第三章 千光寺山(4)
厚手のセーターの上から綿入りの半天を着込み、彼女の小さな顔の半分くらいありそうな大きなマスクをして、顔を上気させて虚ろな視線を宙に彷徨わせる。
萌子が迎えに行くと、薫は全身で病人であることを体現しているかのような格好で玄関に現れた。
半天の下から見えているジャージから察するに、どうやら寝起きのままの姿らしい。
さすがに萌子も『出掛けよう』と言う気にはなれなくて、何も訊かない内から(これからどうしよう)と思案を巡らせた。
ところが薫は何を血迷ったのか、マスクの下でもごもごと口を動かせてこうのたまった。
「……待ってて。今『ユンケル』を三本ぐらい飲んで来るから」
「ちょ、ちょっと待った」
萌子は慌てて、踵を返しかけた薫の半天の袖を掴んだ。
「まさかあんた、出掛けるつもりじゃないでしょうね」
「そうだけど」
「そうだけどって、薫あんた熱何度あるの?」
「ん……7度、ちょっとかな」
「何言ってるの。さっき8度3分もあったんじゃない」
後ろからやって来た薫の母、佐知子がそう言って彼女の頭を小突いた。
「38度!? あんた何寝言みたいなこと言ってるのよ。ほら、こんなとこにいちゃ駄目じゃない」
萌子は急いで玄関を上がると、薫の背中を押しながらリビングに戻った。
背中を丸めてお粥を啜る薫に向かって萌子は、
「いい? それを食べたらすぐ布団に戻るのよ」
「なんか、いつもと立場が逆やな」
と薫は恨めしげな目で萌子を見上げてから、急に激しく咳き込んだ。
「ほらぁ。茶化してる場合じゃないでしょ」
「でもほら、立花ちゃんと約束したし」
何言ってるのよ、という風に萌子は呆れ顔になって、
「あたし一人で行って来るわよ」
「でも……」
何故か薫は未練がましい口調でそう言いさすと、不安げにじっと萌子を見つめた。
「なによ」
「いや、あんたたちを二人きりにするのはどうかな、と思って……」
「やだなあ。何心配してるのよ」
萌子はそう屈託なく笑った。
「あたしが相手じゃ、先生もその気にならないわよ」
やっぱり心配なんだ。戯けた仕草を見せる萌子の心に、そう小さな影が射した。
薫は、高熱をおしてまで久志に逢いたいのだろうか。
(薫がそんなに本気になったら、誰も勝てないや)
そんなことを思って、萌子はふとそう笑い飛ばしたくなった。
「ほら、食べ終わったら横になってなきゃ。先生のことはあたしに任せて」
萌子がそう急かすと、薫はじれったそうな表情を浮かべて、
「あ〜あ。こんな時に力尽きるなんて、一生の不覚だわ」
とぼやいた。
窓辺にこぼれる光の中で佇む彼は、まるで一幅の宗教画のようだった。
久志と待ち合わせた喫茶店『都わすれ』は、尾道市文学公園の奧、志賀直哉旧居の脇にある、花と動物を愛するマスターが開いたこぢんまりとした店だ。
三田村不動産からもほど近く、萌子のもう一つの『御用達』の店である。
その白亜の建物の中にも外にも四季折々の花が溢れ、椅子の上で堂々と猫が丸くなっていたりする。
『都わすれ』は、そんな店だった。旅行雑誌などにも紹介されているから、今日みたいな休日は観光客で満席になることもしばしばであった。
萌子が訪れた時も、小さな店の中は客でいっぱいだった。顔見知りのマスターが目線だけで挨拶をよこす。それに軽く頷くと、萌子は窓辺の席に一人ぽつんと座っている久志に近づいた。
ここに来るまでのあいだ、小さな路地を一つ曲がるたびに萌子の心はワクワクとした気持ちで少しずつ膨らんでいった。何かが始まる前のようなそんな期待感が、今まで久志と逢う時に感じた緊張感とは違う胸の高鳴りを助長する。
