第四章 すれ違い(4)
いつのまにか、ここに来ていた。
志賀直哉旧居の一段下に位置する尾道市文学公園の四阿からは、程良い高さで尾道水道を望むことが出来る。
平日のせいか、あるいはこんな時刻のせいか、辺りに人影は一つもなかった。
結局あの後、黙り込んだまま動かなくなった黒沢を置いて、萌子はプリントの束を半分持って教室に戻った。次の一時限、萌子は嵐をやり過ごすように伏し目がちで無心に過ごした。黒沢の授業内容など、一つも頭に入らなかった。
放課後、久志と顔を合わせる勇気もなく、薫を待つのも億劫で一人街をうろついた萌子の足は、気が付けばこの公園を目指していた。
いつもなら足を向ける『都わすれ』にも寄らずに、萌子は四阿から見える尾道の街の夕暮れを、ふぬけたように見つめていた。
時の流れがもう一捌けしたら夜空に塗り変わってしまいそうな、向島の上に広がる空はそんな深い群青色をしていた。夕暮れの街の喧噪が麓から立ち上がって来て、萌子の耳元で微かに響き渡る。彼女の周囲は、それとは対照的な静けさの中にあった。
たった一本の白銀灯の明かりが、狭い園内に微かな陰影を描き出していた。こんな寂しい風景が、今の自分には一番似合っているような気がする。
何故久志と顔を会わせ辛くなるのかと問われたら、何とも答えようのない立場にいるのだということを、きりきりと胸を痛める傍らで、萌子は妙に冷静に考えていた。
二人のあいだに特別な感情が存在するなどというのは、呆れるくらい見当違いの妄想だった。
ただ境遇が似ているというだけで、年端もいかない自分の教え子に特別な想いを寄せるような、久志はそんな教師ではなかったのだ。
(もしも……)
もし仮に、久志の中に萌子に対するそういう種類の感情が存在したのだとしても、それと恋愛感情とは全く別ものなのだ。
それと同時に、ただそばに居られるだけで良いなんて幼稚な考えが、ただのまやかしに過ぎなかったのだということも、萌子は痛切に感じていた。
正直なところ、久志のことがどれくらい好きなのか、萌子は今までよく判らなかった。想いを募らせる一方で、いつかこういう日が来ても平静でいられるような、そんなどこか楽観した気持ちが彼女の心の片隅にあった。
(片想いになら、慣れていたはずなのに……)
けれどもそんな綺麗事は、本当は自分の心の中にこれっぽっちも存在していなかったのだと、萌子はいまさらながらに気づかされていた。
夕暮れの風は、夜気を帯びて冷たいくらいだった。こんな夕闇の気配の中には、確かに訪れる冬の匂いがする。
冷え切った空気を、萌子はむせるくらい目一杯吸い込んだ。それでも、心の内側から膨れ上がって来るような哀しみは消えてくれようとはしない。
今は、彼の名前すら思い浮かべたくなかった。何も想いたくなかった。ほんの少しでも心を動かせば、体中が悲鳴を挙げてしまいそうだ。
それなのに、気づかぬ内に萌子は久志との想い出をなぞるようにこの場所を訪れていた。
萌子は静かに腰を上げた。そして、狭い園内をゆっくりと歩いてみた。わずかに見上げた先に、窓辺から光こぼれる『都わすれ』の白壁が見える。寒々とした薄闇の景色の中で、その光景だけはとても柔らかな暖かみを持っていた。今の彼女には無縁の。
あの窓辺で、久志と言葉を交わしたのはいつのことだっただろう。
萌子はそんなことを思い浮かべてから、ふっと一人笑いを漏らした。わずか2週間ほど前の出来事を、まるで遠い昔を懐かしむように振り返っている自分が、妙に可笑しかったのだ。
萌子はこの場所から始まったあの日のルートを思い出すように、闇に沈んでゆく山の方をゆっくりと視線でなぞってみた。
(タイル小路、御袖天満宮、福善寺、西国寺……)
あの日、久志は二人で歩く時間をとても楽しそうに過ごしていた。萌子は、ずっとそう思っていた。
(先生は、ホントは楽しくなかったのかしら)
