだから」
「え?」
「……いや、何でもない」
一瞬だけ親しげな顔を垣間見せた龍太は、また慌てたように仏頂面に戻った。
「……薫に訊いたの?」
「え?」
「あたしのアドレス」
「ああ」
龍太は萌子から視線を逸らすように、運ばれて来たアイスコーヒーのストローに口をつけてから、
「迷惑だった?」
「え? あ、ううん。ゴメン、そういうつもりじゃないの」
龍太を誤解させた。萌子はそう思って、少し大げさに顔の前で手を振ってみせた。
龍太と顔見知りだという事実は、萌子にとって幼い頃からのちょっとした自慢だった。彼はそれくらい憧れの存在だったのだ。特に小学生の頃は、クラスメイトからも羨ましがられるほどだった。
けれども龍太が引っ越してからは、すっかり疎遠になってしまっていた。龍太がメールをやり取りするようになったのも、結局薫とだった。そのことに嫉妬していた訳ではなく、不満がある訳でもないが、やっぱり薫とは立場が違うのだな、と感じない訳にはいかなかった。
だから、本当は嬉しかったのだ。こうやって彼が頼りにして来てくれたことが。
「薫は、今日あたしと逢うこと知っているの?」
「えっと、どうかな」
龍太はそう視線を宙に廻らせて、
「萌子と逢うってことは知ってると思うけど、今日かどうかは……」
そう言ってから、龍太は訝しげな視線を萌子に投げてよこした。
「薫からは、何も聞いてないの?」
今度は、萌子が曖昧な苦笑を浮かべる番だった。
別に薫と仲違いしている訳ではない。久志が現れる前と同じように、相変わらず3日に2回は薫が迎えに行く形で、二人は朝一緒に登校していた。帰りはほとんど一緒にならないが、元々毎日一緒に下校していた訳ではないのだ。
何事もなかったように、二人は以前と同じリズムで暮らしていた。
でも、と萌子は思った。それは表面上だけのことで、薫とのあいだはやはりどこか狂ってしまっているのかもしれない、と。
萌子はあれから、薫と本音で話せていないような気がして仕方がなかった。
放課後、逃げ帰るように下校してしまう萌子のことを、薫がどう思っているのかはよく判らない。彼女が、久志のことにどうけりをつけたのかも。ただ、彼女のどこかよそよそしいというか素っ気ない雰囲気を、萌子は敏感に感じ取っていた。
こんなことだって、今までならためらいもなく萌子に話してくれたと思う。
それとも彼女ならではの鋭い勘で、薫は何かに気づいたのだろうか。
「絵、描いてる?」
唐突に、龍太がそう問い掛けて来た。
「え?」
「そう。絵」
自分の絵のことなんか龍太君に訊かれるのは、きっとこれが初めてじゃないかしら。何やら売れないコメディアンみたいなやりとりの後、萌子はそんなことを思いながら中途半端に頷いた。
「ええ、まあ」
「そう」
何故だか龍太はホッとした様子で小さく頷いた。
「お前から絵を取ったら、何にも残らないからな」
龍太の意外な台詞に、部活動に顔を出せないでいる現状を見透かされたような気がして、萌子はドキリとした。
「やあねえ、人を『絵描きバカ』みたいな言い方して」
動揺を悟られぬよう、萌子はわざとそうふくれっ面をしてみせる。
「あれ? 違ったの?」
やっぱりからかったつもりらしく、龍太はそう戯けたように笑った。
「自分だって、『バンドバカ』なくせに」
けれども嬉しかった。龍太が何でそんなことを言い出したのか判らなかったが、それでも萌子は彼がそんな風に自分のことを見つめていてくれたことを、素直に好ましく思った。
拗ねたような萌子の台詞に、龍太はただ黙って優しく微笑んだ。その笑顔がとても美しくて、萌子はまた悪戯に心をかき乱された。
(こんな風に……)
こんな風に、女の子は龍太の虜にされてしまうのだろうか。
(薫は、こんな気持ちになったことないのかしら?)