風邪で苦しんでいる薫を思うと、まるで抜け駆けをしているような罪悪感を覚えたけれど、それでもやっぱり萌子は湧き上がって来るときめきを押し留めることが出来なかった。
久志は不機嫌そうな顔つきで、窓の外に目をやっていた。
萌子が選んだ、明るいクリーム色のトレーナーを身につけている。萌子が近づくのに気づくと、彼は不自然なほど大きなため息を漏らした。
「ごめんね先生、遅くなって」
「いや……」
曖昧にそう頷いて、久志は萌子の後ろをきょろきょろと見やった。
「薫、来れないの」
「え、何で?」
久志が驚いたように聞き返す。
「風邪でダウン」
「……大丈夫なのか?」
「熱が少しあるみたい。ゆっくり休んでなって言って家に置いて来た」
「そっか」
そう久志が呟いた。その顔つきが、微妙に曇ったように萌子には見えた。水面に波紋が広がるように、胸の内に微かな疑念が広がっていく。萌子の心臓がとくん、とくんと脈打った。
「そりゃまあ、そうした方がいいな」
「先生、ご不満? 薫がいなくって」
萌子はそう久志を見つめた。さっきまでの上機嫌が、引き潮のように体の中からすっと引いていく。
「何言ってるんだよ。そんなことないよ」
「そう、良かった」
ほんの少しだけホッとして、萌子は小さな笑みを浮かべた。
「だって先生、何か怒ってるみたいなんだもん」
そう言いながら萌子は、久志の正面に腰を下ろした。
「それはな……」
久志が声を潜めて萌子の方に顔を寄せる。萌子は一瞬ドキッとした。
「ここ、カップルばかりで落ち着かないんだ」
萌子は思わず目を丸くして、それから吹き出した。
「先生ったら……」
なあんだ、と思った。ちょっと拍子抜けした気分だった。穏やかな安らぎの中で、萌子は自然と頬を緩めていた。
いじらしいほど純粋な、今時の23歳にはとても思えない久志の野暮ったさに、萌子は堪らない愛おしさを覚えた。優しい想いが、快く体中を駆け巡る。
「こうしていると、私たちもカップルに見えるのかな」
テーブルの上に置かれた透明なグラスが、プリズムとなって描き出す薄い光の模様を見つめながら、萌子はそう呟いた。
「え?」
まるで彼女の台詞を聞き逃したかのように、久志が戸惑い顔で萌子を見つめた。萌子も自分の吐いた台詞の意味に今更ながら気づいて、弾かれたように顔を上げて久志を見る。
二人の視線が、一瞬絡み合ったままほどけなくなったように、テーブルの上で交差した。
次の瞬間、萌子の全身を恥じらいが矢のように貫いた。顔が真っ赤に火照っていくのが判る。どうしようもなく無抵抗に、心臓が激しく波打った。
居たたまれない気分で、萌子はぐるりと店内を見やった。
頬杖をつき、或いは視線を絡め、幸せそうに笑い合いながら、幾組ものカップルがそこには存在していた。傍目には、何の憂いもなさそうに見える恋人たち。
萌子はふと、私たちもそんな風に映っているのだろうかと思った。そう思うと、彼女は急に上手く喋ることが出来なくなった。
気まずい沈黙が二人のあいだを支配した。会話の糸口を必死に探しながら、萌子は運ばれて来たアイス・ティの氷を意味もなくグルグルとかき混ぜた。
「薫君は大丈夫かな」
二人とも結局話題を探しあぐねて、久志は取ってつけたようにそう薫の名を口にした。
「うん。大丈夫だと思う」
とくん、とくんと心臓が鼓動を刻む音を、萌子ははっきりと自覚していた。息苦しささえ、覚える。自分がこんなに純情で初心だなんて、萌子は思ってもみなかった。