判らない、と思った。萌子はすっかり自信が失くしていた。思い出そうとすればするほど、あの時の久志の記憶は曖昧に脆く崩れ去ってゆく。
あの日『都わすれ』を訪れた時、訝しげに彼女の背後を気にした久志のその視線の意味を萌子は恐れた。けれども本当は、久志はただ自分の教え子たちが可愛くて、あの日の誘いに乗っただけなのかもしれない。
不意に、涙がこぼれた。悲しいのか寂しいのかそれとも虚しいのか、その涙の意味を一つも掴めぬまま、萌子は声も挙げずにただ頬を濡らしていた。
「萌ちゃん?」
突然そう名前を呼ばれて、萌子は弾かれたように振り返った。
逆光の中に誰かが立っている。眩しげに目を細めた萌子は、それが誰なのかすぐに判った。
「やっぱり萌ちゃんだ」
『都わすれ』のマスターだった。いつかと同じように、いくらか気弱そうな笑顔を浮かべて突っ立っている。
あまりに突然のことで、萌子は濡れた頬を拭うことさえ出来なかった。この距離と明るさで萌子の泣き顔に気づいたかどうか定かではないが、マスターは少しだけ表情を曇らせて、
「そんなところにいちゃ寒いだろう。おいで」
そう言って、店内に誘うような態度を示した。
しばらくためらってから、萌子は大人しくマスターの後を追った。
店に入って初めて、萌子は自分が体の芯まで冷え切っていたことに気づいた。店内の温もりが、冷たかった体と一緒に心まで溶かしていくようで、萌子は少しずつ気持ちがほぐれてゆくのを感じていた。
店の中には1組のカップルしかいなかった。入って来た萌子たちに気遣う様子もなく、二人だけの世界を作り出している。あの日は、至る所にそんなカップルがいた。
あの日萌子たちが座った席は、もちろん今は誰もいなく綺麗に片づけられている。ぽつんとしたその空間が、今の二人の間柄そのものを現しているようだ。
目を真っ赤にした萌子にマスターは何も問い尋ねようとはせず、彼女をカウンター席に座らせると、カウンターの中に入って何かを火に掛けた。
しばらくのあいだ、萌子が所在なげに店内を見回していると、やがてコトリと音を立てて大きなマグカップが彼女の目の前に置かれた。
カップの中で真っ白なミルクが湯気を立てて揺れている。萌子は黙ってマスターを見上げた。
「お飲み。暖まるよ」
そう言ってから彼は、これから告げる台詞に口にする前から照れてしまったような笑みを浮かべて、
「寒いと、余計に辛くなっちゃうからな」
そう言ってそっぽを向いた。
また目頭が熱くなって、萌子は俯いて鼻頭をこすった。それから、カップの温もりを確かめるように両手でそっと包み込んだ。
喉元を通る人肌ほどの温もりが、マスターの優しさだった。最後の客が去り、店内のざわめきが有線のささやきだけに変わっても、彼は後片づけに没頭したまま萌子に一言も声を掛けて来なかった。
萌子の中で、あんなに頑なだった何かが氷解するようにほどけていった。そうして彼女は、やっとその哀しみを冷静に受け止められるようになった。今まで彼女は、哀しみを感じる感覚まで麻痺させてしまっていたのだ。
久志への扉を突然閉ざされて、途方に暮れる自分がいた。繋がっていると信じていた糸が、途中でぷっつりと断たれてしまったような気分だった。何の根拠もなく、無邪気に信じていた自分が、ひどく愚かに思えた。
萌子は小さく笑った。ホントに莫迦みたいだ、と思った。
なぜ、あんなにも信じることが出来たのだろう。自分と先生が、同じ境遇という絆で結ばれているということを。ただそれだけで、二人の関係を特別なものだと思えたことが、今はとても不思議な感覚に思えた。
萌子は、そっと窓辺の席を振り返った。
(それでも……)
それでも、まだ確かなことが二つある。萌子はそう思った。
一つは、それでも二人の共有する想いだけは同じはずだということ。
そしてもう一つは、今でも久志が好きだという事実だった。