第四章 すれ違い(3)
「来ない、みたいだね」
放心したような口調で、薫がそうポツリと呟いた。
来るはずがない。2日前、久志は確かに言ったのだ。『来週から、一緒に通えなくなる』と。
月曜の朝、萌子たちはしばらくのあいだ駅で久志が来るのを待ってみた。
別に久志の言葉を忘れていた訳ではない。もしかしたら二人とも、週末の出来事は何から何まで信じたくなかったのかもしれない。
「……いこっか」
ようやく夢でないことに気づいたように、薫は諦めた口調でそう言った。
「……うん」
二人は口数少なく、尾道駅の改札をくぐった。
階段を登る親友の横顔を覗き込んでいると、それに気づいた薫がわずかに眉を顰めた。
「なに?」
「ううん。何でもない」
その横顔に疲労の跡が窺えるかどうか、萌子にはよく判らなかった。普段と変わりないようにも、少し疲れているようにも見える。
やっぱり寝つけなかったのかしら。萌子はそんな風に思った。
昨夜、萌子はなかなか寝つけなかった。淡いネオンの光に映し出された二人の姿を思い出し、そこから二人の関係を嗅ぎ出そうと必死になった。けれども、そう思えば思うほど記憶は曖昧に薄れ、しまいには二人を目撃したのさえ本当のことだったのか判らなくなってしまった。
悩み疲れて眠りに落ちた彼女が見た夢は、竹原の民家の光景だった。仄暗い家屋の格子越しに見える眩い通りを、久志と黒沢がゆっくりと歩いている。微笑み合い、愛しみ合いながら。
あんな場所を歩いていたことよりも、久志が女性とあんな時間に歩いていたことの方が、萌子は正直ショックだった。
『やっぱ、歳の差には勝てへんのかね』
昨夜、福山駅への道すがら薫が唐突に呟いた一言が、不意に萌子の脳裏をかすめた。
黒沢美代子は、福女に来る前に広島の高校で3年勤めたという話を聴いたことがある。だから、確か年齢は27〜28歳のはずだ。
萌子たちからしてみれば充分に『おばさん』の領域に入る年齢だが、久志とは5歳ぐらいしか違わない。ちょうど萌子と久志の年齢差と同じくらいである。
端から見れば、教え子である萌子を選ぶよりも美代子を取る方が、ごく自然で常識的なことなのかもしれなかった。
(薫と比べるのならともかく……)
今までの恋なら、きっとここで諦めてしまっていただろう。当たり前の結末に、どこかで納得しながら。
けれども今の萌子は、俄かには現実を受け容れ難い気分になっていた。昨夜のことも何かの間違いだと、直感めいた気持ちで頑なにそう信じ込もうとしていた。
あの日千光寺山で知った、久志と出逢ってからずっと感じ続けていた近しさの意味。愛おしさや共鳴する感情を、幻だと思いたくなかった。
(確かめたい)
切実に萌子はそう思った。でもその勇気が自分にあるとは、到底思えなかった。
「立花先生、今日休みだって」
萌子の野暮ったいほどの気負いは、昇降口でいきなり腰砕けになった。
「え?」
「風邪引いたみたい。さっき職員室で言われたの」
下駄箱の手前でそう声を掛けて来た朋美は、萌子の顔を見て吹き出しそうになると、
「何よ、萌ちゃん。部活がなくなっちゃうみたいな顔をして」
月曜日は美術の授業が組まれていない。一緒に通わなくなった以上、彼に問い質せるチャンスは放課後の部活動しかなかった。それまでに勇気を貯めておこうと、萌子は知らず知らずの内に強張った顔つきになっていたのだ。
その緊張をいきなり突き崩されて、萌子は半泣きみたいな情けない表情になっていた。
とりあえず今日は確かめる術がない。そう思った途端、体中の力が抜けた。あまりに拍子抜けして、萌子は思わず笑い出しそうになった。
そうして萌子はやっと、少し落ち着いて物事を考えられるようになった。と言っても、もやもやした気持ちが晴れる訳ではなかったけれど。
「澤崎さん」
六時限目の前に黒沢にそう声を掛けられた時に思わずビクッとしてしまったのは、だからあんまりにも気が抜け過ぎていたからかもしれない。
遠慮がちなその掛け声に、萌子は驚いたように振り返った。優しい、白い光の束のような陽射しが、長々と続く廊下に均等に差し込んでいる。
その白い束の一番手前に、黒沢が立ち尽くしていた。
「ちょっと、手伝ってくれる?」
その表情の硬さに、萌子は思わず昨日のことがばれたのかと思った。
久志も黒沢も、昨夜萌子たちが見ていたことには気づいていないはずだった。
黙ったままただ教師の顔を直視するという、あまり生徒に相応しくない萌子の反応にも、黒沢は意に介すことなく、そう言って萌子を文芸部の部室へ連れていった。
文芸部は、特別棟3階の入り口近くにある、小さな空き部屋を部室にしていた。文芸部の顧問でもある黒沢は、この部屋を自分の授業で使うプリントなどの置き場にしているのだ。