けれども思い返してみれば、こんな風に男の人と二人きりで喫茶店に行くことなど、今まで経験したことがないのも事実だった。今は女子高だし、中学までだって薫の後ろを追い駆けてばかりで、龍太以外の男の子とまともな会話をしたことがなかったのだ。
久志に問われるまで萌子は、今頃熱にうなされているはずの親友を気遣う余裕さえ持ち合わせていなかった。
「あたしが来るまで出掛けるつもりだったのよ、薫。あんだけの根性していれば、きっと明日はけろっと学校に出て来るわよ」
萌子がそう言って小さく首を振ると、
「彼女らしいね」
久志はそう小さく笑った。
「……どこ、行こっか」
また会話に詰まって、しばらく窓の外で揺れるコスモスを眺めてから萌子は、小さく吐き出すようにそう呟いた。
「どこでもいいよ。ガイドにお任せ」
そう返した久志の照れた笑みに不意を突かれて、萌子はまた激しく動揺した。
「……じゃあお隣から、かな」
「隣?」
「そう。志賀直哉が、尾道で暮らした家から」
遠くから、微かな神楽の音が聴こえて来る。群衆が移動するざわめき、うねり。テキ屋の威勢の良い声。華やかで、光に満ちた小春日和の午後。
尾道の街は、華やいだ雰囲気に包まれていた。普段、観光地にしては静かな通りにもたくさんの人が溢れ、いくつもの露店がひしめきあうように肩を寄せて立ち並ぶ。何もない、幸せそうな顔の人々が、少し遅い秋祭りを楽しんでいた。
ベッチャー祭の中心は、三田村不動産の近くにある吉備津彦神社で行われるが、この日一日は街のそこここに獅子舞や御輿が出て、肝心のベタ・ショーキ・ソバの三匹の鬼も街中を練り歩く。市内一円が祭りの華麗さに包まれるのだ。
二人は最初、尾道市文学公園から西国寺までの道のりをゆっくりと歩いた。途中、タイル小路や御袖天満宮、福善寺などに立ち寄るおよそ2時間のコースである。
良く晴れた秋の一日だった。重なり合うようにして建つ家々の軒先から、深く澄んだ碧空が見えた。
萌子はこの日、この世の中に満ち足りた切なさというものが存在することを初めて知った。
それは確かに切ない心地良さであった。喜びでも、楽しさでもなく。久志の横に並んで見慣れた路地を歩きながら、萌子は見知らぬ異国を歩いているような気分を味わっていた。
久志は複雑に入り組んだ尾道の路地をいたく気に入った様子だった。時折立ち止まり、いつになく真剣な表情でじっと路地の奧の風景に目を凝らした。萌子は、自分が同じ絵を志す者として、久志と同じ視線を持っていることがとても誇らしかった。
西国寺の境内を埋め尽くす桜の木々は、すっかり色づいて冬支度を始めようとしていた。もう半月もすると、全ての葉を散らし裸木となってしまうことだろう。
「ここ、桜の名所なんです」
萌子は、前に何度か母の手に曳かれて来た桜の季節を思い返しながらそう言った。
「ほら、両側の樹がアーチみたいに枝を伸ばしているでしょ。桜が咲くと、まるでピンク色のトンネルみたいになるんです」
「へえ。見てみたいなあ」
久志の台詞の内に叶わぬ願いを込めた切実な響きを感じて、萌子は不思議そうに久志を見上げた。
「もしかしたらさ、春にはここにいないかもしれないから」
「あっ……」
久志に思いもかけない事実を指摘されて、萌子の心ははっきりと揺れ動いた。
「僕は臨時講師だからね。春になって近藤先生が戻って来るか、正式な講師を雇うんだとしたら、そこでお役ご免だから」
「最初から、その予定なんですか?」
つい詰問するような口調になって、萌子は久志にそう尋ねた。
「う〜ん。別にいつまでやるって決まっている訳じゃないんだけどね。とりあえず春までは 尾道で暮らしてみようかなって思って、この話を受けたんだ」
