第三章 千光寺山(5)
テストの答え合わせでもするように、久志は淡々と、時折微笑さえ浮かべながら話し続けた。萌子は読み上げられる回答を黙って聴く生徒のように、久志の顔を見つめた。萌子の頭の中の疑問が一つ一つ氷解して、そして一つに繋がった。
「僕の中学の卒業式があった次の日に、夕方フラリと出掛けて、そのままいなくなったんだ。深夜になるまで誰も家出だって気付 づかなくてね」
久志は思い出し笑いのように頬を緩めて、
「家にあった定期預金が一つ解約されていて、多分そこにあった百万ちょっとの金だけを持って父さんはどこかへ消えたんだ」
久志はそこまで話してから、ちょっと思案するような表情を浮かべた。
「いなくなる前の晩に、父さんから将来のことをやたらと訊かれてね。その時僕は美大の付属校に受かっていて、どんな形にしろ絵を描き続けていくつもりだって言ったら、満足そうに『うんうん』て頷いて」
まるで。そう言葉を切り、久志は短く黙り込んだ。
「まるで息子の成長に満足したって感じだった。それで次の日にいなくなって。もしかしたら父さんは、僕が義務教育を終わるのを見届けるためだけに戻って来たんじゃないかって、その時そう思ったんだ」
『パパはどこに行ったの?』
父がいなくなってから、萌子は一度だけそう母にしつこく問いただしたことがある。それは、父の背中を踏切の向こうに見送ったあの日の夜のことだった。
誤魔化そうと思えば幼い萌子のことなど軽くあしらえたはずなのに、玲子は萌子のその問い掛けにいつまでも答えようとしなかった。
それから13年間―自分に父親という存在が永久に帰ることはないだろうということがはっきりと理解出来る年頃になっても―萌子は一度もその質問を母にも祖母にもぶつけたことはなかった。
あの夜の、母の堪らなく哀しげな顔が、萌子の心の内にいつの間にか理性に良く似た封印を掛けていた。
「もしかしたらこの街に戻ったのかもしれない。そう思ったこともあったけれど……」
確かめようがなかった。久志はそう小さく息を漏らした。
いくら狭いと言っても、尾道は人口十万の都市である。確かに人一人見つけ出すのは案外難しい作業かもしれない、と萌子は思った。そしてハッとした。
「じゃあもしかしたら先生のお父さんは今でも……」
「それはないよ」
久志は、萌子の言葉の意味を途中で察して、笑って否定した。
「きっとこの街にはいない。多分父さんはこの街の暮らしも捨てて、東京に戻って来たんだ。自分の子供の義務教育終了を見届けるためだけにね」
久志はそう言って、眼下に広がる夕暮れの街を見下ろした。
「君と初めて逢った時」
「え?」
「僕を三田村さんの所まで案内してもらった時、『この街に来てみたかった』って言ったよね」
「……ええ」
「父さんがまたいなくなった時、考えたんだ。きっと父さんは義理を果たすためだけに東京に戻って来たんじゃないかって。父さんが本当に過ごしたいと、帰りたいと願っていたのはきっとこの尾道の街だったんだって」
まるで胎内にいる赤ん坊のように、久志は自分の膝をぎゅっと抱きしめて背中を丸めた。萌子は急に、その小さく見える久志の体を抱きすくめたくなるような衝動に駆られた。
人気ない夕暮れに、まるで二人だけぽつんと取り残されてしまったような感覚。
膝を抱えた子供のような久志の姿は、とても小さく見えた。その時彼女が感じたものは、今まで抱いていたような憧憬ではなく、守りたくなるような愛しさであった。
萌子は、久志と出会ってからずっと感じ続けていた近しさの意味を、今はっきりと理解したような気がした。
ぼんやりと膝を抱えたまま、久志が呟いた。
「一度ね、見てみたかったんだ。父さんが愛した街っていうのを」
それから久志は、急に照れたように頭を掻いて、
「変な話をしてゴメンね。何でかな。こんな話、するつもりなかったのに」
「ううん」
萌子は小さく首を横に振った。
「話してくれて、嬉しかった。あのね」
こんなことを話して、何になるんだろ。萌子はそう自分に疑問を投げ掛けながら、浮ついた気持ちのままその台詞を口にした。
「私も、父がいないんです」
「え?」
萌子の言葉の意味をとっさに理解出来なかったのか、久志は不可解そうに眉をひそめた。
「先生んちと同じで、ウチも母子家庭なんです。ウチの場合、母一人娘一人だけれど」
