第四章 すれ違い(5)
そろそろ薫が迎えに来る(つまり、萌子が迎えに行くべき時間はとうに過ぎている、ということ)時間になっても一向に起き出す気配を見せない娘に、さすがの玲子もしびれを切らしたらしい。階下から大声を出すという方法を諦めて、彼女はどたどたと大きな音を立てて2階へと上がって来た。
「萌子! いい加減にしなさい」
玲子は部屋の入り口でそう声を張り上げると、ベッドに歩み寄って萌子の寝顔を覗き込もうとした。
「……薫に、先に行っていいよって言っておいて」
頭から布団をすっぽりと被ったまま、萌子はもごもごとそう告げた。
「あら、どうしたの? 調子でも悪いの?」
途端に玲子の口調が心配そうなものに変わった。
「うん。頭がちょっと痛い……」
「どうするの? 学校休む?」
「ううん。学校は行く」
「そう?」
玲子はそう気遣わしげな声になってから、それでもどうしても一つ小言を言いたかったらしく、ちょっと口を尖らせて、
「毎晩、あんなに遅くまで外をほっつき歩いているからよ。もう寒いんだから」
そうぼやいた。それから、急に声色を変えて、
「無理しなくてもいいのよ」
そう言い残して部屋を出て行った。
最後の、娘を気遣うような母の物言いがつい気に障る。そんな的外れな苛立ちが、後ろめたさから来るものだということは、彼女自身薄々気づいていた。
頭に軽い痛みがあるのは本当だった。
昨日はなかなか寝つけなかった。軽い眠りに落ちると、心の底から湧き上がって来るような恐怖心に揺さぶられるように目が覚めるのだ。目覚めて、哀しい現実に気づくと胸が苦しくなった。
襲い掛かって来るような悪夢を見た感触と、目覚めた後の胸苦しさに、その内萌子は眠りにつくことが出来なくなった。
夜明け前に軽くまどろんだが、寝覚めの気分はかえって悪かった。目覚めてすぐに、萌子は口の中に苦い渇きを覚えた。
布団の中で、夜が明けたことをぼんやりと思った。あんなに哀しい夜も明けるのだという事実が、不思議なことのように思えた。
そして目覚めてすぐに、誰にも会いたくない、と思った。
こんな馬鹿げたことを、そうそう続けられるものでないことは萌子にも判っていた。何しろ学校に行かない訳にはいかないのだし、学校に行けば薫にも、久志にも顔を会わせることになるのだから。
ごろんと横を向くと、萌子は掛け布団から少しだけ顔を出してみた。
カーテンの隙間から、低い鈍色の空が見えた。冬の訪れを告げるような、寒々とした灰色の空。布団からはみ出た手の甲が、ひんやりとした空気に触れる。
さびしい、と思った。訳もなく、萌子は自分が地球上で一人ぼっちになってしまったみたいな感じがした。心が、芯から冷えて行くような感覚。
(いや、いっそのこと独りぼっちになってしまった方が、気持ちが楽になれるのかもしれない)
今でも久志と逢えるということは、私にとって本当に幸せなことなのだろうか。そんな胸を切り刻むような疑問が、萌子の脳裏をふとかすめた。
けたたましいほどの喧噪が、萌子には救いだった。
始業前のざわめきに満たされた教室に入ると、萌子は大人しく自分の席へと向かった。
「あら、萌子今頃来たの?」
晴美が目敏く萌子に気づいて、そう声を掛けて来る。萌子が困ったような曖昧な笑みを浮かべると、晴美はそれ以上突っ込んで尋ねて来ようとはせず、すぐに話し込んでいた恭子の方へと向き直った。
薫は自分の席で文庫本に目を落としていた。その後ろ姿が自分を拒絶しているようで、萌子はしばらく声を掛けられずにいた。
「あら、来たの?」
やっと萌子の存在に気づいたような素振りで、薫は意外そうな表情を浮かべた。
「大丈夫なの?」
「うん……ごめん」
「別に謝んなくてもいいけどさ」
薫は、一瞬物言いたげな目つきで萌子を見上げて、それからすぐに視線を逸らした。
昨日のことを話そうかと思って、萌子はすぐに考え直した。
そんなことを話して何になるのだろう。萌子は自分が哀しみに明け暮れる仲間を増やそうとしているみたいで、嫌気が射した。
話し掛ける訳でもなく、萌子はしばらく薫のそばに立ち尽くしていた。それに気づいた薫が、再び萌子を見上げる。
「……薫」
「ん?」
「あたし、もう大丈夫だから」
何が大丈夫なのだろう。そう自問しながら、萌子はいつしかそんな台詞を口走っていた。
薫はしばらくのあいだ黙ったまま、不自然なほど長く萌子の顔を見つめていた。その瞳を見つめていると、萌子の胸はざわざわとさざめいた。
その瞬間、萌子はぽつんと宇宙の片隅に放り出されてしまったような気がした。今まで、どんなに辛いことがあっても決して失ったことのない大事な支えを、いきなり外されてしまったような感じがした。