優しくて穏やかなその人柄の奧に、この人は確かに哀しみを湛えている。
久志の澄んだ瞳とは裏腹な微妙な語気の硬さに気付いて、萌子はそんな思いを強くした。夕暮れの校舎で、彼が見せた翳りのある横顔が浮かぶ。
そんな久志の抱く哀しみに共鳴出来るような、そんな漠然とした予感が彼女の心の中で灯火のように揺れていた。
「それくらいの時間があれば、何とかなるんじゃないかってね」
「何とかなるって?」
「また、描けるようになるんじゃないかって、そう思ったんだ」
歌うような、むしろ楽しげな口調で、久志はそう淡々と言葉を重ねた。
「時間を掛けて、場所も変えて。そうすれば元に戻るんじゃないかって。そうやって結局逃げて来ただけなんだけどね、僕は」
久志はそう言って、高く澄んだ青空を見上げた。
その後坂道を下るまで、結局久志はその話題に一度も触れることはなかった。途切れがちな会話をただ漠然と交わしながら、萌子は彼への言葉にならない問い掛けが胸の中で溢れてしまうような気がした。
坂道を降りてラーメン屋で軽くお腹を満たすと、二人は群衆で賑わう繁華街をのんびりと歩いた。
沿道にはもろこし、お好み焼き、綿飴といった食べ物から的当てゲームといったものまで、様々な露店が軒を並べている。食べたばかりで食欲など湧かないくせして、二人はそんな露店を幾つも冷やかした。
「さて、鬼はどこ行った」
さっきまでの憂いを帯びた表情をすっかり覆い隠して、久志はそう陽気な声で辺りを見回した。
「その三匹の鬼っていうのは、街中を歩くの?」
「うん。そのはず」
「その鬼に追い回されて叩かれれば、その年は病気しないんだろ? あれ? でも……」
久志はそこできょとんとした表情になって、
「その年ってことは、あと二ヶ月しか持たないのか? そのまじない」
その三匹の鬼たちとは、尾道郵便局のそばのアーケードの一角で逢うことが出来た。
三匹の鬼は、ゆっくりと練り歩く小さな御輿の後をのんびりと歩いていた。そうして、沿道に立つ人たちを戯けたように追い回す。そのたびにその人波は、まるで潮の満ち引きのように右に左に揺れた。
その辺りは特に混雑が激しかった。後から来た萌子たちは群衆を更に遠巻きにするような位置に立たされた。そうなると、久志はともかく背の低い萌子は鬼たちを見ることが出来ない。
萌子は仕方なく、近くにあった縁石に飛び乗った。
飛び乗った、のがいけなかったのかもしれない。面積の狭い石の上に上手く着地することが出来なくて、萌子は思わずよろめいた。
がっしりと、何かが萌子の右手を掴んだ。
久志の左手が、しっかりと萌子の右手を握り締めていた。じんわりと伝わる久志の幾らか高めの温もりが、萌子の右手を通して彼女の心臓を不規則に揺さぶった。
萌子は久志の顔を見つめた。彼は何気ない素振りで、萌子の方を見ようとしなかった。視線を不自然なほど真っ直ぐにして、時折揺れる周囲の人波に合わせて笑い声を立てる。
予期せず萌子の手を握ってしまったことに、彼が内心大いに照れているのが萌子にはとてもよく判った。何でこんなに久志のことが判るんだろうと思うくらい、今日の萌子は彼のことが何か何まで理解出来るような気さえしていた。
穏やかな愛おしさが、萌子の胸をそっと包み込む。
久志に倣って前方に視線を送りながら、萌子はそっと右手を握り返した。
夕暮れに、ロープウェイに乗って千光寺山に登った。