空が、露草色にその色を変えようといていた。もうすぐ、夜の帳が降りて来る。
「……亡くなったの?」
小さく、湿った声で久志がそう問い返す。
「ううん。私のお父さんもやっぱり家を出て行っちゃって、行方不明なんです」
きっとそれが彼の性格なのだろう。久志はひどくすまなそうな顔をして俯いた。
「ごめん。人の気も知らないで、自分のことばかりぺらぺらと」
「ううん、いいの。気にしなくて」
今度は萌子が、気遣うような優しい笑みを浮かべる番だった。
「私の父は、私が4歳の時に家を出て行ったんです」
そうして萌子は、今まで家族以外は薫にしか話したことのない事実を、ゆっくりと語り始めた。
「誰にも、何も告げずに。この街で、父の姿を見たのは私が最後なんです」
今も脳裏に焼きついて離れない、列車の向こうに消えた父の姿。
「父が出て行った訳を、母もおばあちゃんも話してくれなくて。その内、ウチには最初から父親なんて存在しなかったみたいに、誰も父のことを話さなくなって」
萌子が父のことを思い出すのは、クラスメイトにそのことで苛められた時だけだった。それも薫のおかげでやがてなくなり、中学に通い始めた頃にはもう誰も萌子に父親がいないことなど口にしなくなった。
「どうせなら、最初から父親なんて存在しなければ良かったのかもしれないですけどね」
けれども、萌子は確かに知っていた。慈しむような父親の愛情を。それは幼い萌子に向けられた、ただひたすら優しい想いだった。
拭いきれない甘味な愛情の記憶は、萌子の心の中に口に出来ない疑問をずっと育てていた。母子二人きりの生活に何の疑問も抱かせないほど、周囲の人々―祖母や近所の住人や水谷家の人間―が気を配ってくれたから、だからこそ余計に萌子はその疑問を口にすることが出来なくなっていった。
父は何故出て行ってしまったんだろう。私や母を捨てて、どうしていなくなってしまったんだろう。
その疑問は、あの踏切で見たどこか寂しげで真っ直ぐな父の瞳の記憶と重なって、いつまでも萌子の胸の内から離れることはなかった。
「今でも判らないんです。父が優しい人だったのか、厳しい人だったのか。陽気な性格だったのか、無口な人だったのか。そもそも、父親がいたという記憶さえ時々なくしそうなほど、毎日が当たり前のように過ぎていって」
父親がいないことで苦しみを感じた記憶が、萌子にはほとんどなかった。
父を見失った時のちぎれるような疼痛が揺り返しのように胸に去来することや、人より欠けたところがある寂しさが胸を訪れることはあったが、それも薫や周囲の人々と織りなす忙しいほどの日常の中で、最近はすっかり忘れ去られてしまっていた。
「けど本当は、ずっと知りたいと思ってるんです。父があたしたちを捨てた理由を」
萌子は、それを知らなければ自分はずっと何かが欠けた、中途半端な存在のままのような気がしていた。
「先生の悩んでることに比べたら、何か子供じみた悩みですよね。何も、困ることなんかないんだから」
喋ってしまってから、萌子は急に自分の抱えていたものが幼稚な悩みだったような気がして照れ臭くなった。
そう、大したことじゃないんだ。私は何も苦労なんかしてないし、今のままでも充分に幸せなんだから。
「先生から見れば、きっと呆れるくらい私、幸せなんですよね」
恥ずかしそうにそう遠くに視線をやって、それから萌子は区切りをつけるように立ち上がるとスカートの裾を払った。
「判るよ」
ロープウェイの方に歩きかけた萌子の背中に、久志はそう言葉を投げ掛けた。
「え?」
その声に驚いたように萌子が振り返る。
夕闇に咲く花のように、岩に腰掛けたまま久志はただ微笑んでいた。その瞬間何の脈略もなく、萌子はその笑顔を、
(綺麗だ)
と思った。
心臓がとくとく、と体中にシグナルを送り続けている。頭のてっぺんから足の先まで、痺れるような感覚が全身を貫いた。
それは泣き出したくなるような切ない想いと、理由のない懐かしさであった。
「判るよ。僕も一緒だから」
確信に満ちた笑みで、久志は大きく頷いた。
「僕だって別に困ることなんて一つもなかったよ。でも、きっと一緒だ」
闇に溶けていく景色の中で、その言葉は幻のように萌子の頭の中で響いた。
「君もずっと、寂しかったんだよ。きっと」