第三章 千光寺山(2)
初めは、ボーカル・ソロだった。
既に熱気を帯びたステージの上で、龍太ただ一人に白色のスポットライトが充てられている。わずかに上がった黄色い嬌声は、すぐに潮が引くように消えていった。か細いキーボードの旋律に乗せたソプラノ気味の龍太の歌声が、ホールの中に響き渡っていく。
「裸足のままで飛び出して……」
音もなく、龍太の両サイドにいるギターがスポットライトに浮かび上がった。ステージの上が七色に変わる。
「本当の声を聴かせておくれよ……」
突然、ステージの周りでパンッ、という音と共にスモークが弾け飛んだ。びっくりした観客席から甲高い声が上がり、それを合図に場内は激しい手拍子と歓声に包まれた。
ここは、福山市内に唯一存在するライブハウスだった。10月30日、日曜日。龍太の率いるバンドのライブは、街がすっかり闇に沈み切った時刻に始まった。
龍太のライブを見るのはこれでもう七、八回目になる。最初は慣れないロックの乗りに戸惑っていた萌子も、この頃はもうすっかり慣れっこになった。
スポットライトが飛び交うステージも、耳元で炸裂するような強烈な音も、慣れて来ると酔ったような心地よささえ覚える。周囲に合わせて手拍子を打ちながら、萌子はステージの中央に立つ龍太を見つめた。
龍太が高校生になってから中学時代の仲間と作ったこのバンドは、『ブルー・ハーツ』のコピーバンドである。コピーもやるがオリジナルもやる、なかなか本格的な連中だった。
もちろん、入場収入だけでこんなライブハウスを貸し切れる訳ではないが、それでも、知り合いを掻き集めたとはいえ40〜50人は入れそうなホールを観衆で埋め尽くすくらいだから、ちょっとしたモノではある。
白いTシャツにジーパンできめた外見に茶髪というアンバランスなスタイルは、それはそれで結構似合っていた。どちらかといえば童顔な彼の端正な顔は、早くも汗でびっしょりになっている。
「やっぱり凄いね!」
久しぶりに見る龍太のライブに興奮したように、萌子は手拍子を続けながら隣にいる薫に向かって声を張り上げた。
「龍太君、まるで芸能人みたい!」
「そうかね」
薫はといえば、もうこんな光景は見飽きたと言わんばかりに涼しい顔をしている。
「ねえねえ、龍太君本当に芸能界にデビューしないかな?」
「……でもあいつ、福山のスターを目指すって言ってたよ」
「ハハッ。龍太君が言いそうなことね」
オープニング曲を歌い終えると、額の汗を拭って龍太がスタンドマイクを引き寄せた。
「みんな、今日はありがとう」
飾り気のないそんな一言に、客席から一段と甲高い嬌声が浴びせられる。
「え〜約半年ぶりのライブです。みんな貧乏なんでこんなに時間が掛かっちゃいました。ちなみにベースの佐藤君が真っ黒なのは、土方工事のバイトのせいです」
龍太の小洒落たMCが、ひとしきり笑いを誘う。
萌子はすっと周りを見渡してみた。
圧倒的に女の子の数が多い。その大半が萌子と同じ高校生で、残りの大半が中学生らしき少女たちであった。
龍太の名前は、福山近隣の中・高校生たちの間で結構有名なのだという。
龍太のバンドが、ではなく龍太の名前が、である。
彼の通う高校は共学で、あまり福女の生徒とは交流はないのだが、それでも萌子の周りにも龍太の名前を知っている娘が何人かいる。
かっこいいよなぁ。汗を滴らせて爽やかな笑顔を振りまく龍太を見つめながら、萌子はほとんど直感的な素直さでそう思った。
幾らか色白な彼の肌は、間近で見ると女の子が妬みたくなるくらいツルツルなのだ。引き締まった面差しに、やんちゃそうな瞳が彼の好感度をぐっと引き上げている。
「しばらくぶりにみんなと会えた訳ですが、今度は佐藤君がホストでもやってくれない限り、またしばらく会えないかもしれません。だから今日は目一杯楽しんでいってください!」
龍太の叫びに、歓声が答える。
「あ、それから僕たちのアルバムが出来ました。て言ってもカセットテープですけど。皆さん良かったら、僕たちの借金まみれの人生を助けるために、後で買って行ってください」
またひとしきり笑いが起こった後、凄まじい拍手が沸き起こった。
小学生の頃から龍太は学校中で好感度No.1の、嫌みのない爽やかなヤツだった。
親の転勤で小学校に入学する直前に引っ越して、4年生の夏休み明けに戻って来た彼はすぐにクラスの中心人物になった。
その周囲にいるのは圧倒的に女子が多く、引っ込み思案な萌子なんか言葉を交わすことさえためらってしまいそうなほどだった。
龍太は元々は薫と仲が良かった。女子の間で既にリーダーシップを発揮していた薫は、転校して来た龍太とすぐに仲良しになった。
萌子にも龍太とよく遊んだ記憶はあるけれど、それは全て薫と三人の記憶だ。
萌子が龍太のことを本当に友達と感じることが出来たのは、小学校5年生の夏のことだった。二人の秘密基地だったあの102号室に、薫が龍太を連れて来たのである。
二人のために、龍太はわざわざギターを抱えてやって来た。
二人だけの観衆を前にギターを弾き語る龍太は、それこそもうウットリするほどメチャクチャ格好良かった。
龍太はその後しばらくのあいだ、秘密基地の住人になった。
6年生になる前に龍太は、今度は福山へと引っ越してしまったから、龍太ととても親しかったのはほんの一時のことだった。それからはせいぜい年賀状をやりとりするくらいの関係が続いた。
薫からライブへの誘いを受けたのは、高校に入ってすぐのことだった。訊けば、中学の頃から薫はずっと携帯やメールで龍太と連絡を取り合っていたのだという。
その話を聴いた時、
(やっぱり龍太君は、薫のことが好きなのかな?)