妙宣寺の脇にある登山口駅を出たロープウェイは、意外なほど急な角度で乗客を山肌に沿うように押し上げて行った。昇り始めてすぐ眼下に広がった屋根瓦がどんどんと小さくなって、尾道の街並みがミニチュアのようになっていく。尾道駅へ向かう4両編成のグリーンとオレンジのツートンカラーの列車が、まるで模型のようだった。
細長い尾道水道が飴色の夕日に水面を染め、やがて遠くに瀬戸内海とそこに浮かぶ島々が姿を現し始めた。
日暮れ間際だというのに、ロープウェイは思いのほか混んでいた。二人は押し黙ったまま、窓の外にゆっくりと広がっていく尾道の街を見つめていた。
「わあ」
山頂駅でロープウェイを降りて展望台に続く道に出ると、久志は小さな歓声を上げた。横に並んで歩きながら、そんな彼の反応に萌子は満足げな顔をした。
「綺麗でしょ」
「……ああ」
千光寺山の中腹に広がる広場からは、眼下に尾道の街が一望出来る。まるでお堀みたいな尾道水道やその向こう側に広がる向島の街並みも。マッチ箱のように小さな家並みが、なだらかな傾斜に沿って山裾までびっしりと続いている。
視線を上げると、向島の向こうに濃く薄く幾重にも重なる芸予諸島の島影が映り、そのあい間にちらちらと瀬戸内の海が見える。そして、まるで海に浮かぶ浮き橋のように続く島影のその先には、色を失いかけた碧空の下で遠く四国山脈が薄い影を成していた。
千光寺山公園の広大な敷地は、実は萌子の家の裏にある道を登って行くと案外と簡単に辿り着ける。ここから見える景色は、幼い頃から萌子のお気に入りだった。特に夕暮れの眺めを、彼女は一番気に入っていた。
だから、今日1日のコースの最終地点にこの場所を選んだのだ。
やがて、堪えていたものを吐き出すように、久志はふうっと大きなため息を漏らした。
「何て、言ったらいいんだろう……。美しい、だけじゃ言葉が足りない気がする」
夕暮れの港町は穏やかな横顔を見せていた。尾道と向島を結ぶ渡船が、電動仕掛けの玩具の船のようにゆっくりとしたスピードで細い海を渡って行く。
「へえ。著名人がスケッチした場所、だってさ」
展望台の真下にある石畳に足を踏み入れて、久志が小さな石版を見つけた。この場所でスケッチした著名人として、梅原龍三郎らの名前が刻まれているのが見える。
こうした石版は、千光寺公園の中に幾つか存在する。西国寺、浄土寺、御袖天満宮といった幾つもの景勝地を持ち、見る場所によって様々にその顔を変える尾道の街の中でも、とりわけ千光寺の周辺からの眺望は、尾道の美しさを凝縮した景観として古くから多くの文人や画家に愛され、その画題とされて来た。それぞれの画題とされたその場所々々に、こうして記念の石碑が残されているのである。
石版のそばに立って眼下の光景を見やっていた久志の右手が、無意識の内に絵筆を動かす仕草をしているのを見て萌子は可笑しくなった。
「先生。もっととっておきの景色、見せてあげる」
萌子はそう言って、久志の右腕を取った。
思いもかけない萌子の行動に、久志は一瞬驚いたように身を固くしたが、彼女はそんな彼の様子を気遣うことなく、半ば強引に展望台の裏手へと引っ張って行った。
ロープウェイを降りて展望台やその周辺の景色を堪能した観光客は、そのほとんどが山頂駅の右手を下って行く『文学のこみち』へと向かう。
山道に沿って尾道ゆかりの文人たちの作品の一節を刻んだ石碑が点在するその道は千光寺の境内へと続き、そこから再び展望台へ戻るコースや尾道市文学公園へ下るコースなどに別れている。
それが千光寺山公園に於けるもっともポピュラーな観光コースであり、萌子たちのように真っ直ぐ展望台の裏手の道へ向かう者は珍しかった。展望台を過ぎると、周囲は急に人影が絶えた。
