「だから僕は」
「お願い、雨夜!!」
僕らの通う高校の、僕らが所属しているクラスにて。
自分の席に座っている僕の前で、委員長──汐崎美咲が、腰を曲げて頭を下げて、まるで懇願しているかのように、両手を合わせていた。
学校に行って、朝のSHRが始まるまでの少しの時間に、唐突に僕の前に立って、唐突にそう言ったのだ。まあ、理由はなんとなく分かるんだけどさ。僕はそれを机の上にアゴを乗せて、ダルそうな目で、睨む。
暫く待っていると、下げていた頭を勢いよくあげて委員長は。
「小坂井さんと仲直りしてほしいんだ!!」
と、言った。
やっぱりか。と、思った。
委員長が人にここまで必死こいて、腰を低くしてまで頼み込む姿なんてあまり──いや、案外よく見たりする風景だからか、特に心を動かされることもなく──そもそも動かされる心自体がなく、僕は半目に開いた目で、それを見上げて。
「やだ」
と、返した。委員長は、眉を顰めて、駄々っ子を見るような顔つきに変わる。
「ええー……でも、もう一週間は経つんだよ。いつまでケンカしてるつもりなんだい?」
「一ヶ月経とうと一年経とうと、僕がボケる年になったとしても、許す気はさらさらない。人の恩人を拉致しておいて許されると思うよ」
「はぁ……君のその友達を大事にしようっていう精神は評価すべきなんだろうけど、いささかオーバーというか、やりすぎというか」
ふんすと、鼻息荒く、机に身を預けている僕を前に、委員長は肩を落として、本気で怒っているという意思表示か、口をヘの字に曲げた。
「ただ私が拉致られただけじゃないか、傷つけられたりもしてないし、死んでもいないでしょ?」
両手をばっと広げて自分の無傷をアピールした。
確かに、外れていたはずの右腕は、しっかりと動いている。叩っ斬られていた肩はくっついているし、生気のなかった目も光り輝いている。死にかけていたはずの委員長は、今もこうして生きていて、元気溌剌に、事実とは違う事をほざいている。
「……ホントに忘れてんだな」
「え、なにか言った?」
「ホントは拉致られた後、包丁を手の甲に刺して、壁にキリストみたいに磔にされて最終的には右腕と身体を引き離されて、お前、死にかけてたんだぞ」
──なんて、言えるはずもなく。言ったところで『なに言ってるの?』と、真剣な顔で、僕の正気を疑うこと間違いなしだ。
委員長だって、小坂井の能力が──『深想記憶』という能力が、記憶を遡る能力で、その応用で相手の記憶を消すことが出来るぐらい、容易に想像できそうなものなんだけどな。
「……」
委員長を半目で、睨む。
「ん?」
委員長は首を傾げた。
……。疑わないんだろーなー、この人、善い人だから。もしも、この世界が推理小説だったとしたら、とことん探偵役は向いていないタイプの人だ。人を疑う事を知らない──人を信じることを知ってる人だから。
「……? どうしたの、いきなり黙りして」
「あ、いや。なんでもない」
「……そう? なら、いいんだけど。風邪とかなら、早く保健室に行った方がいいよ」
「ああ、うん……分かった」
「それよりも雨夜。思いだしたよ、そもそも私は彼女の部屋に遊びに行ってたんだ。いやー、今まですっかり忘れてたよ」
恥ずかしそうに、委員長は自分の後頭部を撫でている。なるほど、つまり遊びに行ったら磔にされたんだな。なにそれ恐い。
「あそこは空き部屋だ。小坂井の部屋じゃない」
「え、そうなの?」
「そー。あいつ僕の部屋に居候する理由を作るために、わざわざ寮をでてるんだよ」
「そ、そうなんだ。へー、彼女そこまでしてたんだ、へー」
「そこまでしてたから、僕は部屋に入れたんだよ」
僕が頷くと、委員長は困ったように「うーうー」言い出して、誤魔化すように。
「あーもう!」
と、机を強く叩いた。
その音に驚いたクラスメートが僕と委員長を見たけれど、すぐに自分の世界に戻っていった。
委員長が叩いた机、僕の隣の席は小坂井の席なんだけど、今日は学校に来ていない。さらに言えばこの一週間ずっと来ていない。
彼女はあの日以来、僕との約束である『僕と委員長の視界に今後一切、入ってくるな』をきちんと守っているのだった。
「……これだけは差別というか区別というか、とにかくきみを傷つけてしまうだろうから、言いたくなかったんだけど──」
委員長は渋々と言いたげな顔で、僕の顔を指さした。怒っている、という割には全くを以て怒気が含まれていない、ダルそーに、机に全体重を預けている僕の顔を指さした。
「きみには感情がないんだから、怒ったりなんか出来ないはずだよね?」
「……」
「なのにきみはどうして、そこまで頑なに彼女を拒絶するの?」
「……なあ、委員長」
「なに?」
「友達を……『自分を大切にしてくれる人をきみも大切にしなさい』って、いったの委員長だったよな」
「うん? うんまあそうだね、友達は大事だし大切な存在だ」
最初は思いだせていなかったらしい委員長だったけれど、次第に思いだしてきたのか、最後の方はしっかりとした返しだった。僕はそれを見やって。
「だから僕を大切にしてくれる大切な人──委員長を傷つけたあいつを許さない」
「……なにそれ、告白のつもりなのかな?」
「告白?」
「ああ、なんだ。天然か。雨夜、そんな言い方をするのは好きな人相手だけにしなさい」
「そんな言い方って……大切な人か?」
「そう、勘違いされかねないよ?」
「……? 分かった」
首を傾げながら、答える。まあ、委員長が言うのだから、それが正しいんだろう。と思いこみながら。
「まあ、きみらしいといえばきみらしいけど……きみはりちぎだね」
「そうか?」
結構約束を破ったり、裏切ったりしてるつもりだったけどなー。というか委員長、りちぎ、をひらがな表記にしてないか?