と萌子はそんな風に感じた。
あの頃、龍太は薫のことが好きなんじゃないかと、萌子は幼い心でそう感じていた。そしてそれはとても似合っているように思えた。
薫がどう思っていたのかは判らない。その頃お姉さん気取りの澄まし屋だった薫は、そんな龍太の気持ちを知ってか知らずか、いつも素っ気ない振りをしていた。
中学に入って薫に彼氏が出来た時には、きっと薫は何とも思っていなかったのだろうと、萌子はそんな風に思ったのだが。
龍太は子供の頃より更にあか抜けて、格好良くなった。
(龍太君と薫なら、ホントにお似合いなんだけどな)
その分ライバルも多そうだけれど。そんなことを思いながら萌子は、周囲にいる女の子の顔を見回した。と、その中に見覚えのある顔を発見した。
福女の3年生だった。直接の面識はなかったが、龍太と知り合いであることを知られると何かと面倒臭そうだ。そう思って萌子はそっと首をすくめてステージに視線を移した。
途端に龍太と目が合った。彼は心底嬉しそうに微笑むと、
「萌ちゃん! 元気かぁ!」
と大きく手を振り回した。
周りの視線が一斉に萌子に集中した。萌子はその痛いくらいの視線の嵐に、頬を真っ赤にして思わず俯いた。体中の血が逆流したみたいに、ドクドク言っている。
その後ライブが終わるまで、萌子は熱に浮かされたような気分のままで過ごした。
今まで味わったことのないような高揚感の中で、約二時間のプログラムはあっという間に過ぎていく。
ライブの終わりが近くなってから、龍太はオリジナルのバラードを感情込めて熱唱した。それからブルー・ハーツの『旅人』。終わりを予感した観衆の、惜しむような手拍子の中で龍太はその2曲を歌い上げた。
「あれ?」
コミカルで激しいリズムが唐突に止み、沸騰するような熱気の余韻が漂う中で、薫がそう愛らしく小首を傾げた。
「まだ、あの曲やってないやん」
「あの曲?」
そう問い返しながら、萌子は薫が手元で広げたプログラムを覗き込んだ。それによれば、『旅人』がラストナンバーということになっている。
こんな時間貸しのライブハウスで、素人バンドにアンコールに応えている余裕などあるはずがない。今までのライブでも、アンコールなんて観たことがない。
(あの曲って?)
「みんなありがとう!」
興奮が冷めないまま、場内に低くたれ込めているような雰囲気の中で、龍太が絶叫する。熱狂を引きずったままの客席から、怒声に似た歓声が上がった。
「最後に。今日ここにいる君に」
穏やかな声だった。誰に語り掛けているんだろう。龍太の声に、場内が一時不穏にざわめいた。
「僕は、君が好きです」
ああ、そうか。会場にいる一人一人に語り掛けているつもりなんだ。そう納得した観衆が再び嬌声を上げる。
「たとえ君が、僕を見ていなくても。そんな君のために、最後に、プログラムにないこの曲を贈ります」
最後もボーカル・ソロだった。一瞬、場内の明かりが全て消え、そして龍太の姿だけがステージの上で浮かび上がった。
『…もしも僕が いつか君と 出会い話し合うなら そんな時は どうか愛の 意味を知って下さい…』