萌子が久志を導いたのは、敷き詰められた芝生の中に庭石が点在する広場の、更にその奧だった。
「ここです」
傾斜がきつくなる手前で足を止めると、萌子はそう言って松林の向こうを指す。
その先に、金色の輝きに包まれた空間があった。
松の枝越しに見えるのは、尾道の市街地の西側半分だった。まっすぐに貫く山陽本線の線路に沿うように、雑多な街並みが細く長く伸びていく。
その先に見える尾道水道が、夕日を受けてきらきらと輝いていた。街並みの向こうでその幅を急に広げて、三原湾へと続いている。
日は山の端へ沈もうとしていた。海も空も島も街も、全てが金色の光に映え、金色の光に染まり、金色の光に溶けていく。
まばゆい輝きを放つ水面を漁船が一隻、緩やかな航跡を残して渡って行くのが見えた。
一日の内のほんの一瞬。それは幻のような光景だった。
初めてこの夕景を見た時、萌子はしばらくその場所から動くことが出来なかった。刻々とその姿を変えていく風景が、何かの生き物のように感じられた。
それから何度も夕暮れ時に山に登った。そして夕景を見るたびに、切なくなった。優しい春の夕暮れにも、寂寥感漂う秋の夕暮れにも、同じように胸を締めつけられた。
いつの頃からか、この切ない気持ちを形にして残したいと思うようになった。萌子が絵を志した、それが始まりだった。
夕景を見に来るのはいつも一人だった。薫とさえ、この時間にこの場所に来たことはない。
それなのに今日は、どうしても久志にこの景色を見せてあげたい、と思ったのだ。
背後で息を飲んだ気配を感じて、萌子はそっと久志の方を振り返った。
いつかの萌子のように、久志は言葉を失い立ち尽くしていた。その鳶色の瞳が、段々と優しく和んでいく。
「綺麗だね」
久志はそう率直な感想を漏らした。
「不思議だね。人ってどうして美しいものを見ると、泣きたくなるような、胸が締めつけられるような想いがするんだろう」
同じだ、と萌子は思った。自分が感じたあの切なさを今、同じ景色を見ながら久志も感じている。共鳴する感情の中に、彼女は久志との距離の近しさをはっきりと感じ取っていた。
「もう少し、ここにいようか」
久志の問い掛けに、萌子は黙って頷いた。
大きな岩に腰を掛けて、そして二人は暮れゆく街をじっと見ていた。徐々にその色を変え、色を失っていく海と空を見ていた。
久志とのあいだに会話が途絶えても、萌子はもう不安を包み込んだ苛立ちを感じることはなかった。肩が触れ合うほどの距離は、不思議なほど彼女を安らいだ気持ちにさせる。
二人はしばらくのあいだ、言葉もなくただ海と空を眺めていた。
「父さんがね、昔一度だけ話してくれたことがあったんだ」
久志が、唐突にそう語り始めた。萌子は黙って久志の顔を見た。
「尾道の夕焼けは、とても綺麗だって。山に登ると、瀬戸内海が見渡せるって。あれって」
夕景に目をやったまま、久志は呟くように言った。
「もしかしたら、ここからの景色のことだったのかなぁ」
優しい顔だった。久志は初めて、翳りも憂いもないさっぱりとした表情で父親のことを口にした。
「先生のお父さんて、いつまで尾道にいたんですか」
萌子も表情を和らげて、そんなことを尋ねた。
「父さんはね、僕が小学4年生の春に戻って来たんだ」
萌子は頭の中で自分と久志の歳の差を計算した。久志が9歳ということは、萌子がちょうど4歳の時に当たる。
(そっか。パパがいなくなった頃だ)
彼女がそんな計算をしたのは、もしかしたらこの街のどこかで久志の父とすれ違っているのかもしれない、そんな他愛もない想像をしたからだった。
