序章〜踏切
(あ、パパ……)
赤いランプが点滅し始めた踏切で、萌子は線路を渡り終えようとする父の姿を見つけた。
まだ幼い萌子の、ちょうど目線の高さに遮断機が下りて来る。その場に立ち止まった萌子は、父の背中に向けて大きな声で呼び掛けた。
「パパ!」
夕闇が、尾道の街を静かに包み込もうとしていた。夕暮れ時の行き交う人々のざわめきの中で、それでもその声はかろうじて父の耳に届いたらしい。父の大きな背中がゆっくりと振り返った。
父の手に大きなバッグが見えた。幼い唇から、大人びたため息が漏れる。
(パパ、お出掛けかな……)
ちょっと寂しい気分に浸りながら萌子は、
「パパ。どこに行くの!」
と大きな声で問い掛けた。
父はこちらを向いたまま、じっと萌子のことを見つめていた。いつもならゆっくりと優しく微笑むはずの父の、そのどこか寂しげで真っ直ぐな瞳が、彼女の胸に小さな影を落とす。
「萌子」
父が発したその言葉は、夕暮れの喧噪に消し飛んでしまいそうなほど小さな声だった。届くはずのないその声を、それでも萌子はしっかりとその耳で捕らえた気がした。
「パパ……」
萌子の中に、急に駆け出してしまいたいような焦燥感が迫り上がって来た。
訳も判らず泣き出してしまった、小さい頃の夜と同じように。
そんな弱虫はもう卒業したつもりだったのに。萌子は今まで感じたことのないほどの不安に怯えた。
「パパ!」
遮断機をくぐり抜けて、萌子は線路の向こうへ駆け出そうとした。
その時、萌子の左手から列車が踏切に進入して来た。萌子を叱り飛ばすように、鋭く汽笛が鳴る。
萌子はびっくりしてその場に立ち尽くした。彼女の目の前をグリーンとオレンジのツートンカラーが通り過ぎて行く。萌子の心臓は、悪戯が見つかった時のように激しく波打った。
その列車は駅に停車するために、割とゆっくりとしたスピードを保っている。それでもあまりに軽い萌子の体は、その風圧に耐えかねるようにふわりと浮き上がり、後ずさった。
軽やかなリズムを刻んで走り抜けて行く列車の向こうに、父の姿が消えた。萌子は目一杯の声を張り上げて叫んだ。
「パパ!」
父が行ってしまう。どうにもならない苛立ちに、萌子はその場で飛び跳ねるように2度、3度と足踏みをした。
列車が走り去った踏切の向こうに、やっぱり父の姿はなかった。幼い彼女にそこまでの知識はなかったけれど、萌子は直感的に駅の改札に向かって走り出していた。
けれどもそこまでだった。大勢の大人が行き交う恐ろしげな銀色のゲートを遠目に見つめながら、萌子はなす術を知らずにただ立ち尽くした。
幼子の背を、夜が静かに包み始めていた。