いや読めるからね、書けるからねそれぐらい。津議。ほら。
「うん、見事なまでに間違ってるね。読めてないし書けてないね」
「おう……」
机の上に書いたら、ツッコまれた。あれ、こんな感じじゃなかったっけ?
「正しくはこう、ちゃんと覚えておくようにね」
律儀。
津議。
うん、似てるな。似てるよね?
「へーい」
「それでなんの話をしていたっけ。ああ、そうそう。きみがり、ち、ぎ、だって話だったよね?」
クスクス笑いながら、わざわざ一文字ずつ区切って話す委員長。楽しそうだなー。
「例えば、前まで遅刻ギリギリだったきみにせめて十分前に来るように心がけたら? って言ったら本当に十分前にくるようになったよね」
十分前ぴったりに、遅れることも早く来ることもなく。ぴったりと、来るようになったね、と、委員長は言った。確かに今日もピッタリ十分前についたから、朝話す暇があるわけなんだけど。
「律儀というか、忠実というか、下僕体質というか、約束事は絶対守るよね」
「……巌のジジイとの約束だからな。『友達を裏切るな』『約束は守れ』『目上は敬え』」
「いいおじいちゃんじゃないか」
「もう死んじゃったけどな……それを守らないと、僕が僕でなくなる気がしてな」
約束を違えば、今までの自分を否定しているような気がして、今まで作ってきた偽者の自分を否定しているように思えて、また昔の、なにもない自分に戻ってしまうような気がして仕方がないのだ。
目の前が真っ暗で、何も聞こえなくて、何も触れなくて、何も感じれなかった時まで戻ってしまう気がして仕方がないのだ。根拠はないけど。
「だから僕は約束を守るよ。絶対に、どんなことでも。友達との約束なら尚更だ」
「なるほどね、破ってるじゃないか」
「……え?」
今度は僕が素っ頓狂な声をあげた。あれ、なにか僕約束破ったことあったっけ?
「彼女の隣にいてあげて。精神安定剤になってあげて」
えっと、なにを破ったんだろう。遅刻はしてないし、朝食もちゃんと食べてるし、帰り道で買い食いとかもしてないよなー。と、うんうん、一休さんみたいに頭を両側から拳でグリグリ抑えつけていると、委員長があっさりと答えを教えてくれた。
「遊園地できみが弁当の中身を吐くべきかどうか電話してきたときの約束」
「……ああ」
そういえば、そんな話もしていたな。
「なのに、きみは今彼女の隣にいないね。どうして?」
「どうしてって……そりゃあ、委員長を」
「約束破るの?」
「いや、そういう訳じゃないけど」
「おじいちゃんと私、二人との約束を三つも破るの?」
「だからそういう訳じゃあ──三つ? 約束を守れ、と彼女の隣をいなさいの二つじゃないのか?」
「『自分を大事にしてくれる人をきみも大事にしなさい』。多分、今一番きみを大事に思ってるのは、小坂井さんだと思うけどね」
「いやだからって、あいつは……」
「それともきみは差別するの? 友達を差別するの?」
「だから──」
記憶がない、というのがここまで面倒だと思わなかった。僕にとって小坂井は、恩人を拉致監禁して殺しかけた味方ではない奴。
委員長にとっては、いつも通りの友達。ちょっとへましただけの友達だ。
そのちょっとした違いが、中々どうして、めんどくさい。
「あーもう、面倒くさいなきみは。約束は守るものなんでしょ?」
委員長は、その艶やかな黒髪を乱雑に掻いた。それでも委員長の髪はボサボサになることはなく、まるで櫛に梳かれたように、綺麗に整った。これがもし小坂井の髪だったら、いつも以上にボサボサになるんだろうな、とおも──どうして今、小坂井がでてきたんだろうか。
「そりゃあ、そうだけど……」
「だったら私との約束を守って、彼女の隣にいなさい」
委員長は命令口調で、拒否権はない、と言わんばかりに言った。
「……」
僕には。
僕には感情というものが欠落て、委員長がどうしてここまで必死になっているのか、全く皆目見当がついていなかった。
知識としての感情はもちろんあるし、長年それと向き合って生きていたおかげか、どうすれば笑ってるように見えるか、喜んでるように思われるかは分かってきたし、ちゃんと日常を送れている。委員長からはよくやりすぎ、と言われるけど。
それでも、持ってないなりに、感情については誰よりも知っているつもりだった。
それでも、委員長がここまで他人のことなのに頑張れるのかは、分からなかった。
あくまで他人なのだから、友達とはいえ他人なのだから、そこまで介入しなくてもいいだろうに、と思う。けど、委員長がしているのだから、それが正しいんだろうとも思った。委員長が言ってることは正しいと思った。
だから僕は。
「返事は?」
「分かりましたよ」
意見を変えるのに、そう苦労はしなかった。
僕は、朝のSHRまでのほんの数分で、一週間保ってきた意見をさらりと、変えたのだった。
これがまあ、委員長の言うところの、不安定でなにも考えていない、次になにをしでかすかわかったもんじゃない危なっかしさとかいうやつなんだろーなー。とか考えながら。
雨夜には心がなくって、空っぽで、それゆえに自由気ままで、だからか、人の意見に流されやすくて、不安定な子です。