晩秋の午後の光が射す渡り廊下を並んで歩きながら、萌子は黒沢の横顔をちらっと盗み見た。
静やかな表情をした女性だった。彼女のすっとした面差しや眼鏡を掛けた姿は、ともすれば取っつきにくい印象を周囲に与えるかもしれない。
けれどもその眼鏡の奥の少し遠くを見ているような瞳は、たおやかで優しげな感じを醸し出していた。
萌子は、黒沢の怒った姿を一度も見たことがない。そのまなざしと同じように、彼女はとても大人しい教師だった。
その刹那、萌子の胸に今まで感じたことのない激情が迸った。それはまるで風に吹かれた炎のように、一瞬激しく彼女の胸を焦がした。
部室に入る直前、萌子は廊下の遥か先をちらっと見据えた。
その奥の方に、美術室がある。
黒沢に声を掛けられて一瞬怯んだ気持ちが、胸の中で徐々に盛り返して来るのを萌子は感じていた。
思えばこの時、萌子は悪戯な抑揚感と不安定な気持ちにすっかり舞い上がっていたのだ。猪突猛進。興奮した獣のように、ただ真っ直ぐにしか物事が見えていなかった。久志とのあいだに感じたあの穏やかな気持ちを、ただ一途に信じたい。盲目なその想いが、彼女を突き動かしていた。
部室の中はカーテンを閉め切っていて薄暗かった。小さい頃に覗き込んだ押入れの中のような、秘密の匂いがする。
「これ、次の授業に使うから、半分一緒に持っていって欲しいの」
雑然とした部屋の奥の方にひっそりと鎮座している、デスクの上のプリントの束を指差して、黒沢は入り口で突っ立っている萌子の方をちらりと見やった。
萌子はそんな彼女の顔を凝視した。
(何かの間違いだ)
根拠のない思い込みが、萌子の心を占めた。
部屋に踏み入ってプリントの束の上半分を持ち上げた萌子と、黒沢の顔がぐっと近づいた。
「先生」
平静を装ったつもりになって、萌子はそう鋭く切り出した。
「昨日の夜、入舟町の辺りにいませんでした?」
萌この問い掛けに、黒沢の反応は鈍かった。訝しげに首を傾げる仕草に、萌子はついイラッとした。
(とぼけてる)
「どうして?」
「昨夜、先生のこと見かけたんです」
畳みかけるような問い詰めにも、黒沢は能面のように表情を動かさなかった。
「そう。昨夜は……先生たちと飲んでたから」
何だ。やっぱり勘違いか。
萌子はそう思い、ふっと気を抜いた。
今、黒沢は確かに『先生たち』と言った。
(立花先生だけじゃなかったってこと……)
きっと他の先生と別れた後で、二人で駅に向かっていたのだろう。あれはきっと薫の見間違いだったのだ。
都合の良い解釈かもしれない。自嘲するような思いが一瞬頭の中を駆け抜けた。
「仲、良いんですね」
少し皮肉るようにそう言葉を発してしまったのは、胸の内に湧いた疑惑を払いのけるように、急に首をもたげた嫉妬心からだった。
「え?」
「休みの日にまで飲みに行くなんて、先生たちってずいぶん仲が良いんだなぁ、て思って」
この時萌子は、あくまでも『教員同士の仲』を揶揄したつもりだった。ところが黒沢は何を勘違いしたのか、急に鋭い口調になって、
「誰のことを、言ってるの?」
「……」
「……なに、を」
「え?」
「昨夜、なにを、みたの?」
黒沢の声は怯えていた。薄暗がりの中で気づかなかったけれど、彼女はいつの間にか表情を強張らせたまま青ざめていた。
「私たちを、どこで……」
「……ホントは、高松町で」
その地名は、あのラブホテルが密集した辺りのことだった。
今度こそはっきりと、黒沢は驚愕の表情を見せた。プリントの束に手を掛けたまま、彼女はキッと萌子を見据えた。
訊かなければよかった。言わなければよかった。激しい後悔が萌子に襲い掛かった。
どうしていつもこうなのだろう。臆病なくせに、肝心なところで余計なことをして足を踏み外す。訊かなければ、もう少しだけ幸せでいられたのかもしれないのに。
「……出て来るとこ、見たの?」
正確に言うと、その場面を見た訳じゃない。けれども、萌子は気圧されるようについ頷いてしまった。
萌子が頷くのを見て、黒沢は思わず手で顔を覆ってしまった。その刹那、ざらついた感触が萌子の胸を撫でた。
ダメだ、と思った。次の台詞を想像しかけて、萌子の中で全ての思考が停止した。
「ホテルから出て来たことだけは、誰にも言わないで」
黒沢の声は今にも泣き出しそうだった。いや、もう半分泣いているのかもしれない。
「私、先生じゃいられなくなる」
『ホテルから出て来たことだけは』
その後の台詞は全く耳に入って来なかった。すっと血が引いていくように、ゆっくりと心が醒めていく。遠ざかる感情の中で萌子は、
(ああ、また一人ぼっちになっちゃうんだ)
そんなことをぼんやりと思っていた。