「萌子」
「え?」
「あなた、もう大丈夫なの?」
問い詰めるような、鋭い口調だった。その語気に蹴落とされたように、萌子は弱々しく頷く。
「う、うん……」
「そう」
何だろう。萌子は抗い難い悪夢にうなされているような気分になった。
「もう、何ともないのね」
「……それ」
それ、どういう意味? そう問い尋ねようとした刹那、立て付けの悪い教室の前の扉ががたがたと開いて、一時限目の教科の担当教師が入って来た。みんなが脱兎のごとく席に着く一時の喧噪の中で、萌子の漏らしかけた台詞は宙に浮いた。
気づかれているのかもしれない。不意にそう思った。私の拙い恋心なんて、簡単に見透かされてしまう程度のものだったのだ。薫にも、もしかしたら久志にも。
その日1日、萌子は休み時間になっても薫とほとんど会話らしい会話を交わすことが出来なかった。
萌子たち三組は、火曜日の四時限目に美術の授業がある。
三時限目の授業が終わるまで、萌子は不思議なくらい久志の存在を意識せずに過ごすことが出来た。あまりのあっけなさに(自分の想いはその程度だったのか)と一抹の寂しささえ覚えたくらいに。
けれども、萌子の中のたぎる想いはそんな生やさしいものではなかった。
美術室に移動するために席を立ち上がった瞬間から、津波が押し寄せるように感傷が襲い掛かって来て、萌子は一瞬頭が真っ白になって立ち竦んだ。
ざわめく廊下を人並みを縫うようにして歩きながらも、彼女は胸を締めつけるような様々な想いに足下から突き崩されてしまいそうな感覚を味わっていた。
何もなかったことにしてしまおう。それが、今朝登校する道すがらずっと胸に言い聞かせていたことだった。
まだ、自分の胸の内を何一つ明かした訳ではない。萌子が覚えた二人の近しさと久志への愛おしさは、まだ彼女の一方通行にしか過ぎないのだから。このまま、この想いさえ沈めてしまえば、何もなかったことに出来る。まだやり直しが効く。
それが、萌子なりの一つの結論だった。そして、この時はまだそれが可能であると、彼女はそう思っていた。
とにかく、美術室に着くまでに気持ちを沈めなくちゃ。落ち着こうとして、萌子は知らぬ内に周りが何も見えなくなっていた。
「澤崎君……」
遠慮がちな、懐かしささえ覚えるその声を聞いた途端、まるで路地裏から飛び出して来た子供とぶつかった時のように、萌子は心臓が急停止しそうになった。
それは、彼女が特別棟に続く渡り廊下にさしかかろうとした時だった。弾かれたように振り返った萌子の視線の先に、階段を降りて来た久志の姿があった。
「どうした? 顔色が悪いぞ」
よっぽど青ざめた表情をしていたのだろう。久志は急に心配げな声になった。
少なくとも萌子には、彼が本気で心配している気配が感じられた。久志の、誰にでも向けられる優しい気遣いが、その瞬間萌子には憎らしかった。
「うん……」
まともに久志の顔を見ることが出来ずに、萌子は足下を見つめたままぎこちなくそう答えた。
逃げ出したい気分だった。先週まで、あんなに逢える瞬間を心待ちにしていたというのに。久志と顔を合わせることが苦痛になるなんて、想像すらしなかった。
気もそぞろな様子の原因がまさか自分のせいだなんて、きっと先生は気づきもしない。萌子はそう思った。それとも、
(それとも、やっぱり先生は薄々感づいているかしら)
気づいていて欲しくない、と思った。気づいていて欲しい、とも思った。恥じらいと、それでも募る思慕の念が、萌子の心の中で複雑に交差した。
結局、二人のあいだには気まずい空気しか残らなかった。
もっと、上手く話したかったのに。ぎこちなくなりたくなかったのに。
(やっぱり、ダメなのかな?)
久志とのどんな未来を描くよりも、今はそれが哀しかった。
不意に久志が萌子の顔を覗き込んだ。萌子は脳細胞が全て初期化されてしまったみたいに、思考が停止した。
「ホントに顔色悪いぞ。あんまり、無理するな」
気遣わしげにそう言った後で久志は、
「僕の授業なんか、どうせ受験のためにならないんだから、無理して出なくても良いし」
そう言って笑った。あの穏やかな、今までよりももっと親しげな笑顔で。
もう駄目だ。気が狂いそうな思考の渦の片隅で、萌子はそう思っていた。
この想いを諦めることなんて、とても出来そうになかった。けれどもこの想いを捨ててしまわなければ、このまま身も心もちぎれてしまう。
高熱を出した夜のように、萌子は永遠に続くような苦痛を持て余しながら、久志の前に呆然と立ち尽くしていた。そう、父の姿を見失って改札口の前で立ち尽くした、あの4歳の夕暮れのように。