「先生のお父さんは、どの辺りに住んでいたんですか?」
そんな質問も、その他愛もない想像の続きであった。無邪気な、あどけない表情を浮かべて
そう問い掛ける少女の顔を、久志はしばらく―萌子が不審げな顔になるまで、じっと見つめていた。
「知らないんだ」
そう呟いた久志の台詞の意味を、萌子は最初良く理解出来なかった。
「? 知らないって……」
「父さんがこの街のどこで、どうやって暮らしていたのか、誰も知らないんだ……」
どこを見て笑っているのか判らない久志の弛緩した笑みを、萌子は戸惑った顔で黙って見ていた。そんな彼女を優しく見つめた久志は、一言こう告げた。
「僕の父はね、ずっと行方不明だったんだ。僕が生まれてから小学4年になるまでのあいだ」
その思いがけない告白は、萌子の想像していたことと似ているようでいて、とんでもなくかけ離れていた。萌子は言葉もなく、ただ久志のことを見つめた。
「『お前の父さんは旅先で事故に遭って、しばらく記憶を失っていたから家に帰って来られなかったんだ』父さんが戻って来た時、僕は周りにそう聴かされたんだ。でも、何でその旅に出たのかは、誰も教えてくれなかった」
ゆっくりと襲い掛かって来る、鈍痛のような重苦さに押し潰されそうな萌子の気分とは裏腹に、久志は妙にすっきりとした、まるで憑き物が落ちたみたいに清々しい表情で話し続けた。
「僕が生まれる前に、僕を母さんのお腹に残して父さんは家を出てしまったんだと思う。行く先を誰にも告げずにね。その時に何があったのかは判らないけれど、大きくなって父と母のあいだに何か揉めごとがあったんだろうってことだけは、何となく察しがついた」
そう言って久志は、少しだけ微笑んだ。
「……父さんが事故に遭って記憶をなくしたっていうのは、本当のことだったんだ。旅先の見知らぬ街で事故に遭って軽い記憶障害にかかって、その事故で助けてもらった人に世話してもらって尾道に住み始めたらしいんだ。そして、この街で全く別の暮らしを始めた……」
「……」
「父さんが見つかったのは本当に偶然でね。たまたま父さんのいとこが偶然父さんと逢って、僕のことを話したんだ。父さんは僕が産まれたことを―その存在すら知らなかった。その時は連れて帰ることが出来なかったらしいんだけど、しばらくして父さんは家に戻って来た。自分の意志でね」
僕は。そう言いさして、久志はしばらく言い淀んだ。互いの表情すら読み取れなくなりそうな危うい夕闇の中で、風の音だけが二人の周囲を支配する。
「初めて見たその人を、父親だと思うことが出来なかった。誰かに詳しく聴かされていた訳じゃなかったけれど、その頃僕は自分に父親というパーツが最初から用意されていなかったと思っていたからね。それなのに突然『はい、これが父さんね』って言われても、実感が湧かなかったんだ」
久志は終始微笑んでいた。何て優しそうに笑うんだろう。そう思うと、萌子の胸に切ない痛みが走った。浮かれた自分の不用意な一言が、堪らなく悔やまれた。
「今でもね、思う時があるんだ。実の子どもに他人のように接せられて、父さんはどう思っていたんだろうって。もう、その答えを訊くことは出来なくなったけどね」
「先生それって……」
「ああ。別に父親まで死んだ訳じゃないよ」
萌子の哀しげな表情に気づいて、久志は気遣うように弱く微笑んだ。
「いや、正確に言うと、生死も判らないって言った方が良いのかな」
ぽつりとそう呟くように話す久志の頬を、夕暮れの風が優しく撫でる。
「僕の父さんは、僕が中学を卒業した春に、またいなくなったんだ。今度こそ、誰も知らないところにね」