第四章 すれ違い(1)
恋を、したことがない訳じゃない。
小学5年生の頃、隣の席になった男の子がとても気になった。きっとそれが私の初恋だと、萌子はそう思っている。
中学生の時にも気になった人はいた。どちらも想いを伝えるまでには至らない淡い恋心だったけれど、男の子を好きになったことぐらい私にもあるのだと、萌子はずっとそう思っていた。
だから、初めて出逢った時から久志に惹かれていることも、萌子は十分判っていたつもりだった。
往きよりも幾らか乗客の少ない、下り最終のロープウェイの中で、萌子は心臓が壊れてしまったんじゃないかと思うくらい早鐘を打つ胸を、必死に抑えようとしていた。今まで覚えたことのない、胸を締めつけるような苦しい切なさに戸惑っていた。
登山口駅で久志と別れて、街灯が虚しく照らし出す路地を一人歩きながらも、やっぱり萌子はどうにも治まらない胸の鼓動を持て余し続けていた。
夕食も喉を通らず、『疲れた』と言って早々に2階の自分の部屋に上がった萌子は、着替えもせずにベッドに寝転がった。
南向きの窓を頭にして置いてあるそのベッドは、萌子がこの部屋で一人寝起きするようになってから数えて三代目に当たるが、小さい頃から萌子はベッドの位置を一度も変えたことがなかった。
そこに横になると、暮れなずむ空の色や尾道水道の上に上がる月が見えた。ベッドに寝転がると、萌子は不思議と気持ちが落ち着くのだった。
萌子は、白い天井を見つめながら呟く。
「あたし、先生が好き、なんだ……」
判り切っているはずなのに、そうやって口に出すと改めて新鮮な驚きが萌子の体を熱く貫いた。
人を好きになるという感情を充分に理解していたつもりなのに、今の萌子は初めての微熱に怯える幼子のように無力だった。とくとくと際限なく湧き上がって来る久志を想う気持ちが体中に溢れ、萌子は自分の体がその内どうかなってしまうような気がした。
久志を慕う優しい気持ちが彼女の心を喜びで満たし、そして悪戯に掻き立てる。
その想いの根底を間違いなく、同じ気持ちを分かち合えるというその親近感が支えていた。
あの雨上がりの夕暮れに、萌子の心の中で好奇心が憧憬へと変わったのは、お互いが『父を失っていた』記憶があると知った瞬間であった。そしてそれは、千光寺山の夕暮れの中で恋しい気持ちへと変化した。
『君もずっと、寂しかったんだよ。きっと』
わたしはずっと、寂しかったんだろうか。白い天井を見つめたまま萌子はそう自分に問い掛けた。
この13年間、母子二人だけの暮らしは余りにも穏やかであった。
優しくて気丈な祖母の存在や、穏やかで暖かみのある水谷家の人々との交流が織りなすリズムは、萌子たち親子に『父親』というパーツが欠けているという事実を、ともすれば消し去ってしまうような雰囲気があった。暮らし向きも悪くなく、玲子との姉妹のような親子関係は人とは違う形の幸せを萌子にもたらしてくれた。
そう、本質的に萌子は幸せだったのだ。親を失くした子供は、本当はもっと苦労するはずなのかもしれない。時々そんな思いがよぎるほど、萌子は確かに幸福だった。
薫という親友。千絵という希有な叔母の存在。優しくて若々しい母親。彼女の日常の中には、父のいない不幸を感じさせるものは何一つ存在しなかった。
けれどもそんな日々の暮らしの中で、踏切の向こうで萌子を見つめる父の瞳の記憶は決して消え去ることはなかった。常に思い続けている訳ではないけれど、萌子の心の片隅でそれは大きくなることもなくまた消え去ってしまうこともなく、当たり前のような感情としていつも居座り続けていた。
透明なガラスに封印したみたいに、その思いは萌子の心の中にずっと閉じ込められたままだった。
薫がどんなに優しくて聡明でも、自分が抱えている気持ちはきっと理解出来ない。そう思うと、萌子は彼女の前で小さなしこりみたいなわだかまりを口にすることが出来なかった。
そしてどんなに幸せでもどんなに優しい人たちに囲まれていても、萌子は一人ぽつんと宇宙に放り出されたみたいな気持ちを、ずっと持ち続けていた。
久志と出会ってから、その思いはガラスの器から少しずつ溢れ出していた。そして今日、千光寺山で久志の告白を聴いて、ガラスの器は完全に砕け散った。
『寂しさ』を分かち合える、そんな存在。その柔和な横顔への恋慕の情と同じくらい、共鳴する感情は久志への想いを強くしていた。
(明日、また逢える)
ごろん、と横向きになりながら萌子はそう思った。それから、そんな風に思ったことに可笑しくなって一人笑いを漏らした。
これまでだって毎日逢っていたのに、いまさらそんなこと思うのもおかしな話だ。けれども萌子は、明日からの毎日がとても真新しい日々のような気がしていた。
今は、ただ逢えるだけでいい。素直にそう思った。久志への募る想いも、今は逢えるだけで満たされてしまうような、そんな気がしていた。