「そっちこそ」
「ん?」
「『バンドバカ』の方はどうなのよ」
萌子がそう訊ねると、龍太はなんとも形容し難い笑みを浮かべた。
「あ、そうか。しばらくお休みだっけ?」
「う〜ん。ホントは、そのはずだったんだけどね」
小さく唸るような声を出してから、龍太はちょとだけ得意げな顔をして見せた。
「実はね」
そして訳もなくひそひそ声になる。まるで、とっておきのスクープをバラすみたいに。
「トーキョー、行くことになったんだ」
「……え?」
龍太の口調は『東京』ではなく完全に『トーキョー』であった。萌子は一瞬、彼が見知らぬ異国にでも行くのかと錯覚した。
それほどに、龍太の口調は浮かれていた。
「……とーきょー?」
「うん。クリスマスに」
「クリスマスって……」
そんな季節まであと1ヶ月しかないことに、龍太の台詞で萌子は改めて気づかされた。
「クリスマスって来月じゃない」
「そう。イブにやるイベントに参加することになったんだ」
「へえ……」
あまりの急転直下な話に、萌子はただ呆れるように頷くしかなかった。
「こないだライブやったろ? あそこのオーナーが知り合いの、渋谷のライブハウスなんだ。ちっちゃいところなんだけどね。ほら、大学入って向こうに進出するにしても、やっぱ足掛かりがないとダメだろ」
龍太もこんな表情を浮かべることがあるのだと、正直萌子は驚きを禁じ得なかった。
普段はどちらかと言えばクールな、醒めた感じで斜に構えた顔つきを見せる彼が、今はプレゼントを見つけた子供のようにはしゃいだ声を上げている。そんな姿、彼と知り合って7年間一度も見たことがない。
心底嬉しそうなその笑顔が、ことの重大さを物語っていた。
「他のバンドと合同なんだけどね。曲目も少ないし。でも、ま、一応『東京進出』って訳だ」
どんどん遠くなってしまう。こうやってせっかく身近に感じられても、彼はすぐに手元から飛び立って行ってしまう。子供の頃から、龍太との距離はいつもこんな感じだった。
龍太と知り合いだという事実は、その内本当に自慢話になってしまうのかもしれない。萌子はふとそんな風に思った。
「すごいね」
萌子が素直な気持ちを表すと、龍太は本当に嬉しそうに微笑んだ。
「ウチのバンドって、あんまりクリスマスライブ向きじゃないんだけどね」
龍太はそう苦笑いを浮かべて、
「一応、ほとんど持ち歌でやるつもりなんだ」
「へえ」
「持ってる歌、フル回転だよ」
そうちょっと笑ってから、
「あ、でもラストは『ブルハ』でいくつもり」
「どの曲?」
「『リンダ リンダ』」
このあいだのラストソングだ。唐突に萌子は思い出した。
耳元で囁かれたような龍太の声を。
『そんな君のために、最後に、プログラムにないこの曲を贈ります』
「それってこないだのラストの?」
「うん。あの曲」
龍太は照れ臭そうに鼻を擦って、
「あれは俺の、恋のバイブルだから」
龍太の口から『恋のバイブル』なんて台詞が飛び出すとは思わなかった。萌子は思わず口元を緩めた。
「何だよ。なんか変か?」
「ううん」
小さく首を横に振りながら、萌子は龍太の意外とロマンティストな一面を感じ取っていた。
「……そっか。じゃあイブには、こっちにいないんだ」
ちょっと寂しげな口調で萌子がそう言うと、龍太は申し訳なさそうに、
「ごめんな。行くって言ったのに」
「ううん。そんなことないよ」
手を体の前に差し出して、小さく伸びをする仕草をしながら萌子は、
「いいなぁ。イブの東京」
「え?」
「1回くらいさ」
萌子は自分のアイスティのストローに口をつけて、
「行ってみたいじゃん。イルミネーションとか、キレイだしさ」
それを誰と見たかったの?
心の奥底から返って来た問い掛けを、萌子は一人ぼっちの寂しさでそっと受け止めた。
「そう、思う?」
「え?」
不意に龍太の口調が変わって、萌子はドキッとした。
期待半分、不安半分。誰かの気持ちを探るような、そんな口調。軽口を叩いたつもりだったのに、龍太の意外なほど真剣なまなざしに、萌子はたじろぐように答えに詰まった。
「……うん。ちょっと、いい感じじゃない?」
ふと気がつくと、龍太が見つみていた。
驚くほど長いあいだ、彼は萌子のことを見つめていた。普段から見慣れているはずの萌子でさえ、胸のときめきを抑えきれなくなりそうな強く優しいまなざし。あふれ出しそうな想いをその瞳に込めるように、龍太はただ黙ったまま萌子のことを見ていた。ざわざわと、ざらついた不安が萌子の心を捉えて離さない。
「……なに?」
結局、萌子が根負けした。声を出してしまえば負けになってしまいそうな気がしながら、萌子はそう声を上げずにはいられなかった。
龍太は弛緩した笑みを浮かべて、深く息を吸った。何か意を決するように。最後の一球を投じる前のクローザーのように。そして彼は静かに息を吐き出した。
「一緒に」
冷静に見えた龍太の、語気がわずかに震えた。
「一緒に行かないか? 東京に」